七十 翠令、立ちはだかる関門を知る

文字数 4,735文字

 これまで黙っていた梨の典侍がおずおずと口を開く。

佳卓(かたく)様はいつお戻りになるのじゃろうか? 都の変事は東国にもいずれ伝わるでありましょう?」

 ここに居る誰にも良い考えが思い浮かばないのなら、知恵者の佳卓を頼ろうとするのは自然な発想だ。

 だた、問われた佳卓の兄は首を横に振った。

「もちろん円偉(えんい)は佳卓に何らかの使者を送るでしょう。しかしながら、佳卓が円偉からの正使の情報を元に動いても……。それでは佳卓一人で帰京することになる」

 翠令が怪訝そうに問うた。

「お一人でも、佳卓様にお戻りいただければ何とかなりませんか?」

「佳卓は今のところ、燕の呪法を使う錦濤の姫宮に誑かされたことを理由に、武官としては失脚しているところだからね」

「……」

「かつて手足のように使っていた近衛は、今は彼のものではない。主だった官職は円偉派に()げ替えられている。佳卓個人がいかに優れていても、今の彼は何の力も持っていないんだ。戻ってきても出来ることはほぼ、ない」

「ですが……」

主要な官職を円偉に押さえられても、数の上では佳卓様の見方が多いはずだ。

「佳卓様に心寄せる者達が力を合わせれば……」

「翠令、武官は組織で動くんだ。佳卓も趙元(ちょうげん)も近衛大将の地位を事実上失い、朗風(ろうふう)もどうなるか分からない。彼らの下に配属している武官たちは、彼らの命もないのに動くことはできない」

翠令は食い下がる。

「それでも反骨精神のある者はいるのでは?」

佳卓の兄の事態を見る目はどこまでも客観的だ。

「組織に在りながら離反することは難しい。それに公の武人が私情で動くのは望ましいことでもない。いかに円偉に反発しても上官の命令なしには動けないと考える武人も多いだろうし、それを責めるわけにもいかない」

「しかし、私は黙っていられません。刀を取って立ち上がりたい。それは趙元様や朗風様も同じでは? たとえ反逆者となろうとも呼応する武人もおりましょうし、都人(みやこびと)の中にも味方は現れるのではないでしょうか」

「数を当てにするものではないね。仮に民の中から私兵を募ってみても訓練された武官には敵うまい」

ここで、彼は「それよりも」と翠令とは違った考えを述べ始める。

「佳卓に東国からまとまった数の兵士を率いてもらう方が現実的だ。刃を交わさずとも、円偉を交渉の場に引きずり出せるほどには圧力となる数の軍勢をね」

 翠令には思いがけないことで、口の中で「東国から軍勢を……」と繰り返す。

「東国の武人は実戦に長けているから強い。東国からの兵というだけで朝廷の兵士を威圧できる。そして、東国の有力者たちは朝廷にというより、佳卓との個人的な信義で結ばれているところが大きい。佳卓が頼めば力を貸してくれる者も多いだろう」

 翠令が明るい声を上げた。

「では!」

 しかし、佳卓の兄は渋面を崩さない。

「翠令、落ち着いて最初から考えて欲しい。このままでは円偉が自分に都合のいい情報しか佳卓には送らない。そして、佳卓はほぼ単騎で帰還することになる」

「都合のいい情報とは……」

「例えば錦濤の姫宮が急病だとか、だね。佳卓を丸腰で迎え入れられるなら、別に嘘でもなんでもいいわけだから」

 姫君が御簾から佳卓の兄に声を掛けた。

「朝廷との使いとは別に使者を立て、東国に居る佳卓に我らの窮状を知らせることはできませんか?」

 そこです、と佳卓の兄は顎に手を当てた。

「姫君のおっしゃる通りです。独自の使者を立てねばなりません。そして、その使者は佳卓と(よしみ)があって相当に信頼されている者でなくてはなりません。朝廷の正使よりも正しい情報だと分かってもらわなければなりませんからね」

 翠令は趙元や朗風などの顔を思い浮かべる。

「誰か……佳卓様の麾下に頼んで……」

 やはりここでも佳卓の兄は首を振った。

「ここで頼りに出来そうな者達は既に円偉に動向を見張られている。また、朗風によれば衛門府の武人の他に、円偉が独自に宮城の門に人の出入りを検める人員を置いているとか。朗風が衛門府の職域を侵す越権行為だと抗議しているそうですが、円偉は聞く耳持たない」

「しかし……」

「さらに、宮城の次には関所がある」

 姫君が佳卓の兄に尋ねた。

「東国に向かう不鹿の関ですね。固関(こげん)はどうなっていますか?」

 街道に設けられた主要な関所は、朝廷に変事があれば閉鎖される。これを固関と言う。

「父の左大臣によれば、錦濤の姫宮を廃太子とし、竹の宮の姫君をお迎えした此度の政変を受けて関を閉じる固関がなされたとか」

 翠令はじれったい気持ちでつい腰を浮かせてしまう。

「その関を破ることはできませんか? 扉をよじ登るとか」

 佳卓の兄が苦笑を向けた。

「扉をよじ登るなど極端なことをしなくとも、使者が何人かくらいなら通過できるよ。もともとその土地の民や、税を京の都に運搬する用事がある者などは普段通り通れる。だから、京から佳卓に使者を送るのは大して問題ない。問題は佳卓が東国からまとまった兵を率いてくることが出来ない点だ。二十人を超える集団は開関(かいげん)という手続きをしなければ通れない」

「開関というのは、ええと……」

「後宮の清涼殿にある割符を不鹿関にある割符と照合させるんだ。この割符──関契というが──を持ってさえいれば開関は出来る。佳卓が東国から軍勢を率いて来るなら開関が必要となるが……しかし後宮から関契を持ち出すにはどうしたらいいか……」

 この内裏は帝の住まい。たとえ扇一つ持ち出すことも容易(たやす)くはない。

「そこも含めて佳卓様に知恵をお借りできればいいのですが……」

 姫君が尋ねた。

「佳卓宛に文を出してはどうですか。わたくしの手蹟を佳卓は知っています。わたくしが書けば誰からの文か分かるでしょう。文箱だけなら京から東国まで出すことが出来ましょうし、そしてどうすればいいのか佳卓の考えを文で届けてもらう……」

 佳卓の兄は、これにも渋い顔をせざるを得ない。

「やはり不鹿関が問題です。関を通過するところで、持ち物は全て改められてしまうでしょう。そのための関所なのですから……」

「……」

「関所で文が取り上げられてしまっては我らの意図が筒抜けです。もし、行きは無事だとしても、佳卓が解決策を書き送ってくるならそれも関所で取り上げられてしまう可能性が高い」

 梨の典侍が天を見上げて嘆いた。

「困ったことじゃ……。人間を送ればその者が上手く言い抜ければ関を越えられようが……されど、我らが信を置ける人間が既に円偉の監視下で京を抜け出すことも難しいのでは……」

 翠令の頭に考えが閃き、それをそのまま口に出す。

「私……私が使者に立つのはどうでしょう?」

 御簾内で姫君と典侍がはっと顔を翠令に向けた。御簾越しに佳卓の兄からの視線も感じる。

「失踪した女武人翠令の行方は円偉たちに知られておりません」

 そうだ。まさか御所の後宮に女房姿でいるなどと、円偉側の誰が想像しているだろう。

「私が女の格好をするなど予想外です。さらに、下女の格好をすれば……」

 佳卓の兄がふむと頷いた。

「確かに……誰かの邸宅を円偉の手の者が見張っていても、下男下女は日常の用を足すために自由に出入りしているね」

「でしょう? このまま女房姿でどこかの邸宅に行き、どこかの邸宅で下女の格好をする。下女の動向まで円偉とて把握しようとしないはずです」

 典侍が心配そうな表情を浮かべた。

「されど女君一人で東国へ向かわれるのか? 盗賊などに襲われでもしたら……」

 翠令は笑い飛ばす。

「刀さえあれば私はただの女ではありません。これでも錦濤に居た頃は邸内に押し入ってきた賊を斬り捨ててきたものです」

 佳卓の兄が考え深そうな声を出す。

「賊を相手に切り結ぶ腕は翠令にある。私もそう佳卓から聞いている。それでも心配は心配だ……。それに、翠令については賊よりも気がかりなことがある」

 姫君が問うた。

「何ですか?」

 佳卓の兄はため息を一つつく。

「佳卓がいつか翠令と共に東国に行きたいと言っていた。ただ、それはずっと先になるだろうとも予測していた」

 翠令にとっても忘れられない遣り取りだ。

「ええ……。そのようなお話をしたことがあります」

「翠令は山のない錦濤の港近辺の平野しか知らない。だから坂を登った経験がほとんどない。そこで、しばらく東山あたりで山道に慣れる必要があるだろう……とね」

 そうだった。この都は東を含めて三方を山に囲まれている。これらの山々は必ずしも高い部類に入らないそうだが、これくらいの山でさえ翠令は登ったことがない。

「東国までの距離は長い。男の私でもたじろぐほどだ。しかも山道が多い。翠令は武人として短時間の勝負には臨めるだろう。しかし、長旅を歩き通す体力があるかどうか……」

 姫君が「ならば輿はどうですか?」と、典侍が「牛車か馬かは如何であろう?」と口にした。それぞれが思いつく乗り物を挙げたものだろう。

 佳卓の兄は「輿は論外、牛車も山道は登れない」と苦笑した。

「馬も……公の使者であれば使えようが……。翠令はただの貧しい民に身をやつして移動する。その姿で馬を使っていては不審に思われるだけです」

「そうでございますね……」

 その場に沈黙がおりた。

 姫君が静かに「翠令に東国行を頼むのは無理なようですね」と呟いたが、即座に翠令は姫君に顔を向けた。

「いいえ、いいえ! 私は東国に参ります!」

 佳卓の兄が言う。

「先ほどから言っているように、翠令には負担だ。それに、佳卓に会ってもどうにもならないかもしれない。彼も策を思いつくとは限らない」

 これにも翠令は瞬時に応じた。

「それでもこうして手をつかねているよりずっとましです」

 そして続ける。

「行かせてください。私は責任を感じているのです。錦濤の姫宮の守刀とまで称されておきながら、みすみす姫宮を窮地に立たせてしまった。それから佳卓様も!」

「佳卓も?」

「あの時、昭陽舎で姫宮と円偉が対立なさったとき、私は短慮を起こして合議の場に乗り込もうとしました。佳卓様が止めて下さいましたが、そのことで事態を拗らせてしまったのもあると思うのです。責任の一端は私にもある」

「しかし……」

「このままでは事態の打開が望めません。錦濤の姫宮は罪人の汚名を着せられ、西の遠国に流されてしまう。竹の宮の姫君は右大臣となった円偉を拒み通すことができなくなる。佳卓様は円偉の望むような生き方しか許されない……。そしていつか破綻する……」

 再び皆が沈黙する。

 ふうっと細い息がした。姫君が背筋を伸ばし、翠令を見ていた。

「円偉のような独善的な人物に朝廷を牛耳らせるわけにはいきません。そのためには、佳卓が名案を思い付いてくれる可能性に賭け、翠令に東国に行ってもらうより他に案はないようですね……」

 翠令は力を込めて頷いた。

「はい」

 姫君がついっと身を動かし、翠令のもとへいざり寄ってきた。翠令は目を見開く。姫君は白く細く、そしてひんやりとした手を差し伸べ、翠令の手を両手で包むように握る。

「わたくしは御簾内より動くことができぬ。山を越えるどころか、この後宮の庭すら自由に動いた経験もない。こんな何も出来ないわたくしが、翠令に非情な命を下します。どうか許してほしい」

 翠令は首を振る。

「いいえ、そのようなことおっしゃらないでください。私が私の判断で申し出たことです」

姫君はふるふると首を振った。

「でも、危なくなったら必ず戻っていらっしゃい。上手くいかなければ、別の手立てを考えるのが主公の務めでです。くれぐれも命を粗末にしないように」

「……」

「貴女に万一のことがあれば、錦濤の御方と佳卓に恨まれてしまいます。必ず生きて、無事にわたくしに顔を見せてください」

 翠令は姫君の手を握り返し、力強く肯った。

「はい! 必ず!」


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