六十七 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(一)

文字数 3,563文字

 翠令は女房に扮して久しぶりに内裏へ入る。
 梨の典侍が清涼殿の南の廂で、佳卓の兄と並んで翠令を待っていた。

「竹の宮の姫君をお世話申し上げるにあたって、かような良き女房をお借りでき助かり申す。それでは、姫君がお入りになられた襲芳舎に参りましょう」

 翠令には聞き慣れない名称だった。

襲芳舎(しゅうほうしゃ)?」

 典侍は「ああ、翠令殿には初めての場所であったの」と独り言ち、そして説明してくれる。

「襲芳舎は内裏の西北の隅の建物。東南に配された昭陽舎からは最も遠い場所じゃ。竹の宮の姫君は昭陽舎に辛いご記憶がおありゆえ、後宮七殿五舎の中で最も離れた場所を使いたいと仰せでの」

「なるほど……」

「帝のおわす清涼殿や後涼殿と廊で繋がっておりますが、今は帝が臥せっておられる。近くを通る折にはお二人ともどうかお静かに」

 典侍を先頭に畏れ多い気持ちで清涼殿の背後の後涼殿を通り過ぎる。飛香舎(ひぎょうしゃ)まで来たところで帝のことが気になった翠令が小声で佳卓の兄に尋ねてみた。

「帝のご体調は……」

「やはり斯様な政変は心身にご負担であったようでね。寝込んでおられる時間が増えてしまわれた」

「それは……おいたわしい……」

「円偉は一時的なものと言うが……」

「……」

 円偉の名など聞きたくない翠令は押し黙る。彼もこの話題を続けない。翠令同様に円偉を厭う竹の宮の姫君が待つ襲芳舎が見えて来たからだった。

 梨の典侍が佳卓の兄の先触れとして、襲芳舎の母屋(もや)の御簾内に声を掛ける。

「もうし、客人をお連れして梨の典侍が参りました。……よろしゅうございますか」

 御簾内から玲瓏とした声が聞こえた。

「梨の典侍と、それから翠令と申す者は御簾内までお入りなさい」

 佳卓の兄は御簾の外の円座に腰を下ろし、典侍に続いて翠令が御簾内に入る。

 御簾をくぐって中に入り、竹の宮の姫君を目の当たりにした翠令は言葉を失ってしまった。

 何度も話を聞いていたが……本当にお美しい。間近でお会いしてみて、ここまでろうたけた見目麗しい女君がいらっしゃるとは驚きだ。手で一抱えできそうな小柄で華奢な姿に、抜けるような透明感のある肌、吸い込まれるような独特の光を放つ黒々とした瞳……自分とは別世界の生き物のようだ。

 そして、想像していた弱々しい印象と異なり、背筋を正して畳の上に座ってらっしゃる姿には気圧されるものがある。

 梨の典侍が御前で平伏して挨拶をする。その肩が細かく震えているのは嗚咽を堪えているのだろうか。

「姫宮様、お久しゅうございます」

 典侍はで姫君を「姫宮様」と呼んだ。この姫君が幼い頃、そうお呼びしていたのだろう。

「久しぶりです、梨の典侍」

 姫君からも緊張の解けない、固い口ぶりの一言があったきりだった。典侍は顔を床に伏せたまま上げようとしない。姫君もあまり典侍を見たくはないようで、すると傍らの翠令に視線が向かうこととなる。

「そなたが翠令ですか。女の武人と聞きますが……普通の女房に見える」

 佳人は声にまで澄み切った美しさがあった。翠令は貴人相手に少し声が上ずってしまう。

「女…女装致しておりますゆえ」

 姫君の頬が少しだけ緩んだ。

「女装?」

「錦濤の姫宮には男の装束で控えておりました。お許しいただければ今からでも着替えて……」

「御所の殿上に男の格好で侍っていたのですか。しきたりに煩い梨の典侍がよく許したもの」

 翠令は息を吸い、そして勢い込んで答えた。典侍のこれまでの厚情に応えたい。

「な、梨の典侍には本当にご理解を頂きました。私も、そして私を連れてこられた錦濤(きんとう)の姫宮もどちらも御所のしきたりなど知らない鄙育ち。されど梨の典侍は精一杯受け入れて下さった」

 翠令は真剣に続ける。

「それもこれも、典侍殿が貴女様にしきたりを強いて不幸を招いてしまったのではないかと深く後悔なさっているからこそ。これほど年齢を重ねた女性が、己を曲げられること、なかなか出来るものではありません。どうか梨の典侍の深い悔恨に免じてお許しになって下さいませ」

「……」

 姫君の無言に慌てて翠令は言い足した。そうだった、許す許さないと第三者が軽々しく言える話ではなった。

「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました。鄙育ちゆえの無礼とお叱り下さい」

「……」

 この女君が昔の傷を思い出すより、自分の無作法に怒ってくれる方が翠令にはましだと思えた。

 その翠令をじっと見つめてから姫君が口を開く。翠令がその名を出した、錦濤の姫宮について話題にするためだった。

「錦濤の姫宮と申す御方は快活で大らかなお子と聞きました」

「さ、さようでございます。お心の真っ直ぐなお方でございます」

 翠令は声を張り上げた。

「決して! 決して、貴女様を呪うような方ではいらっしゃいませんっ!」

 姫君は静かに頷き、「もう少し小さな声でも聞こえます」と小声で返した。

「姫宮は、叔母に当たる貴女様を気遣っていらっしゃいました」

 佳卓の騎射を見たあの日。その夜に姫宮はおっしゃったものだ。「私が御所で頑張れば、叔母上を治療に専念させて差し上げることが出来る」と。
 それに、この御所を追われる際にも「政変に巻き込んでしまい申し訳ないことをした」と詫びておられた。

 翠令の話を聞き終えた姫君の表情がやわらぐ。大きく表情が崩れるわけではないが、軽く唇の両端を上げ、目を細めるだけで温かい感情が伝わってくる。

「わたくしも錦濤の御方が呪詛をしたなど全く思っていません。そもそもわたくしは最近になってようやく病と闘う道筋が見えて来たばかりです。錦濤の御方が東宮になられる前に、わたくしの病が癒えていたことなどありえません。呪詛など円偉のでっちあげです」

 翠令は大きく安堵の息を漏らした。よかった。当の姫君は事情を理解して下さっている。

「錦濤の御方は、自身も大変であろうに、わたくしを気遣ってくれましたか……」

「ええ、ぜひお元気になって頂きたいとおっしゃっていました。お元気になったら市に出かけて、お菓子を買うなどして……。そのような楽しい時間をお持ちになれればいいのにと願っていらっしゃいます」

 ここで翠令は自分が迂闊であったことに気づいた。

「あ、ええと……。お忍びでお外に出られることがあれば……ということでございますが……」

 姫君は微かな笑みを浮かべた。

「錦濤の御方がこっそり大学寮や市に出かけたこと、白狼から聞いています」

 そして哀し気に目を伏せた。

「白狼も一緒に市に行こうと、いえ、もっと遠くまで一緒に出掛けようとわたくしを誘ってくれましたが……」

「姫君……」

 姫君は想いを振り切るように視線を上に戻した。

「錦濤の御方はわずか御年十だというのに、思いやりの深いこと。わたくしが十歳の少女の頃には、この世に自分ほど不幸な人間はいないと思っていました。そして世を恨むことしかできなかった……」

 それはあの豺虎(けだもの)に襲われてのことだろう。翠令は深く同情する。

「それは……貴女様の境遇では当然かと……」

「もちろん十歳の少女に何の罪もなかった。あの豺虎に襲われてその憤りと恐怖、不安がわたくしを苛み、他のことを考えることなどできなかった。自分の不幸と病と幸と戦うことで精一杯で、他人を思いやれない時期があったこと、周囲には済まぬことだが仕方ないとも思う。ただ、そのまま自分の不幸を見つめているばかりでは、わたくしはいつまでも心癒えぬままであったでしょう……」

「……」

「わたくしは外に暮らす人は皆幸せな光に満ちた暮らしをしているのだろうと何とはなしに思い込んでいました。けれど、白狼が私に外の世界を教えてくれました。宮城の外の民もそれぞれの不幸を生きている……」

「不幸……」

「白狼の育った妓楼街の女たち。貧しい男たち。それに、白狼自身もまた胎にいる頃から母親にその存在を忌まれた不幸な生い立ちです。不幸なのはわたくしだけではありません。誰も同じではありませんし、比べれば不幸の度合もまちまちですが、比べるものでもありません。人はそれぞれの不幸を抱え、そしてそれぞれの方法で生き抜こうとしています」

 姫君は袖の中で拳を握られたようだった。務めて冷静に振る舞っておられるが、内心でこみ上げるものがおありなのだろう。

「白狼が民の姿を教えてくれて、わたくしは独りではないと思うことができました。皆、それぞれに自分の不幸と向き合いながら日々精一杯に生きている。わたくしだけではない。そして──白狼は言ってくれました、『一日一日を生き延びろ』と。『一日生きた分、過去から遠ざかっている』と」

 姫君は目を瞑った。瞼が小刻みに震え、一筋涙が零れ落ちる。

「そして──『その先に希望があると信じて走れ』とも。だからわたくしは諦めません。わたくしだけでなく、白狼も、錦濤の御方も、翠令も──誰もが幸せになる方策はあるはずです」

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