四十四 白狼、外界を語る

文字数 5,109文字

「嬢ちゃんは女童の格好をしてこっそり内裏を抜け出したそうだ」

錦濤(きんとう)の御方が一人でですか?」

「いや、翠令って女武人と一緒だ。だが、翠令だけでは襲われても相手ができなくてな。ああ、言っておくが翠令の剣の腕は確かなんだ。だが、嬢ちゃんを人質に取られるとそれを封じられてしまう」

「白狼……。わたくしに分かるように順を追って説明して下さい。まず初めに、なぜ錦濤の御方は大学寮に行こうと思ったのですか? まだ十歳ばかりの少女だと聞いていますが」

「ああ、済まん。俺は説明が下手だ。ええと……」

 白狼は、錦濤の姫宮が円偉の本ばかりでは息が詰まりそうだと思って大学寮に他の本を探しに出たというところから話を始めた。そして、円偉に批判的なことを翠令が言ったばかりに帰り道で円偉派の学生の手下に襲われ、白狼がそこを助けたことも話した。

 姫宮を救った白狼に梨の典侍が上等な酒を奢ったこと──梨の典侍の名前を竹の宮の姫君に向かって出していいのか一瞬躊躇ったが、それも話した。

 姫君は少し考えてから言葉を発した。

「質問をしますが……」

「ああ、俺の話が分かり辛かったか……」

「いえ、わたくしが錦濤の御方やその周りの人間をよく知らないからだと思います。錦濤の方は大学寮まで歩いたのですか? 輿(こし)も牛車も使わず?」

「そんな距離じゃないだろう? 大学寮は朱雀門のすぐ南だ。ちょっとしか歩かない」

「わたくしは昭陽舎の庭に降りることすらほとんどありませんでした。内裏の外まで歩ける気などとてもしません」

「妙な生活だな。脚があればそれを使って好きに出かけるのが普通だろうに」

「それがしきたりです」

 姫君は口を引き結び、少し俯いてから顔を上げた。

「しきたりと言えば、わたくしの知る梨の典侍はしきたりに厳しい女官でした。典侍は錦濤の御方を止めなかったのですか?」

「翠令から聞いた話では、梨の典侍という女は、あんたにしきたりを強いた自分を後悔しているそうだ。だから、錦濤の嬢ちゃんには、好きにさせてやりたいと思っているらしい」

「そうですか」

 姫君は無表情だった。だが、彼女は意識してそうしているのだと白狼は感じる。今しきたりに囚われないでいられるのなら、過去においてもそうであって欲しかったと悔しいのだろう。

 ここで感情を露わにしないのが彼女の気丈なところだと思うが、だが、こうして自分の感情を封じ込めてしまうことが溜まり溜まって錯乱するような重篤な心の病に繋がってしまうのかもしれないと白狼には思われた。

 姫君は一つ息を吐き、話題を錦濤の姫宮に移した。

「錦濤の御方はまだ十歳の少女のはず。大学寮の本を読むのですか?」

円偉(えんい)って奴の本よりは面白い本が読めたんだそうだぜ。俺にはよく分からんが」

「それはそうですね。円偉はわたくしにも燕の哲学書を送ってきます。わたくしは他にすることもないので一応読みますが……。子どもに面白いものではありませんし、あのような書物以外にも様々な本に触れておくべきでしょう」

「へえ、あんたはそう思うのか……。翠令によると、嬢ちゃんの周りの大人達は、その円偉って奴が重んじてる『徳』だの『仁』だのの本を読めとうるさいらしい。嬢ちゃんが他の本を読みたがっても、そんなのは読む値打ちなどないと鼻で笑われる雰囲気があると聞くが」

「その『徳』や『仁』は、民に幸福をもたらすために学ぶものです。ですが、それだけしか知らないようでは意味を成しません。民の実情がどうであるかも知らなければ、その『徳』や『仁』の活かし方も分からないではないですか。父様(とうさま)兄様(あにさま)もそうおっしゃるでしょう──そう言えば、白狼だって同じことを言っていたではありませんか」

「俺が? 何か言ったか?」

「ええ、白狼自身が言っていたことです。仁を施すということで散発的に粥を配っていても貧しい民を根本的に救うことにはなりません。民にとっては粥よりも職の方が望ましい──そう白狼は言っていました。『仁』という思いやりの気持ちと、それをどう具体的に表すのかという行動とがきちんとかみ合っていなければならぬことの一例でしょう」

「ああ、なるほど。うん……そうだな。独りよがりは良くない。盗賊の頭もそうだ。手下の事情もいろいろある。子どもが多くて食料が欲しい奴もいれば、妻を迎えたばかりで女物の派手な衣が欲しい奴もいる。盗んだ品を分けるときも、それぞれの希望をきいてやらなきゃならん。そこを怠るとせっかく盗んだ意味がない」

 姫君は「まあ」と、袖を口元に当てて笑いをかみ殺した。

「政と盗賊のありようを同じように考えるのは白狼くらいでしょうね。でも、確かにそうかもしれません。父帝も一人一人の民の、その個性をよくよく知ろうとするようにと仰せでした。人はそれぞれに異なる喜とも悲しみがあるのだと。そのそれぞれを全て救うことは困難を極めることであり、それゆえ帝位は重いもの」

「そうか……あんたの父親に会ってみたかったな。なんだか話が合いそうだ。帝ってのを『偉い、だから敬え』と言われても俺には分からなかったが。あんたの話で少し分かった気がする。なるほどな……」

「ええ、帝位とは難しいものです。錦濤の御方には、広く民の暮らしを知り置いてもらいたいもの……」

「ああ、それなら。嬢ちゃんは別の日にも外に出かけたそうだぞ」

 別の日には、佳卓を連れて市に行って騎射を見たという。これも面白い話題だろう。

「まあ……」

「だが、続きは明日にしようか。もう日が暮れかけてる。さっきから女房がこっちを睨みつけてるからな。あんたも寝支度を整えろ」

 その夜。姫君は一度も起きてこなかった。ずっと閉じこもって暮らしてきた彼女に外の話が刺激になったのだろうか。話を聞いただけでも、外を出歩いた気分になって心地よく疲れたのかもしれない。
 そして白狼にとっても、自分の中の情欲に向かわなくてもいい時間ができて一息付けたのだった。

 翌日も濃紺の空が広がる快晴だった。
 白狼は前日の言葉通り、この日は錦濤の姫宮が佳卓と七条の東市に出かて騎射を見た話をした。

「今度は佳卓(かたく)が翠令と一緒に出掛けた。あんたが言ってたように、嬢ちゃんが外の世界を見て見聞を広めるのが大事だというのも佳卓が連れ出した理由の一つだと思うが。もう一つあいつには別の目的があったと思うな、俺は」

「なんです?」

「佳卓は翠令に自分の武芸を見せびらかしたかったんだ。騎射ってのは馬を操る術と弓の腕とを両方使うから派手で見栄えがする。あいつは惚れた女に格好を付けたかったのさ」

「佳卓は少し捉えどころのない性格ですが、いつも礼儀正しい公達です。武人と聞いてはいますが、そのような場面があまり想像できません……。馬を走らせながら的を全て射るのは相当な腕なのですか?」

「まあまあ、かな。でも俺の方が凄いぞ」

「は……?」

「佳卓が上手いのは確かだ。だが、俺だって負けてない。馬でなら……」

 白狼は得々と語る。

「俺なら腕一本で手綱を操りながら、もう片方の腕で手下を拾い上げたりも出来る。馬みたいに高価なものを俺たち全員で使えない。馬に乗れない手下は自分の足で逃げるしかないが、逃げ遅れたら馬で助けてやらなけりゃならん。俺ならそれが出来る。だが、佳卓は無理だろう。あいつは貴族の坊ちゃんだから身体が華奢だ。あの体格ではちょっと難しいだろうな」

「そうですね。佳卓と白狼とでは体つきが違います」

「嫌か?」

 姫君は何を聞かれているのか分からないと言った風に小首を傾げた。

「いいえ。何故です?」

「貴族の男は女みたいだ。そういうのがいいのかと思った。俺の男っぽい身体は嫌じゃないか?」

「白狼は白狼です。頼もしい従者ですよ」

「そうか……ありがとよ……」

 白狼は一瞬の間にその言葉を噛み締め、そしてそれを振り切るように明るい声をつくった。

「俺は弓も出来る。狩りなんかも上手いぞ。そうだ、この竹林の外の森には(きじ)なんかいるんじゃないか。射止めて来てやろうか? 雉肉は美味いからな」

「危なくないのですか?」

 いいや全く、と答えた白狼はふと思いつく。

「そうだ! いい考えがある。あんた、見に来たらどうだ?」

「えっ!」

 白狼は竹の宮の姫君を元は理知的な女だと思う。初めて会った時も彼女は情よりも理を優先させた。それ以降の彼女の様子を見ていても、過去の幻覚で錯乱する場面の方が例外的で、それ以外は冷静に自分の頭で物事を考える姿勢が目立つ。だからこそ、生まれも育ちも全く異なる白狼とも通じるものがあったのだ。

 その彼女が、今、恐怖でも悲しみでもなく、なんの混じりけのない純粋な驚きを顔に浮かべている。普段見せることのないそんな顔を白狼はもっと見ていたいと思う。

「俺が馬に乗せてやる。一緒に行こう。あんた、馬に乗ったことは?」

 白狼が思ったより強く姫君はふるふると首を振り、柔らかい髪が揺れた。

「一度もありません」

「馬さえ貸してくれれば、あんたを乗せて野を駆ける。楽しいぞ。全力で駆ける馬はまるで風のようだから」

 姫君の顔が輝いた。黒曜石のような瞳に明るい光が宿り、透きとおった頬が薔薇色に染まる。

「楽しそう……」

「狩りにも行けるなら市にも行けるな。あんたは何でも手に入るから買い物自体はどうってことないかもしれないが、市というのはその場所が楽しいんだ」

 姫君は前のめりになって聞きたがる。

「どういう所なのですか?」

「商売人が口上を述べてる。それを聞いているのも面白い。色んな格好の人間が思い思いに行き交う様子を見てると飽きないな。菓子を買ってその場で食べるのもいい。外をそぞろ歩きながら頬張るのが美味いんだ、これが」

 くすくすと姫君が笑った。彼女が笑うと、周囲の空気が瑞々しく華やいだものに一変したかのように感じる。白狼は息苦しいほどにそれが嬉しい。

 もっとこの女を喜ばせたい。外の世界に興味があるのならどこにでも連れて行ってやりたい……。そう言えば……。

「あんた……錦濤の嬢ちゃんより自由に外に行けるんじゃないか?」

「……?」

「あの嬢ちゃんは日が暮れきってしまう前には御所に帰らないといけない。だが、あんたの場合、ここの女房さえ何とかすればもっと遠くに行ける」

「何とかすれば、とはどういうことです……?」

「女房に何か握らせて口止めするという意味だ。綺麗な衣や珍しい飾りなんかの、女が喜びそうな物を女房達に渡して、外出しても黙っておいてくれと頼む。女房達もあんたが留守の方が好き勝手出来るから歓迎するかもしれない。そしたら何日間か旅に出られるんじゃないか?」

「……」

 姫君は胸の前で指を組んでいた。

「そうできれば……いいわね……」

 簡単なその言葉だが、その弾む口調に姫君の沸き立つ感情が(ほとばし)る。

「あの豺虎(けだもの)に襲われて以来、魔窟のような後宮の中から空飛ぶ鳥を羨んでいました。でも、今のわたくしはどこにでもいけるのですね……」

「よし。どこに行きたい?」

「そうですわね……」

 彼女は視線を外に向けた。夏の太陽は十分な明るさをたもったまま、ただぎらつきだけを手放し琥珀色の光で周囲を満たしながら、西に穏やかに傾こうとしていた。時間が静かに過ぎる、夏の日の黄金の午後。

「私、一度、錦濤に行ってみたい……」

「へえ、錦濤か」

「錦濤という港も面白そうですが、その街も楽しそうです。燕から色んな人が訪れて、いろんな品があふれているのでしょう? わたくし、珍しいものを見てみたい……」

「いいな。それは」

「円偉から贈られてくる本の内容はあまり面白くありませんが、燕の書籍を読んでいると、この国とは全く違う世界が遠い海の向こうにあることを知ることが出来ます。それが楽しい。だから、わたくしは一度、見てみたい。燕から到着する船、それに乗っている人、そして積まれてきた品々……」

「よし」

 白狼の声にも張りがあった。

「俺が都で盗んだものでとびきり豪華な品を信頼できる奴に預けてある。それを俺が受け取って来て、ここの女房に渡そう。そのためには俺が一度京に戻らなきゃならんな……佳卓に頼めばどうにかなると思うが」

「佳卓でしたら近く吉日を選んでこの竹の宮に来るとのことです。二、三日前に文で知らせてきました」

「へえ……そうか……久しぶりにあいつと会えるのか。楽しみだな」

 しかし、それまで晴れ晴れとしていた姫君の表情が微妙に翳った。

「どうした?」

「いいえ……。佳卓は今までもこちらに挨拶に来ていましたから、今回もそうなのでしょう」

「……」

「それ以外の用が何かあるのか」と白狼が問いかける前に、姫君は続けた。

「佳卓が竹の宮に来る日が正確に分かったら白狼にも知らせましょう」

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