五十 翠令、佳卓から竹の宮の話を聞く
文字数 5,268文字
竹の宮の姫君と白狼が男女の仲──。
先日、昭陽舎で開かれた立太子の礼をめぐり、錦濤 の姫宮と円偉 が対立なされた。その日の夜、翠令が左近衛府に佳卓 を訪ねると、居合わせた趙元 と朗風 から思いもかけぬ噂を聞いた。
翠令は聞いたばかりのその噂を反芻してみるが、今一つ現実味を感じられない。
竹の宮の姫君は類稀 なる高貴なお血筋。そして、心を病まれた経緯から人を遠ざけ静養生活を送っておられる。片や、白狼は、妖のような怪異な風貌と筋骨隆々とした体躯とで京の街を震え上がらせてきた大盗賊。
竹の宮でも邸宅の女主とただの衛士とで接点などないはずだ。万一顔を合わせても、姫君があの男臭い白狼に親しみを覚える理由もないだろう。白狼の方だって貴族が大嫌いだから、やんごとなき姫君に心惹かれるなどありえない。
この二人が艶めいた仲なるなどありえないと翠令には思われる。
朗風と趙元もそう言っていたし、佳卓も「まあ、本人達は何もないと思うがね」と口にしながら竹の宮まで様子を見に出かけて行った。
しかし、あり得ないだけに、そもそも何故そのような噂が出回るのか懸念される。佳卓はそれを確かめて、今日の昼過ぎに帰京することになっていた。
──何もなければいいが……。
円偉は姫宮に相当に立腹したようだ。さらには、翠令を守るために佳卓が動いたことが権力争いを刺激してしまった。
このままでは、姫宮と佳卓が翠令を通じて親密となり、東宮の寵を得た佳卓が円偉を蔑ろにするとの警戒が強まるばかりだ。
白狼の件と姫宮の件は本来別々の話なのだが、どちらも円偉にとって不愉快なものであり、そして政敵と目されがちな佳卓が絡む。しかも竹の宮の姫君に円偉は特別な想いがあり、白狼の件も政争と絡めて受け止められかねない。
翠令は息苦しい気がして、大きく息を吸い込んだ。
それなのに、真昼にもかかわらず、草の香りがついこの間よりも薄く感じられ、翠令は更に落ち着かなくなる。野放図に茂っていた植物の勢いが翳っている、そろそろ季節の変わり目を控えているのだ。これから御所はどうなるのだろう……。
翠令は頭を振って余計な心配を振り落とした。
──ともあれ、竹の宮で何が起きているのかを佳卓様からお聞きしてから考えよう。
その背中に梨の典侍の声がかかる。
「翠令殿、佳卓殿からが帰京されたようで、お文が届きましたぞ」
文には、日が暮れたら建春門そばの左衛門の陣に来るようにとあった。あそこなら昭陽舎に近く、謹慎中でも人目を忍んで出向くことができる。
翠令が部屋に入ると、左衛門陣所を預かる朗風と、白狼の直接の上官の趙元、そして佳卓が既に椅子に腰かけていた。佳卓がいつもどおりひらりと片手を上げる。
「やあ、翠令。たまには外の空気もよろしかろう」
翠令はその軽口には苦笑で応じるだけにとどめる。本題はそんなことではない。
「竹の宮はいかがでしたか?」
うん、と佳卓は真面目な顔になり、居住まいを正した。
「翠令も来て皆が揃ったからね。竹の宮での話をしよう。白狼は……彼の言葉で表現すれば……姫君に『惚れている』」
趙元が間髪入れずに驚きの声を上げた。
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
朗風もぽかんと呆気にとられたように沈黙した後、首を捻る。
「姫君は彼の好みじゃないと思いますがねえ……そもそも何で接点があったんです?」
佳卓は苦々し気に顔を歪めた。
「姫君は未だ心の傷にお苦しみだ。そこでたびたび恐慌状態となられる。それを持て余した女房達が姫君の錯乱のたびに牢に繋いでいた」
趙元と朗風が慌てて問いただす。
「今、何とおっしゃいました?」
「牢って……牢獄のことですか? 人を閉じ込めるための?」
翠令にとっても耳を疑う話だ。
「そうだ。塗籠の出入口に格子をはめ殺しにして牢獄にしているのだそうだ」
翠令がようやく言葉を出す。
「なんと酷いことを……」
そして続けて「あんまりです!」と声を荒げた。
「そんな仕打ちを受けていては、姫君のお心だって治るものも治りますまいっ!」
「女君とは言え正気を失って全力で暴れる姫君を、女房達だけでは取り押さえることが難しいという事情はあるんだが……」
「ですがっ!」
趙元が静かに翠令と佳卓の遣り取りに割って入った。
「そこで白狼の出番ですか?」
「そうだ。彼の体格なら華奢な体格の姫君を取り押さえるのも容易い」
朗風が唸る。
「なるほど……そこで接点ができた、と……」
「ああ、そうだ。着任早々、庭に飛び出した姫君を走って追いかけて抱き留めたそうだ。以来、姫君を牢に繋がない代わりに、何かあったときの対処を白狼が引き受けた。そして……」
佳卓は腕を組み、そして視線を泳がせる。何か微妙な事情があるようだ。翠令が「そして?」と問うて先を促した。
「姫君は昔の恐ろしい記憶の幻覚にお苦しみだ。だから、それが現れる前から白狼を殿上に控えさせるようになった。そして姫君が幻覚の気配をお感じになったら、すぐ白狼にお声を掛ける。その時には……白狼の言葉を使えば、白狼が『あやしてやっている』」
「あやす?」
「親が子にそうするように、抱きしめて背中をとんとんと叩いて差し上げると落ち着かれるそうだ……。まあ、翠令が錦濤の姫宮にしてきたようなことだね」
「ええ……不安を鎮めるのに良い方法だと思います。ただ、竹の宮の姫君は……」
「そう、姫君は幼子ではない。大人の女君だ。だから問題なんだが……」
佳卓は顎に指を添えた。
「ただ、大人になる前にあまりに過酷なご経験をなさったゆえ……他の大人の女君一般と同じようには考えられないところはある。姫君がそれで落ち着かれるのなら、白狼のような男に父や兄のように甘える時間も必要ではないかと思う」
朗風が渋い顔をする。
「白狼の方はどうなんです? 『惚れてる』ってことは下心があるってわけでしょう?」
「それはそうなんだがね。白狼は……彼も哀れと言うか……」
佳卓も自分が白狼であるかのように顔を歪めた。
「彼は自分の役どころを誰よりもよく分かっている。自分は怪異な容貌をした妖なのだから姫君を襲う幻を喰ってやることができる、そう姫君に請け負ったそうだ。それゆえ、姫君は白狼を父や兄のように安心できる存在だと信じて傍に置いている。白狼もこの点をよくよく心得ているんだ」
「……」
「自分に男としての欲望があると姫君に知られたら、姫君からの信頼など一瞬で瓦解する。そのことを彼はちゃんと理解しているよ……痛々しいほど十分に」
翠令は姫君のお気持ちを思う。
「姫君は……少女の頃に全ての後ろ盾を失われ、後宮で豺虎 の慰み者としてお辛い思いをされていました。白狼の存在を頼もしくお思いでしょう。これで苦しく恐ろしい記憶に苛まれた年月からようやく抜け出せる……」
「うん……白狼も自分の想いが報われるかどうかより、姫君のお心が健やかに回復されることを望んでいる。だから自分の気持ちは隠し通すつもりだ」
佳卓はもう一度、「彼は姫君のことを第一に考えているんだよ」と繰り返した。
「姫君が真に回復するためには、白狼に依存しきってはならないことも彼は分かっている。だから、いずれはひとり立ちさせねばと思っている。姫君も存外にお強い方で、白狼に頼りきりにならないよう自立を模索していらっしゃる」
佳卓は竹の宮の夜の出来事を語った。月の光が庭の玉砂利を美しく照らす夜だったという。
「私が竹の宮に泊まる夜。姫君は独りでお休みになろうと試みられた」
ただね……と佳卓は息を吐く。
「やはり上手く行かなくて錯乱なされた……」
趙元と朗風は眉を顰め、翠令が「それで、どうなさったのです?」と尋ねた。
「南庭に飛び出されてね……。その時の白狼は少し離れたところで私と酒を呑んでいたんだが、すぐに姫君のもとに駆け付けた」
佳卓はその光景を思い出しながら、遠い目をした。
「知ってのとおり白狼は逞しくて精悍な体つきだ。それでいて動くときは機敏に動く。彼が本気で何かを追いかける姿を久しぶりに見たな……」
趙元が頷いた。
「白狼なら頼もしい護衛ですな。すぐ姫君もお静まりでしょう」
佳卓は「いや……」と返した。
「姫君も最初は白狼の元に駆け込みたかったのかもしれないが……白狼を見て、いつまでも白狼を頼っていてはいけないとお思いになったようだ。そして白狼とは反対の方向に走り出された」
翠令が思わず声を上げる。
「走る……? 貴い女君がですか?」
貴族の女君は屋内を断ち歩くことも稀なこと。それに、梨の典侍によれば、姫君はしきたりをきちんと守り、昭陽舎の庭に降りることさえなかったという。
「うん……。それだけ姫君を襲う幻の恐怖は強いのだろう。あれほどの貴婦人が、袴をからげて髪を振り乱して……。月の光の中、竹藪の暗がりに駆けようとする姿は妖しくもあり哀しくもあり……そして、とても痛ましかった」
「……」
趙元が聞く。
「白狼は?」
「もちろん後を追った。全力で庭を走り抜け、すぐに姫君に追いつき、抱き止めた」
「……」
「彼は筋骨隆々の長身だからね、女君の中でも子どものように小柄な姫君を捕らえるのはあっという間だった。そして抱き留めた後、白狼は姫君を繊細な壊れ物のようにとてもとても大事に扱っていてね……。そうっと抱きあげ、あの低い声でこれ以上ない程優しく、『焦ることはない』と励ましていた」
佳卓は目を瞑って、微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを口元に湛えた。
「彼のいかにも男っぽい声の響きは優しく、艶やかで温かい愛情がこもっていて……。ああも情感の籠った低音を聞かされると、同性の私でさえ妙に胸が騒ぐほどだったよ。そして姫君のご様子も……白くて細い手首が、白狼の太くたくましい首筋に絡むさまが、とてもなまめかしくて……」
朗風が何かを言いかけ、しかし何も言わずに口を噤んだ。彼のことだから何かを茶化そうとしたようだが、言葉が見つからないのだろう。
佳卓は息を吐いて続けた。
「姫君は白狼の言葉に力を得て、ご自分の足で歩くと仰った。自ら階を上がって正殿に戻られたよ」
翠令は唸る。お目にかかったことはないが、そのお振舞いを聞いていると、凛然とした佳人の姿が目に浮かぶ。
「かよわいお育ちであられましょうに……」
「そう、私も弱々しい女君とばかり思っていたが……毅然と背筋を伸ばして一歩一歩階を登って行かれる足取りはしっかりされていて……。その姿が気高かった……」
佳卓は感に堪えないように目を瞑った。
「姫君を白狼が跪 いて見上げていてね。あの玻璃のような瞳が……純粋で清らかなものを守りたいという慈しみに満ちていた。だから……その時、彼は姫君を本当に愛しているのだと私は確信したんだ」
「……」
黙って聞き入る皆を佳卓がふっと見あげた。
「そうだ、ちょっと面白いことを白狼が言っていた」
趙元が「何をです?」と問う。
「白狼は姫君に『高慢ちきでいろ。そっちの方が似合う』と声を掛けたんだ」
朗風が「高慢ちき、ですか?」と尋ね、佳卓が苦笑して答えた。
「『気概を持て』という意味のことを、彼なりの表現で言ったのだと思うよ。彼自身も意地を持つことを大事にするから」
「なるほど……」
佳卓が誰に言うでもなくぽつんと呟いた。
「とても美しかった。この二人の様子は動悸がするほど美しかったんだ……」
趙元が太い腕を組んだ。
「直属の上官としては白狼を京に呼び戻すことも考えましたが……。姫君のためを思うと今少し白狼が居た方がよさそうですな」
「うん。ただの男女の仲というだけではない。苦しく暗い年月を贈ってきた姫君がやっと光を見つけられたところだ。何とかしてこの二人の時間を守って差し上げたい。それが白狼の願いでもあるから」
翠令に否はない。それは趙元と朗風も同じで、皆が揃って頷いた。
佳卓が長く細い指を頬に当てる。
「となると……白狼の噂が消えてなくなるのは当分先になる。その間、私が姫君の寵を笠に着て円偉殿を愚弄していると邪推されることも増えるだろう。私が決して錦濤の姫宮から偏った寵など受けていないと示すとともに……」
ここからは翠令が先を続けた。
「姫宮も円偉様の心象をよくするよう心掛けねばなりませんね」
「うん。ご負担をお掛けするが……」
「姫宮にとっても朝廷の重臣である円偉とは長く付き合って行かねばならぬ相手です。それに、白狼や竹の宮の姫君のためとあらば、少々苦手でも努力なさることでしょう」
ただ、気がかりが一つあった。
「姫宮にもお話申し上げますが……。この話、梨の典侍殿が同席している場面でしても大丈夫だと思われますか?」
佳卓はしばし宙を見て考えてから答えた。
「典侍殿は白狼が姫君の心身ともに近しい存在であることを心配するかもしれないね。何しろ身分差が大きいから。白狼は自制するつもりでいるが、危なっかしく見えるのも事実だ」
だが、と佳卓は小さく首を振った。
「彼は姫君にとっての最善を尽くすだろう。難しくとも彼ならやれると私は信じている。この私の判断を添えて典侍に伝えてくれ」
先日、昭陽舎で開かれた立太子の礼をめぐり、
翠令は聞いたばかりのその噂を反芻してみるが、今一つ現実味を感じられない。
竹の宮の姫君は
竹の宮でも邸宅の女主とただの衛士とで接点などないはずだ。万一顔を合わせても、姫君があの男臭い白狼に親しみを覚える理由もないだろう。白狼の方だって貴族が大嫌いだから、やんごとなき姫君に心惹かれるなどありえない。
この二人が艶めいた仲なるなどありえないと翠令には思われる。
朗風と趙元もそう言っていたし、佳卓も「まあ、本人達は何もないと思うがね」と口にしながら竹の宮まで様子を見に出かけて行った。
しかし、あり得ないだけに、そもそも何故そのような噂が出回るのか懸念される。佳卓はそれを確かめて、今日の昼過ぎに帰京することになっていた。
──何もなければいいが……。
円偉は姫宮に相当に立腹したようだ。さらには、翠令を守るために佳卓が動いたことが権力争いを刺激してしまった。
このままでは、姫宮と佳卓が翠令を通じて親密となり、東宮の寵を得た佳卓が円偉を蔑ろにするとの警戒が強まるばかりだ。
白狼の件と姫宮の件は本来別々の話なのだが、どちらも円偉にとって不愉快なものであり、そして政敵と目されがちな佳卓が絡む。しかも竹の宮の姫君に円偉は特別な想いがあり、白狼の件も政争と絡めて受け止められかねない。
翠令は息苦しい気がして、大きく息を吸い込んだ。
それなのに、真昼にもかかわらず、草の香りがついこの間よりも薄く感じられ、翠令は更に落ち着かなくなる。野放図に茂っていた植物の勢いが翳っている、そろそろ季節の変わり目を控えているのだ。これから御所はどうなるのだろう……。
翠令は頭を振って余計な心配を振り落とした。
──ともあれ、竹の宮で何が起きているのかを佳卓様からお聞きしてから考えよう。
その背中に梨の典侍の声がかかる。
「翠令殿、佳卓殿からが帰京されたようで、お文が届きましたぞ」
文には、日が暮れたら建春門そばの左衛門の陣に来るようにとあった。あそこなら昭陽舎に近く、謹慎中でも人目を忍んで出向くことができる。
翠令が部屋に入ると、左衛門陣所を預かる朗風と、白狼の直接の上官の趙元、そして佳卓が既に椅子に腰かけていた。佳卓がいつもどおりひらりと片手を上げる。
「やあ、翠令。たまには外の空気もよろしかろう」
翠令はその軽口には苦笑で応じるだけにとどめる。本題はそんなことではない。
「竹の宮はいかがでしたか?」
うん、と佳卓は真面目な顔になり、居住まいを正した。
「翠令も来て皆が揃ったからね。竹の宮での話をしよう。白狼は……彼の言葉で表現すれば……姫君に『惚れている』」
趙元が間髪入れずに驚きの声を上げた。
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
朗風もぽかんと呆気にとられたように沈黙した後、首を捻る。
「姫君は彼の好みじゃないと思いますがねえ……そもそも何で接点があったんです?」
佳卓は苦々し気に顔を歪めた。
「姫君は未だ心の傷にお苦しみだ。そこでたびたび恐慌状態となられる。それを持て余した女房達が姫君の錯乱のたびに牢に繋いでいた」
趙元と朗風が慌てて問いただす。
「今、何とおっしゃいました?」
「牢って……牢獄のことですか? 人を閉じ込めるための?」
翠令にとっても耳を疑う話だ。
「そうだ。塗籠の出入口に格子をはめ殺しにして牢獄にしているのだそうだ」
翠令がようやく言葉を出す。
「なんと酷いことを……」
そして続けて「あんまりです!」と声を荒げた。
「そんな仕打ちを受けていては、姫君のお心だって治るものも治りますまいっ!」
「女君とは言え正気を失って全力で暴れる姫君を、女房達だけでは取り押さえることが難しいという事情はあるんだが……」
「ですがっ!」
趙元が静かに翠令と佳卓の遣り取りに割って入った。
「そこで白狼の出番ですか?」
「そうだ。彼の体格なら華奢な体格の姫君を取り押さえるのも容易い」
朗風が唸る。
「なるほど……そこで接点ができた、と……」
「ああ、そうだ。着任早々、庭に飛び出した姫君を走って追いかけて抱き留めたそうだ。以来、姫君を牢に繋がない代わりに、何かあったときの対処を白狼が引き受けた。そして……」
佳卓は腕を組み、そして視線を泳がせる。何か微妙な事情があるようだ。翠令が「そして?」と問うて先を促した。
「姫君は昔の恐ろしい記憶の幻覚にお苦しみだ。だから、それが現れる前から白狼を殿上に控えさせるようになった。そして姫君が幻覚の気配をお感じになったら、すぐ白狼にお声を掛ける。その時には……白狼の言葉を使えば、白狼が『あやしてやっている』」
「あやす?」
「親が子にそうするように、抱きしめて背中をとんとんと叩いて差し上げると落ち着かれるそうだ……。まあ、翠令が錦濤の姫宮にしてきたようなことだね」
「ええ……不安を鎮めるのに良い方法だと思います。ただ、竹の宮の姫君は……」
「そう、姫君は幼子ではない。大人の女君だ。だから問題なんだが……」
佳卓は顎に指を添えた。
「ただ、大人になる前にあまりに過酷なご経験をなさったゆえ……他の大人の女君一般と同じようには考えられないところはある。姫君がそれで落ち着かれるのなら、白狼のような男に父や兄のように甘える時間も必要ではないかと思う」
朗風が渋い顔をする。
「白狼の方はどうなんです? 『惚れてる』ってことは下心があるってわけでしょう?」
「それはそうなんだがね。白狼は……彼も哀れと言うか……」
佳卓も自分が白狼であるかのように顔を歪めた。
「彼は自分の役どころを誰よりもよく分かっている。自分は怪異な容貌をした妖なのだから姫君を襲う幻を喰ってやることができる、そう姫君に請け負ったそうだ。それゆえ、姫君は白狼を父や兄のように安心できる存在だと信じて傍に置いている。白狼もこの点をよくよく心得ているんだ」
「……」
「自分に男としての欲望があると姫君に知られたら、姫君からの信頼など一瞬で瓦解する。そのことを彼はちゃんと理解しているよ……痛々しいほど十分に」
翠令は姫君のお気持ちを思う。
「姫君は……少女の頃に全ての後ろ盾を失われ、後宮で
「うん……白狼も自分の想いが報われるかどうかより、姫君のお心が健やかに回復されることを望んでいる。だから自分の気持ちは隠し通すつもりだ」
佳卓はもう一度、「彼は姫君のことを第一に考えているんだよ」と繰り返した。
「姫君が真に回復するためには、白狼に依存しきってはならないことも彼は分かっている。だから、いずれはひとり立ちさせねばと思っている。姫君も存外にお強い方で、白狼に頼りきりにならないよう自立を模索していらっしゃる」
佳卓は竹の宮の夜の出来事を語った。月の光が庭の玉砂利を美しく照らす夜だったという。
「私が竹の宮に泊まる夜。姫君は独りでお休みになろうと試みられた」
ただね……と佳卓は息を吐く。
「やはり上手く行かなくて錯乱なされた……」
趙元と朗風は眉を顰め、翠令が「それで、どうなさったのです?」と尋ねた。
「南庭に飛び出されてね……。その時の白狼は少し離れたところで私と酒を呑んでいたんだが、すぐに姫君のもとに駆け付けた」
佳卓はその光景を思い出しながら、遠い目をした。
「知ってのとおり白狼は逞しくて精悍な体つきだ。それでいて動くときは機敏に動く。彼が本気で何かを追いかける姿を久しぶりに見たな……」
趙元が頷いた。
「白狼なら頼もしい護衛ですな。すぐ姫君もお静まりでしょう」
佳卓は「いや……」と返した。
「姫君も最初は白狼の元に駆け込みたかったのかもしれないが……白狼を見て、いつまでも白狼を頼っていてはいけないとお思いになったようだ。そして白狼とは反対の方向に走り出された」
翠令が思わず声を上げる。
「走る……? 貴い女君がですか?」
貴族の女君は屋内を断ち歩くことも稀なこと。それに、梨の典侍によれば、姫君はしきたりをきちんと守り、昭陽舎の庭に降りることさえなかったという。
「うん……。それだけ姫君を襲う幻の恐怖は強いのだろう。あれほどの貴婦人が、袴をからげて髪を振り乱して……。月の光の中、竹藪の暗がりに駆けようとする姿は妖しくもあり哀しくもあり……そして、とても痛ましかった」
「……」
趙元が聞く。
「白狼は?」
「もちろん後を追った。全力で庭を走り抜け、すぐに姫君に追いつき、抱き止めた」
「……」
「彼は筋骨隆々の長身だからね、女君の中でも子どものように小柄な姫君を捕らえるのはあっという間だった。そして抱き留めた後、白狼は姫君を繊細な壊れ物のようにとてもとても大事に扱っていてね……。そうっと抱きあげ、あの低い声でこれ以上ない程優しく、『焦ることはない』と励ましていた」
佳卓は目を瞑って、微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを口元に湛えた。
「彼のいかにも男っぽい声の響きは優しく、艶やかで温かい愛情がこもっていて……。ああも情感の籠った低音を聞かされると、同性の私でさえ妙に胸が騒ぐほどだったよ。そして姫君のご様子も……白くて細い手首が、白狼の太くたくましい首筋に絡むさまが、とてもなまめかしくて……」
朗風が何かを言いかけ、しかし何も言わずに口を噤んだ。彼のことだから何かを茶化そうとしたようだが、言葉が見つからないのだろう。
佳卓は息を吐いて続けた。
「姫君は白狼の言葉に力を得て、ご自分の足で歩くと仰った。自ら階を上がって正殿に戻られたよ」
翠令は唸る。お目にかかったことはないが、そのお振舞いを聞いていると、凛然とした佳人の姿が目に浮かぶ。
「かよわいお育ちであられましょうに……」
「そう、私も弱々しい女君とばかり思っていたが……毅然と背筋を伸ばして一歩一歩階を登って行かれる足取りはしっかりされていて……。その姿が気高かった……」
佳卓は感に堪えないように目を瞑った。
「姫君を白狼が
「……」
黙って聞き入る皆を佳卓がふっと見あげた。
「そうだ、ちょっと面白いことを白狼が言っていた」
趙元が「何をです?」と問う。
「白狼は姫君に『高慢ちきでいろ。そっちの方が似合う』と声を掛けたんだ」
朗風が「高慢ちき、ですか?」と尋ね、佳卓が苦笑して答えた。
「『気概を持て』という意味のことを、彼なりの表現で言ったのだと思うよ。彼自身も意地を持つことを大事にするから」
「なるほど……」
佳卓が誰に言うでもなくぽつんと呟いた。
「とても美しかった。この二人の様子は動悸がするほど美しかったんだ……」
趙元が太い腕を組んだ。
「直属の上官としては白狼を京に呼び戻すことも考えましたが……。姫君のためを思うと今少し白狼が居た方がよさそうですな」
「うん。ただの男女の仲というだけではない。苦しく暗い年月を贈ってきた姫君がやっと光を見つけられたところだ。何とかしてこの二人の時間を守って差し上げたい。それが白狼の願いでもあるから」
翠令に否はない。それは趙元と朗風も同じで、皆が揃って頷いた。
佳卓が長く細い指を頬に当てる。
「となると……白狼の噂が消えてなくなるのは当分先になる。その間、私が姫君の寵を笠に着て円偉殿を愚弄していると邪推されることも増えるだろう。私が決して錦濤の姫宮から偏った寵など受けていないと示すとともに……」
ここからは翠令が先を続けた。
「姫宮も円偉様の心象をよくするよう心掛けねばなりませんね」
「うん。ご負担をお掛けするが……」
「姫宮にとっても朝廷の重臣である円偉とは長く付き合って行かねばならぬ相手です。それに、白狼や竹の宮の姫君のためとあらば、少々苦手でも努力なさることでしょう」
ただ、気がかりが一つあった。
「姫宮にもお話申し上げますが……。この話、梨の典侍殿が同席している場面でしても大丈夫だと思われますか?」
佳卓はしばし宙を見て考えてから答えた。
「典侍殿は白狼が姫君の心身ともに近しい存在であることを心配するかもしれないね。何しろ身分差が大きいから。白狼は自制するつもりでいるが、危なっかしく見えるのも事実だ」
だが、と佳卓は小さく首を振った。
「彼は姫君にとっての最善を尽くすだろう。難しくとも彼ならやれると私は信じている。この私の判断を添えて典侍に伝えてくれ」