八十二 帝、深夜にお目覚めになる(一)

文字数 4,813文字

 清涼殿の御帳台(みちょうだい)の中で、帝はふと目覚められた。

 燈明のか細い灯りがぽつねんとあるものの、その光の届かぬ先には、重みを感じ取れそうなほど濃い闇が立ち込めている。
 そして、射干玉(ぬばたま)の夜は人の息すら聞こえないほど静まり返っていた。

 帝は軽く唇を噛み締められた。

 ──また、こんな人の気配が絶えたような深夜にしか目を覚ますことが出来ない……

 きちんと眠れた方が疲れが取れやすい。そう思って円偉(えんい)の勧める薬湯を口にしてこられた。だが……。

 ──円偉は眠り薬を使って、自分の睡眠を操っている

 今では薬湯なしでは上手く眠ることもできない。

 なぜ円偉がそんなことをするのか。おそらく錦濤(きんとう)の姫宮の件で隠したいことがあるからだと帝は分かっていらした。

 錦濤の姫宮が呪詛を行ったと円偉は主張する。それに対し、帝は「朝臣達を集め、関係諸官に必要な手続きをさせるように」と円偉に命じられた。そして、そうすれば必ずや東宮の無実が明らかになると信じておられた。

 ──あの明朗な気性の東宮が呪詛などと陰湿な(はかりごと)をするはずないものを……

 今年初めて出会った錦濤の姫宮。初対面でも、はきはきとした受け答えだけで明るい気性だとすぐに分かった。そして、その後も会うたびに好ましいという印象は強くなっていく。好奇心が強くて御所の風習を知りたがり、そして御所の外の世界を面白おかしく話してくれる──そんな東宮との会話を帝は楽しみにしていらしたのだ。

 そして、東宮は「いつまでもお元気で御位にいらしてくださいね」と言ってくれた。帝はその言葉をしみじみと嬉しくお感じでいらっしゃる。

 東宮は「帝は私の数少ない親戚でいらっしゃるのだもの」と微笑み、自分には血の繋がった人々の記憶が全くないと語った。両親や自分が生まれた当時を知る人がいないゆえ、幼い東宮は、自分がこの世の生き物ではなく、昔物語の月の世界の女君のような異界の存在なのではないかと心許ない気がしていたという。

 帝は、そんな東宮をいたわしくお思いになる。

 ──孤児として育って肉親を全く知らないというのは、さぞ心細いものであっただろう……。

 錦濤では周囲の温かい愛情に恵まれたようで良かったと思うが、そもそも東宮が天涯孤独な身の上となってしまった責任は自分の父にある。帝はそれを済まなくお思いでいらした。

 ──しかし、東宮は「お気になさらないで」と言ってくれる。

 東宮は明るく「それよりも、今からでも出来ることを考えましょう」と笑んだ。「今から?」と訝しむ帝に、少女は「竹の宮の姫君がご静養に専念できるように私たちで一緒に頑張りましょう」と前向きな意気込みを語った。

 帝もかねてから竹の宮の姫君を気に掛けていらした。何一つ罪もないのに、父帝の悪行の犠牲となり、心を病まれた御方。帝には従姉に当たる女君。

 東宮は竹の宮の姫君に会いたいと口にしていた。東宮が自分の叔母上を呪うなどとんでもない。まずは文を差し上げて、そして、もしお嫌でなければ竹の宮を訪問して、外の楽しいお話をお聞かせするなど少しでも気持ちを明るくして差し上げたいと願っていたものを。

 ──東宮なら、それができるかもしれない

 表情豊かで活き活きとしたあの少女と話していると、こちらの気分も浮き立つように感じられる。竹の宮に閉じこもりきりの姫君も、闊達な東宮と接すれば、塞いだ気持ちが多少なりとも晴れるのではないかと帝は思われた。

 ──私が帝として玉座を守り、やっと御所に戻ってきた東宮の成長を手元で見守り、竹の宮とも交流を深めて姫君の快復を助けたいと願っていたのに……

 それなのに……帝はぐっと拳を握られた。

 円偉は東宮が叔母上を呪ったなどと言って政変を起こし、東宮を京の都から追いやった。

 ──円偉に我らの気持ちは分かるまい

 東宮が「親戚に会えて嬉しい」と喜ぶ気持ちが、帝にはよくお分かりになる。なぜなら、帝も同じ思いでいらしたからだ。

 恥ずべき父と、会うこともなく御所を去られた従姉姫しか持たなかった自分に、ようやく打ち解けて会話を交わせる血縁者が現れた。
 そしてお気づきになられたのだ、あの少女が御所に来るまで自分がとても孤独だったということに。

 帝の母は早くに亡くなられ、先帝は息子の自分に全く無関心だった。その中で、熱心に帝を教育していた円偉を、人は父親の代わりのようだと評価する。けれど……。

 ──円偉に私を息子のように思うような情愛など、特にあるまい

 燕の哲学書にある徳や仁を講じるということは、父帝がいかに道を外れた暴君かと言うことを(つまび)らかにすることでもあった。そして、簒奪者の子が帝の位にいるのは本来の道理から外れており、御子など持たずに正当な東宮を立てて譲位するべきだと円偉は説いた。

 このこと自体は正しいと帝も賛同されていらした。自分は即位すると同時に退位を望まれているという帝に過ぎないという立場にも甘んじるつもりでもあられる。
 ただ……。

 ──東宮が「お元気でいらして」「一緒に頑張りましょう」と言ってくれるまで、気づくことがなかった。私は、私が思う以上に寂しかったのだ……。

 円偉の学識の深さは確かだろう。燕の先人たちが理想の君子像を求めて論考を積み重ねて来たのも事実だ。学ぶべき豊かな知見がそこにあると、帝は今でもそう思っていらっしゃる。

 ──けれども、理想通りの人間などそういるわけではない。

 父帝ほどの暴君は極端だとしても、どの帝もそれぞれに個性があるはずだ。完璧な帝もいたかもしれないが、多くはそれぞれ何かが不足で何かが過剰であっただろう。それは燕の歴史を見ても分かることだ。

 ──賢帝として歴史に名を残す人物の方が稀であり、多くは多かれ少なかれ凡庸さを抱えていたはずなのだ。

 帝にも至らないところがあるからこそ、そのために朝臣たちがいるのではないのか。そう、複数の朝臣

だ。帝は眉を顰めて厳しい顔をなさる。

 ──誰も完璧な存在ではありえない。帝も朝臣も民も。だから複数の存在が補い合って万民のための政を模索していくよりない。一人一人の朝臣は、他の朝臣たちと協調して帝を助ける存在であるはずだ。

 それなのに、円偉は独断で朝廷の政治を執り行おうととしている。しかも、それは帝を選別するという大事を、だ。
 帝は褥から身をお起こしになられた。

「他の朝臣に諮るように」「諸官に事実関係を調べさせるように」。そう帝がお命じになっても、円偉は「もう終わったことですので」と取り合わない。

「せめて、円偉と比肩する佳卓(かたく)が帰京するのを待ってからにしてはどうか」と帝が仰せになっても、円偉はきょとんとした顔をし、そして首を振った。そして「すべてはあの方のためでございますれば……」とよく分からない理由を述べたきり、用は済んだとばかりに退出してしまったのだった。

 ──いかに自分の傅育官であり、学問の師であろうとも、これでは私は円偉を処断しなければならない。

 帝の命を蔑ろにし、他の朝臣や官人の意見を聞くことなく己の(ほしいまま)に朝廷を動かそうとする。この専横を許すわけにはいかない。

 帝はご自身を正しい皇統に戻すまでの中継ぎにしか過ぎないとお思いでいらしたが、それだけ一層、ご自分の在位期間中はしっかりと帝位を守らなければという責任感が強くていらした。

 ──この私が暴君の息子だから帝位に留まる資格なしというのはまだ分かる。しかし、無実の罪で錦濤の姫宮を陥れるのは何ゆえか。円偉から見て何か不足があったのだろうが、東宮は未だ十歳。良くも悪くも何もしてはいない。これからじっくりと成長を見守るべき存在だ。

 東宮の成長と竹の宮の姫君のご回復を支える。帝は、ようやくご自身の人生の意義を見つけたところであられた。その東宮が京を追われて、姫君が京に連れてこられたこの現状は到底そのままに受け入れられるものではない。

 帝は宙を見上げて、ため息をおつきになる。

 ──何とかしなければ。東宮と姫君のために。この朝廷が、そして帝と呼ばれる存在が民のためのものでありつづけるために。

 しかし……何をすればいいのか、そして何ができるのか……。その考えを纏めていこうとなさるのに、帝の意識はしだいにぼんやりとし始める。ここのところずっとそうなのだった。一日の内で思考が明瞭な時間をあまり持てない……。いつも睡魔に負けてしまう……。

 しかし、この夜。濁りかけた意識は微かな物音を捉えた。

 ──何か?

 夜の静寂(しじま)を縫うようにしてひそやかな音がする。

 衣擦れ……。裾を引きずるその微かな音は複数……おそらく二人。床のきしむ音が清涼殿の北からそっと近づいてくる。

 これは女君の装束だと思われた帝はひとまず安心なされた。しかし、その気配は朝餉間(あさがれいのま)の間を抜けて、夜御殿(よんのおとど)の中にまで入って来ようとする。
 帝は思わず声を上げた。

(たれ)か?」

 息を呑む声がした後、数瞬の沈黙があった。しわがれた声が答える。

主上(おかみ)……。お目覚めであらしゃいましたか……」

 ぎこちない物言いだった。

「梨の典侍か。何用か」

 典侍は御所の最高女官だから清涼殿に立ち入ること自体はおかしいことではない。ただ、こんな夜更けに何の理由があってのことか。そして、まるで、この夜御殿の主である自分に見つかっては困るかのような様子は何事だろうか。帝は夜御帳からお出ましになった。

 手燭を持った梨の典侍が驚きを露わに立ち尽くし、そして慌てて手燭を床に置いて平伏する。

「主上……」

 梨の典侍は唐衣も裳もつけていない。帝の目に触れることを想像していない装いだ。

 その典侍の後ろに女君がいた。典侍と違って平伏することなく、また、扇や袖で顔を隠すでもなく、じっと静かにその場に立っている。

 ──何者か?

 梨の典侍は動転しているようで平伏したまま動かないし、この女君を紹介もしない。帝は、典侍が床に置いたままの手燭を手ずから取り上げ、その女君の傍まで持ってこられた。

 その、灯りに照らされた女君の顔を見て、帝は思わずつぶやかれた。

「母上……?」

 数年前にひっそりと世を去った母。先の帝が、姪の姫に似た年齢と容貌と聞きつけ、さる貴族の家から強引に妻に差し出させた女君が帝の母君であられた。わずか八歳で結婚し、そして十一の齢で帝をお産みになられ、そして二十の歳を迎えることなく亡くなられた……。

 先帝はこの妻を「形代」呼ばわりしてはばからなかった。いや、それ以上に酷いことを口にしていたのことを、帝は胸の痛みと共に思い起こす。

「お前は形代だ。あの美しい姫に少しばかり似てはいる。だが、到底及ばない。形代というより、紛い物だな」
 男は不機嫌そうに吐き捨て、酒だけを吞んでいた。その傍で自分を見上げて来る、幼い息子を一瞥もすることなく。

 母君はよく女房相手に泣いておられた。「童女の頃に戻りたい。父上の邸の庭で毬遊びなど楽しんでいた、あの自由な頃に。慈しんでくれた両親とともに暮らしたい」と嘆く姿は、とても痛ましかった。

 ──だが、この者は母君ではない。確かに似てはいるが……

 帝はさらに灯火を近づける。

 火影に浮かぶその面差しは確かに母に似ている。けれど、ここまでの美貌や、そして気位の高そうな毅然とした眼差しは母にはなかったものだった。

「貴女は……竹の宮の姫君ですね」

 女君は静かに答えた。

「さようにございます」

 そして小さく会釈をする。

「初におめもじ仕ります。わたくしは怖れながら主上(おかみ)の従姉にあたる者。長らく御所を離れてご無沙汰を致しておりました」

「……」

 帝は躊躇ったものの、尋ねることにした。従姉姫がここへ来られたのは、決して挨拶のためでも世間話のためでもないだろう。

「なぜ、このような時刻に清涼殿へ参られたのです?」

 姫君は少し目を瞑る。そして再び開けた両の目には静かに強い光があった。

「申し上げられません。主上はご存知ない方がよろしいのです」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み