五十八 白狼、佳卓に掴みかかる(二)

文字数 6,241文字

 御簾の中から、女がいざる衣擦れの音がする。御簾のぎりぎりまで姫君は佳卓に近寄ってきたようだ。

「円偉が白狼に嫉妬するなら、わたくしから遠ざけるだけで済む話でしょう? なぜ命まで奪おうとするのですか?」

「ここから先は、円偉殿と親しい私の兄からの情報と合わせての話となりますが……」

「佳卓の兄とは……左大臣家の嫡男ですね」

「さようです。私も個人的に円偉殿から好意を寄せられていると思いますが、兄も同意見です。そして円偉殿は、私に自分と同じく文官として生きて欲しいらしいのです。そのために私から武官の麾下を遠ざけてしまいたいようだ、と」

「……」

「単に私とその周囲を朝廷から一掃したいのなら、麾下ごと東国に追放するでしょう。そうしないのは、私と麾下を引き離し、その上で麾下達を失脚させたいからのようです。そうやって無力となった私を円偉殿のもとに囲い込む」

「それで?」

「だから、白狼には罪人として死んでもらわなければならない」

 簾が膨らんだ。姫君が身を乗り出しているのだ。

「わたくしが詳しく知りたいのはそこです」

「姫君と白狼が男女の仲かどうかという真実は、ここに至っては二の次です。白狼が姫君に不埒な真似をしたとし、その監督不行き届きの責任を取らせる形で直属の上司の右大将を潰す。それが狙いです」

「それは……」

「まあ、これは何とかして見せます。右大将の趙元が政治的に死のうと、何とかして私が返り咲かせて見せます」

「……佳卓はよい主公ですね」

「ありがとう存じます。ただし、私がいかに良い主公でも、肉体が死んでしまった者を生き返らせることはできません。不可能です」

「……」

「円偉殿にとって、白狼には不埒者の役割を演じてもらわなければならない。それなのに彼が姫君の名誉のためにも身の潔白を主張しては困る。だから口を封じる……。死人に口なし、です。そして、兄によれば白狼殺害を前提に事態は動き始めている……。何しろ貴族にとって白狼のような身分の者の命など塵芥も同然ですから」

 姫君が息を呑む音が聞こえた。

「どうすれば……どうすればこの茶番劇から白狼を守ることができますか?」

「今なら間に合います。白狼が円偉殿に嵌められる前に、私が彼を私の手の内に戻す。近衛府の雑役係で何でも、ともかく円偉殿の目につかぬところに引っ込めます」

「白狼はなんと言うでしょうか?」

「実は先ほど彼に会い、因果を含めてあります」

 佳卓が居住まいを正した。

「彼からの伝言を申し上げましょう」

 佳卓は男にしてはやや高めの声で話すが、ここではかなり低音の声を作った。白狼の口真似だ。

『──円偉という奴が何をたくらもうと、俺は地に生きてこの世にある。あんたとの約束だ。あんたが助けを呼べば俺はとこからでも駆けつける──』

 白狼からの伝言を言い終えた佳卓が笑って見せた。

「白狼の言ったとおりに申しました故、『あんた』呼ばわりはお許しあれ」

 姫君も小さくくすりと笑った。

「白狼がわたくしを『あんた』と呼ぶのを初めて聞いた時は、随分驚いたものです。その伝言……いかにも白狼らしい。その言葉遣いも、そしてその中身も……」

 佳卓が明るい声を続けた。

「近衛に戻せば私が守ってやれます。いずれ事態が落ち着けば、また姫君の警護につけてもやれましょう。ともあれ、生きていればいつか時機が巡ってくる」

 姫君が呟く。

「生きていれば機会も……」

「さようでございますとも」

 姫君はしばらく無言の後で、言葉を絞り出した。

「白狼がわたくしによく言います。一日一日を生き延びて時機を伺え、と」

 姫君の声がか細く震える。

「そう彼は言ってくれました。わたくしが恐怖と戦い疲れれば、優しく抱き取り、いたわり、そして励ましてくれて……。白狼の広くてあたたかい胸は、父のようにも兄のようにも安心できて……。あの低く耳に響く声は私の何かを奮い立たせてくれるものでした」

「姫君……」

 女の声がはっきりと涙を含む。白狼を手放さなければならないと心を決めたようだった。

「白狼は特別でした。私に必要なものを与えてくれて……。もっと一緒にいたかった」

 白狼は姫君の言葉を一言一句漏らさず聞き取った。自分を特別だとあの女は言う。白狼が今まで感じたことのない、痺れるような甘い事実。だが、それは今日を限りに終わるのだ。そう思うと胸の奥が締め付けられるように苦しい。

 姫君もまた嗚咽を漏らし始めた。それを聞く白狼も泣きたくなる。白狼は空を見上げた。雲が切れ、煌々と光る月が白い光を投げかけてくる。

 ──ああ、月のせいだ。

 あんなに月が光るから、自分の心の中が波立っているのが気になってしまう。自分の心が波濤の波飛沫のように砕け、一瞬の光を受けただけで散ってしまい、暗闇に沈んでいくように感じてしまう。

 白狼は唇を噛み締めた。

 ──初めて本気で女に惚れた

 自分は女を知っていても恋を知らなかった。あの女も男を知っていても恋を知らなかった。知らない方が良かったとは決して自分は思わない。だが、失うことがこんなに辛いとも思わなかった。

 ──せめて、あの女の方だけでも、この苦しみから遠いところにいてくれ。

 あの女はさっき自分のことを「父や兄のような特別な存在」と表現した。どうかそのままでいて欲しい。無害で安心な妖として、美しかった思い出として穏やかに俺のことを覚えていて欲しい。その美貌ゆえの不幸に苦しんできたあの女に、これ以上辛いことなど起きないで欲しい。

 しばらく言葉を失っていた姫君が、いくぶん落ち着いた声を出した。

「一日生き延びる、その一日一日を白狼と共に歩んでいけるのだと思っていました。白狼がわたくしの傍にいないのは……とても心細く、寂しく、そして悲しい。……けれど」

 姫君の口調は人を圧する気高さを帯びる。その力ある声は、聞く者の胸に刺さるほど美しい。

「わたくしは白狼の主公です。わたくしは主として臣を守らねばなりません。白狼がわたくしの臣でなくなっても、彼がわたくしの臣となり、わたくしを主とあおいでくれた事実は変わりません」

 御簾の中の人影が佳卓に対して頭を下げた。

「白狼を佳卓に返します。ここからは佳卓が白狼を守ってやって下さい」

 今度は白狼が戦慄くような息を漏らした。

 ──それで、いい。

 白狼はこぶしを握り締め、姫君に心の中で語り掛ける。

 ──「気位の高いお姫様でいろ」と俺はあんたに言った。それは、こういう風になって欲しかったんだ。

 人を従え、人を気遣えるようになった時、真の意味で人は自分自身の主になれる。そうなれたなら、心の傷は過去のものに出来る。もちろん一朝一夕には治りはしない。だけど、確実に回復に向かって歩き出せるのだ。

 佳卓が話し始めた。

「私が初めて姫君とお会いしてもう数年は経ちましょうか……。不幸な姫君とお聞きしておりましたが、姫君が私の前で涙など流されたことはおありではなかった。姫君がお泣きになるのを私は初めて拝見致しました」

「そうですね……。わたくしもこのように泣いたのは初めてかも知れない。そう、あの豺虎(けだもの)に襲われたあの日から、わたくしは自分の感情を忘れてしまった。正気を保つことは心を殺すことでもあったやもしれません」

 佳卓がここで脇に置いていた荷を手に取った。何かをくるんでいた布の結び目を解きながら口にする。

「そのお心を慰めるに、私の燕弓をお聞かせ致しましょう」

「……?」

 姫君の沈黙はやや当惑気であったが、佳卓は楽器を構え、そして簀子(すのこ)に侍る女房に大声を出した。

「何だね、気が利かないね。もう雨は止んだだろう? 先ほどから外が明るいじゃないか。なぜ月が見事であろうと思いつかないのかね。さあ、この燕弓奏者として名高い私が姫君に楽を奉る。明かりは消して、月の光だけにしておくれ。それが風雅というものであろ」

 左大臣家の貴公子にそう言われて、彼女たちが慌てて立ち上がり次々と部屋の灯火も軒先の釣燈籠も消していく。

 屋内が暗闇に沈む。庭の樹木と、その奥に広がる竹林の葉陰が黒々と地に横たわる。天上の月だけがまばゆく、そして南庭の白い玉砂利が柔らかくその光を反射する。

 佳卓がなおも言った。

「今宵は望月ででございますれば、格子も几帳も取り去って、月の光を楽しみましょうぞ」

 格子も几帳も払われ、佳卓も燕弓を片手に簀子の傍まで出てきて腰を下ろす。そして「ほう、これはこれは実に見事な月でございます」と大きくよく通る声を出した。

 佳卓が庭の外に顔を巡らせる。そして、白狼と目が合った時。にやりと人を食った笑みを浮かべてみせた。

「あいつ!」

 佳卓は奥の几帳に向かって振り向く。

「おや。私の従者が庭で立ち往生しているようです。まあ、私の顔に免じてお許しあれ」

 御簾の中で小さな声が上がった。
 ごくさやかに、だけど、はっきりとその声は言った。

「白狼……!」

 あの暗い御簾の中からは、月の光に浮かぶ白狼の姿が良く見えるだろう。
 彼の肌は青白いほど白く、その髪の色は黄金色とも言えるほど明るい。白人の彼の姿は、樹木と竹林の黒い影を背景に仄白く浮かぶように見えているはずだ。

 姫君は小さく囁く。

「佳卓は粋な計らいをしてくれること……」

 佳卓はそれに答えず、燕弓の弓を弦に当てた。遠い異国の楽器から、哀切な音色が流れ出す。母屋(もや)から(ひさし)を通り、(きざはし)を降りて、庭に佇む白狼にもその楽は届く。

 高く低く楽の音が連綿と紡ぎ出される。その旋律の中に、御簾の中の姫君の息が混じるのが聞こえる。女の息は、燕弓の音に共鳴するように時に早く、時に途切れ、そして時に大きく甘く吐き出される。

 白狼はこの曲を知らない。だが、佳卓が何を奏しているのか分かる。これは恋歌だ。想いあう者同士が互いに求め合い、そして縺れるような心の動きを表現した音楽に違いない。

 現に、佳卓は、弓を長く弦に当て余韻を持たせて曲を終えた後、姫君に静かに告げる。

「古来、恋歌として伝えられる名曲にございます」

 姫君が答えた。

「そうですか。恋歌なのですか。それで……」

 姫君はか細い声で、誰に言うでもなく口にする。

「これが恋歌……。恋とはこのように、狂おしくも甘く、切なくも愛おしいものなのですね。とろりと蜜のように胸の底に滴るこの想いが……」

 ──言うな!

 白狼は御簾を見つめた。月夜の庭から、邸内の暗闇に向かって念じる。

 ──その先を言うんじゃない!

 姫君は手ずから御簾を上げ、自分の扇を御簾から差し出した。

「佳卓の演奏見事でありました、ゆえにこれを」

 佳卓は褒美を受け取りに近づく。姫君が握る扇に佳卓が触れたとき、姫君が何かを囁いた。
 周りの女房を憚ったその声はあまりに小さく、庭にいる白狼には聞き取れなかった。

 白狼は厩で佳卓を待っていた。厩の前には二頭の馬が繋がれている。一頭は佳卓の馬で、もう一頭はこれから白狼が京まで乗る馬だ。

 乗馬用に袖と袴の口をしぼった佳卓が近づいてくる。

「白狼」

 佳卓が白狼に声を掛け、そして返事を待たずに近づいてきた。

「姫君から白狼に伝言がある」

「……なんだ?」

 佳卓は腰に差していた女物の扇を取り出して白狼に差し出す。

「私の燕弓の演奏をお褒め下さってね。この扇を下さった。そのとき小声でおっしゃったんだ、『白狼が好きでした』と。それから『私に恋を教えてくれて有難う』と……」

 白狼は土を蹴った。佳卓の狩衣を乱暴に掴み上げ、そして怒鳴りつける。

「何故だ!」

 佳卓は白狼に胸ぐらをゆすぶられ、手にしていた燕弓を取り落としても、何もせずに白狼のなすがままだった。白狼はますます激していていく。

「なんでだ! なんでそんなことをあの女に言わせた!」

 ええ? 理由を言ってみろ! 太く逞しい白狼の片腕は拳一つで、細身の佳卓をぐらぐらと揺らす。

「理由を言えっ!」

「……」

「あの女が今更俺みたいな男に惚れたって、どうにもなりはしないだろう! 始まったと同時に終わっちまう恋なんか気づかない方が幸せだ! なんであんな曲を、そんな妙ちくりんな楽器で弾いて聞かせたりなんかしたんだ!」

「私は……」

 佳卓はここで初めて白狼に説明をした。

「姫君はご自分の恋を自覚なさるべきだと思った」

「自覚だと? それを残酷だと思わないのか?」

「お前の言うとおり、姫君に自由はない。幼くして恋を知らぬまま子を宿し、そしてこの先も男君に軽々と恋などできぬご身分で生涯を過ごされる。しかし、いや、だからこそ、心のままに恋をしたことがあるという思い出だけはお持ちいただきたい」

 白狼が吠えた。

「それが残酷だというんだ! 知らなけりゃ知らないままで済んだ話だろうが!」

 白狼は佳卓の顔を自分の顔の前にまで持ち上げた。

「あの女がこれまで望んで手に入ったものはない。高価な衣装や立派な邸宅なんかをあの女は欲しがったわけじゃない。あの女は、ただ普通の人間らしく生きていたかっただろう!」

「……」

「あの女は父親がいなくなって、兄もいなくなって、子も失って、自分の健康も失って! その上、俺のことまで『失ったもの』と思って生きなきゃならんのか! 失ったものばかり数えて生きるなぞ、いくら何でも酷だろう!」

 無言の佳卓を、その首ががくがくとするほど乱暴に揺さぶる。

「あの女は俺に惚れてたなんて露ほども思わず、ときどき『そう言えば妙な妖がいた』とても思い返してくれてりゃそれで良かったんだっ!」

「……」

 白狼の罵倒は同じことの繰り返しとなる。

「なんで、あの女にあんなことを言わせたんだ!」

「……」

「あの女は俺と外に出るのを楽しみにしていた! あんたが嬢ちゃんや翠令にしてやったみたいに、市へ出たり馬で駆けたりするのを楽しみにしていたんだ。それを……それをっ! そんなささやかな願い事まで取り上げるのか!」

「……」

「この疫病神! ろくでもない話を持ち込んできやがって! 俺だけじゃなく、あの女まで苦しめやがって!」

 白狼の声は怒りに任せて吠え続けている間に段々と掠れていく。

 自分が声を張り上げようとして、それがもう空気を振るわせる声量がないことに気づいた後、彼はやっと拳をほどいた。

 急に解放された佳卓は体の均衡を崩して一度地に崩れかけたが、脚を踏みしめて姿勢を正す。それと代わるように、今度は白狼がどさりと地面に腰を下ろした。

 立てた膝に顔を埋め、頭を両手で抱えている。
 その小さくかがめた白い巨躯から漏れた言葉は、弱弱しかった。

「……なんでだ……」

「……」

「佳卓、なんで、あんた、俺のなすがままでいるんだ……。俺の八つ当たりだって分かってるだろ?」

 佳卓は乱れた襟元を軽く直しながら、ぽつりと答えた。

「……分かっているからだよ」

「……」

 白狼はやはり小声で口にした。

「一人にしてくれ」

「ああ……」

 佳卓は踵を返した後に、一度だけ振りむいた。

「お前はいい男だ。姫君もお前に恋をした思い出を大事に慈しんでお過ごしになる……きっと、必ずだ」

「……」

 ぶるりと白狼の身体が震えた。今まで聞いたことのない咆哮がする。声は枯れ、何の音もしない。だが、空気が辺りを震わせる。傍の竹林から眠りを妨げられた鳥が飛び立ち、小さな動物が駆けだす足音が続いた。

 いつの間にか佳卓の姿も消え、白狼は独りで伏した地面を力いっぱい拳でただただ叩きつけていた。涙は止まることなく、その碧い両の瞳を溶かしてしまうほどに流れ続ける。彼の慟哭は夜明けが近づいてもおさまることはなかった。

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