五十二 翠令、円偉の邸宅を訪れる(一)

文字数 3,737文字

 ある日の午後、昭陽舎の翠令が謹慎している局に、佳卓(かたく)が慌ただしくやって来た。

「翠令、いるかね?」

 翠令も急いで几帳の外に出る。

「どうなさいました?」

「今夜、円偉(えんい)殿の邸宅に私が招かれた」

「円偉様が? 用向きは何なのでしょうか?」

「それは実際に会ってみないと分からないが……。まあ、何の用であっても、私がこの時機に円偉殿と直接話をするのは悪くない」

 円偉が表面上これまでどおり姫宮や佳卓と接していても、「腹の奥底では含むところがありそうだ」と危ぶんでいるのは姫宮の周辺だけではないと佳卓は告げる

「朝廷では、姫宮が円偉殿と不仲となったゆえ、ますます双璧の佳卓を頼りにするのではないかと危惧する声が多くてね。この状況で円偉殿と私が直に会うことには私と円偉殿が対立しているという疑念を払拭するのに少なからぬ意義がある」

「そうですね……」

 佳卓が笑う。

「円偉殿がわざわざ自邸に招いてくれたのだ。私的に会うほど近しい仲だと改めて周囲に示しておきたい。まあ、できるだけ派手な牛車を仕立てて、これ見よがしに円偉殿の邸宅に乗り付けるさ。あと、朗風あたりにもせいぜい周囲に吹聴して回るように言っておく」

 翠令も苦笑しながら「そうなさいまし」と頷いた。

「それから。翠令は私についてくるように」

「は? なぜです?」

(よしみ)を結べるものなら結んでおいた方がいい。人間、顔を合わせている回数が増えると自然と情が湧くものだからね。錦濤(きんとう)から見慣れぬ者が来たという印象を出来るだけ早くに拭い去った方が、翠令にも姫宮にもいいと思う」

「……分かりました」

 多少戸惑いもするが、佳卓の言うとおりだ。人間は親しみのないものに対して根拠もなく嫌疑を向けやすい。機会を見つけて距離を詰めた方がいい。

 佳卓は華やかな牛車に翠令を同乗させた。

「この檳榔毛(びろうげ)の車が左大臣家(うち)で一番いい車なんだ」

「私なら徒歩でお供しますが……」

 佳卓が真面目な顔で一つ首を振った。

「いや。翠令も乗せる。ただの麾下に対する扱いと見れば破格であり、女君に対する振舞いとすれば恋人扱いだ。私が翠令を重々しく扱って見せれば、邸内の殿上に翠令も招き入れてくれるかもしれない」

 円偉は寝殿から出て、車宿まで佳卓を出迎えに出ていた。満面の笑顔を浮かべ歓迎の言葉を連ねる。

「ようこそお出で下さいました。お話しできる機会ができましたこと、喜びに堪えません」

 佳卓の方からは、挨拶もそこそこに傍に伴って来た翠令を紹介した。

「今夜は後宮から女武人の翠令を借りて参りました。謹慎中ではございますが、円偉様にお目にかかることで文官の目指す徳について何か感じるものがあるのではないかと愚考致しまして。構いませぬか?」

 円偉はにこやかな顔を崩さなかった。

「それはもう」

 しかし、その後に続いた言葉は必ずしも佳卓と翠令の目論見通りとはいかない。

「今宵は釣殿にて宴を開く予定でしたが、従者を池の中に立たせるわけにもいきませんな。幸い今夜はさほど暑くございませんから寝殿の正面に座を整えましょう。それなら、その縁の下にて侍ることができましょうから」

 とても「翠令を殿上に」などと言い出せる空気ではなかった。

 佳卓が小さなため息をつくが、そんな佳卓の様子など円偉は全く気に留めない。彼は佳卓の手を取り、肩を抱くようにして邸内に招き入れる。もちろん、翠令など一顧だにすることもない。

 背後から円偉邸の下男が「従者殿はこちらへ」と勧めるので、翠令もその案内に従って庭に回ることにした。

 南庭に入ると、寝殿の屋内外に次から次への明かりが灯されていくところだった。灯火も篝火も惜しみなく使われ、邸宅が昼間ほどにも明るく照らされる。まるで円偉自身の心に何の闇もないと声高に主張するかのように。

 奥から簀子まで円偉が佳卓を連れて近寄って来る。その声は「はしゃいでいる」と言ってよいほど朗らかだ。

 地面に膝をつく翠令には邸内に座る円偉と佳卓の上半身が見えるだけで、宴席の様子が見えない。けれども、先ほどから女房達が何回も食膳を乗せて並べているから相当品数が多いのだろう。

 翠令はある意味感嘆した。

 ──まさに下にも置かぬもてなしをはこのことだな。

 円偉は学問の話をする。「あの本のどこそこが……」「燕の某学者はこう言いますが、佳卓殿のご見解は?」円偉が尋ね、佳卓も弁舌爽やかに自分の考えを述べる。
 なるほど、当代きっての秀才どうしの会話というのはこのように楽し気になされるものかと翠令は感心するが、その内容はさっぱり分からない。理解できないものに興味関心は持ちづらく、翠令は少しぼんやりとしてしまった。

 そこに佳卓の怪訝そうな声が耳に飛び込んでくる。

「東国へ、ですか?」

 翠令ははっと身じろぎをした。
 円偉の声が続く。

「そうです。大変ご足労なのですが、立太子の礼の前に一度佳卓殿に東国を巡っておいていただきたいのです」

 佳卓が目的を探る。

「労は厭いませんが、なぜでしょうか?」

「佳卓殿には東国に赴き、そして彼の地で騒乱の芽を摘み取っていただければと思うのです」

「騒乱の芽とは?」

「次の帝が女君であることについて納得が得られているかどうか、私は懸念しているのです」

「……」

「こちらの朝廷の始まりには巫女の役割を果たす女性がおり、その伝統からか時折女帝が就いてきた歴史がございます。それゆえ、例は少なくとも女君を帝とするのに極端な忌避感はありません。だが、東国は豪族たちが鍔迫り合いで覇権を争ってきた地域。そのような荒っぽい空気で、女君を主人と仰ぐ文化があるかどうか……」

 佳卓がやや不審そうな声を出す。

「錦濤の姫宮が東宮にお立ちになることは、各国の国衙を通じて東国にも既に知らせが行っているはずです。確か……先帝が亡くなられ、今上帝が即位されたのと同時にまとめて使者が立ったかと」

 円偉が何かを言う前に、佳卓が言葉を重ねた。

「今上帝への代替わりの際にコゲンもカイゲンも恙なく済んでいたと記憶しています。これは、東国に騒乱がないと朝廷が判断したということではないのですか」

「コゲン」と「カイゲン」とは翠令に取って聞き慣れない言葉だった。佳卓の話の文脈からは動乱の有無にかかわるものらしいが……。

 翠令は頭の中を探ってみた。そしてこの二つはそれぞれ「固関(こげん)」「開関(かいげん)」であることを思い出す。

 佳卓の声が続く。

「帝が崩御された時や都に騒乱があった時に、東へ向かう街道の要衝に設けられた関所が閉じられる。これを固関といい、都の外から敵が来襲することを防ぐのと、都を騒がした反乱軍が都の外に逃亡するのを防ぐという二つの理由がございますね」

「いかにも」

 円偉の方は何を当然のことを……とやや当惑した声色だ。だが、翠令には分かった。この説明は、階の下に控えている翠令に聞かせているのだ。鄙育ちで中央の政治に疎い翠令にはこれくらい教えてもらわないと話が見えない。
 本当に佳卓様は何事にも気が回る御方だと、翠令はその用意周到さに舌を巻く思いだった。

 佳卓は翠令の理解を待つように一拍置いて、今度は開関について話し始めた。

「その関所、すなわち、京から東に二、三日ほどの距離にある『不鹿の関』は、固関の後に再び開けられたはずです。つまり『開関』されました。関所の開け閉めは現地の者が好き勝手に出来るものではありません」

「さようです」

「『固関』と『開関』。関所の開け閉めは、京の都からの使者と関所とがそれぞれ割り符を持って、それを合致させて行われます。御所においてはその割り符は後宮に収められています。古くは蔵司にあったそうですが、今では帝が日常に起居する清涼殿に保管されている… …」

「佳卓殿……何をおっしゃりたいのですか?」

 円偉はここでようやく佳卓の回りくどい解説を怪訝に思ったようだった。翠令のことを全く考慮しないのは、円偉にとって従者など心底どうでもいいからであろう。

「私が述べたいのは……。関の開け閉めを可能とする割符はそう簡単に後宮から持ち出せるものではない。割符を持ち出して、一度は閉じた関所を開けたのなら、しかるべき筋が都の内外に不穏な動きはないと判断したはずだという点です」

「その通りです。先帝から今上帝への御代に移るにあたっては特に東国に問題はございませんでした。ただ、私が憂いているのは、東宮が女君であるなら次の代に何か起きないかという点です」

「……」

「今は差し迫った危機はありません。ただ、後々不満をこじらせることが起きては厄介です。そもそも騒乱は起こらないように未然に防ぐのが肝要。兵を動かすと言うことは血が流れるということですからね」

「それはごもっともです。されど……」

 佳卓はここで酒でも口にしたのか、しばらく無言の間が空いた。

「……それだけでは、私の東国訪問がこの時機ではならぬ理由が弱いのではないでしょうか。今上帝の御代が落ち着いた二、三年後でもよい話。不躾な言いようをお許しいただきたいが、円偉殿の真意は、姫宮と意見を異にしたあの一件に関係しているのではないかと思うのですが、如何」

 ──来た!

 翠令がぐっと拳を握った。佳卓が円偉の本音にぐっと肉薄しようと踏み込んだ質問だ。さあ、円偉はどう答える?

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