七十一 翠令、苦しい道のりを行く

文字数 4,969文字

 都の東に連なる峯は、ごく単純に東山と呼ばれている。翠令が山道を登って峠に着くと、そこから京の都城全体を見渡すことが出来た。

 あとはこの坂を下れば一山を越すことになる。錦濤(きんとう)の平野部に育って山道に慣れない彼女だったが、滑り出しは上々だろう。

 ──良かった。これなら私の脚でも東国まで行くことができそうだ。

 東国の佳卓のいる場所は遠いが、このような山越えをただ繰り返していけば済むのだと思えば安堵する思いが強かった。

 襲芳舎(しゅうほうしゃ)を女らしい華やかな女房装束で退出し、佳卓の兄の妻の邸宅まで牛車で移動した。そこで粗末な下女の格好をし、街のあちこちにいる武人たち──おそらく円偉の手の者だろう──に不審がられることなく都の中を南下し、そして、羅城門を抜けて、今は鄙に生まれた農民のような格好をしている。

 刀は布でくるくると巻き、何の荷物か分からないようにした。それと水を入れた竹筒と糒の包みを背に負って、翠令は不鹿の関に至る。

 この関所でも翠令は拍子抜けする思いだ。佳卓の兄が言っていたように、普通の農民が出入りするだけなら関の検めなどごく形式的にすぎない。難なく通過し、いよいよ東国に足を踏み入れる。

 ──よし、順調だ。

 しかし、日数が経つにつれ、ただ歩けばいいという見込みがあまりにも楽観的であったことを思い知らされることになる。

 東山を越えた時点ではただこれを続けていくだけのことだと思った。若い翠令は今までどんな疲れも一晩眠りさえすれば翌日に持ち越すことなどなかった。

 ところが、ここにきて一日ごとに疲れを覚える時間が早くなる。夕方だったものが、昼ごろに、そして午前中に足が重くなってきてしまう。

 年若い翠令は生れて初めて前日の疲れが残ってしまうという経験に直面した。

 ──疲労が蓄積されていく……。

 とうとう、朝に目が覚めても起き上がるだけでも怠くて億劫だと思うようになる。そして、日に日にその程度が甚だしくなっていくことに慄然とした。

 ──こんな調子で佳卓様のもとまでたどり着けるのだろうか……?

 しかも、その疲れ方も翠令が経験したことがないものだ。武芸で使う筋肉なら十分に鍛えて来たが、山歩きで初めて使う筋肉が変に痛む。

 ──自分の身体が自分のものではない気がする……。あまりにも心許ない……。

 身体的な疲れも気にかかるが、それを更に増幅させるのが、話し相手のいない孤独だった。

 街道を歩いていて全く人に会わないというわけではない。道沿いには小さな村落が点在しており、時おり住民から声を掛けられる。

「よう! ……どこ……誰……。…………」

 相手は笑顔で何かを伝えているようだが、訛りがあるため何を言っているのか分からない。

 それでも人恋しい時には立ち止まって会話を試してみたくもなるが、その気持ちをぐっとこらえて、曖昧に笑って足早に立ち去る。都から秘密の用事を抱えた使者であり、しかも女だとばれるわけにはいかないからだ。

 こうして人を避けているから、もう何日も人と口を利いていない。

 ──つい先日までの暮らしとあまりに違う……。

 今までは朝から晩までひっきりなしに姫宮の可愛らしいお声を聞くことが出来た。「ねえ、翠令」「あのね、翠令」と。
 御所に上がってからは佳卓を筆頭に、梨の典侍や趙元に朗風、白狼と言ったそれぞれに個性的な人々と知り合い、会話が楽しかった。いや、こうして誰とも話さない時間が続くまで、それが大きな喜びであったことに気づくこともなかったが。

 あまりに寂しいので、翠令は一人山道で歌を吟じてみることを思いついた。しかし、翠令が歌い終わると鬱蒼とした森の中の静寂が一層深まるように感じる。耳を澄ませても、風に合わせて葉擦れの音がするばかり。

 風の渡る晴れた空を見上げると、いつの間にか、都で眺めていた盛夏の頃より青みが抜けて、秋の空に近づいている。

 ──寂しい……。

 高い空。遠くから聞こえる鳥がちちち……と鳴く声。それ以外にあるのは、自分の歌声を吸い込むような静寂。誰もいない、その不在が恐ろしいほどに寂しい。

 ──……!

 翠令は恐怖に駆られて悲鳴を上げた。街中であれば人々の注意を引くであろう甲高い悲鳴も誰も応えてくれる者はいない。本当に自分はこの森の奥でたった独りなのだ。

 ──怖い!

 翠令は思わず駆け出し、そしてあっという間に転んでしまった。膝や手がじんじんと痛み、泣きたくなる。
 一瞬、幻の中で翠令は愛すべき人々の声を聞いた。「翠令、大丈夫?」「どうされましたかの?」「疲れているのかね?」等々。けれど、その幻はすぐに儚く消える。
 そして、振り返った現実には誰もいない……。

 このような出来事があったからというわけでもないだろうが、この頃から次第に躓いたり転倒したりということが増えた。周囲に人がいないことに気落ちしたせいもあるが、単に翠令の脚が十分に上がっていないせいでもある。

 石や木の根、予期せぬ窪みが邪魔となる。歩き慣れた旅人や馬なら大したことが無くても、山歩き自体に慣れていない翠令はこういったものに足を取られる。
 翠令も地面に気を付けようとするが、そんな集中力も続かない。気を抜くとすぐに転倒してしまう。

 ──こんな道ばかりなのだろうか……

 悪路がなだらかに、また急峻に延々と続き、そのたびに翠令は上り下りを強いられる。疲労は体だけでなく心も蝕んでいく。

 ──自分は身の丈に合わないことを引き受けてしまったのではないだろうか……

 何かとんでもない失敗をしてしまったかのような、そんな黒々とした不安がせり上がってくる。

 この東国へと続く道、歩いているのは自分一人。誰も頼れない。そして誰も助けない。
 自分は佳卓に会う前に行き倒れて、そこで果ててしまうのかもしれない。佳卓にも姫宮にも、竹の宮の姫君や梨の典侍、趙元に朗風、白狼といった都で自分の帰還を待つ人にも二度と会えないまま、山の中人知れず骸となって朽ちていくのでは……。

 全身が凍り付くような恐怖に取り付かれた後、しかし、彼女は精一杯の理性を振り絞って、その恐怖から逃れようと足を動かす。

 ──余計なことを考えてはならない。ただ、一歩一歩足を交互に前に出して進まなければ。

 けれども、思考は堂々巡りだ。ひっきりなしに恐怖に覚えては思わず足を止め、小さな悲鳴を上げて頭を抱えた。その度に自分を励まして前に進むことを繰り返している。

 けれども、前進することで恐れを振り払おうとすることは、新たな焦燥を産んでしまうことになった。
 一刻も早く東国へ近づかねばと言う気持ちは、体が疲労で動かないがゆえにより一層その思いが募る。その焦りがあるから、より一層体は疲弊し重く固く動かなくなる。逸る心と動かぬ体は、互いに互いを追い詰めているかのようで、それぞれに破綻しようとしかけていた。

 もちろん予定は遅れる。この日数ではここに到着しているはずだという旅程がこなせない。

 ──急がなくては……。

 翠令は日が暮れてからも街道を行くようになった。それが危険だとは承知しているが、これ以上時間は掛けられない。逸る気持ちを抑えることがどうしてもできなかった。

 落葉の季節を迎える前の森は、一年の中でももっとも鬱蒼と暗い。夜空よりもさらに黒々とした闇に覆われている。露出した土が微かに月の光に浮かぶ山道を、翠令は心細さを振り切るように矢も楯もたまらぬ思いで足早に進んでいく。

 ある夜のこと。
 山肌を削り取って造られた道を翠令は歩いていた。樹々に覆われずに道が見えやすいのは助かるが、片方が山の斜面で片方が谷間へ落ちて行く崖となっている道は、それはそれで危険であったし、日暮れまで晴れていたはずの空には俄かに雲が増え、それらがせっかくの月光を翳らせてしまう。

 ──今夜はもう歩くのを止そうか……

 そう翠令が考えかけた頃。
 翠令の背後で不意に砂利を踏む音がし、その瞬間、何も考えず横っ飛びによけた。振り向くと、大柄な男が剣で先程まで翠令がいた空間を袈裟懸けにしてており、手ごたえのないままたたらを踏んでいた。

「何者だ!」

 翠令は急いで剣を覆っていた布を解いて投げ捨て、切っ先を相手に向けた。

 ──賊か!

 予想されたことだった。街道には旅人から金品を巻き上げる山賊が出る。

 態勢を立て直した男が「へっ。その高い声は女かよ」と唾を吐いた。その後ろから仲間が二人現れる。

「名乗るような理由なんかねえよ。お前の懐にあるものを寄越してもらいたいだけだからな」

「へえ、女ならよりいいや。こいつの身体も楽しめるぜぇ」

 男の一人が「おらあっ」と叫びながら斬りかかって来た。翠令は正面からその剣を自分の剣で受け、そして払いのけた。

「お? 剣を使うのか?」

 翠令は無言で素早く身体を沈ませ、男の足を払った。ひゅんと風を切った刃は確かに肉を斬った。その男の脛から鮮血が噴き出し、獣のような叫び声をあげて男はのたうち回る。それを見た残りの男たちが憤怒の声を上げた。

「くそおっ、女ぁ!」

「生意気な!」

 他の二人が同時に斬りかかってくる。片方の剣を弾き、片方のそれはかわした。その次に突き出された剣先に袖を破られたが、その横からの剣は自身の刃で食い止め振り払う。しかし、こんな曲芸のような戦いが続く訳がない。

 反射神経と上半身の剣技の腕だけで何とかしているが、翠令の歩き疲れた足はもう戦闘に耐えられる状態ではない。

 翠令は視線で逃げ道を探した。しかし……。街道を走って逃げられると思えない。そんな体力はない。山の斜面を駆け上がるなど論外だ。

 突然すっとヒヤリとした感触を一瞬腕に感じた。その直後に、焼け付くような痛みに襲われる。

 ──斬られた!

 血が傷口から溢れ、裂かれた袖口を濡らしていく。──重い。熱い。痛い。

 斬られたのは何年かぶりだった。膂力に劣り弓も使えない翠令は、剣技の機敏さで身を守ってきた。しかし、この状況はもう限界だ。

 ──逃げなくては!

 翠令は息を止めると、続けざまに襲い掛かってくる刃をかいくぐって、谷へ続く崖に一息に身を滑らせた。

 下草の上を滑り落ちる速さが予想以上で恐ろしい。それを抑えようと踏ん張った足が、斜面の緑を剥いで土を掘りかえし、土の匂いにむせかえりそうになる。
 湿った土塊が目に入りそうで、顔を横にそむけながら、翠令は剣を握っていない方の手で手あたり次第に草木を掴んだ。
 草の蔓はプチプチとちぎれてばかりだったが、そのうちに太いものを手にすることが出来たようだ。そこでようやく翠令の体が止まる。

 男達の声が崖の上で小さく響く。しばらく何かを言い合っていたが、もう翠令を追おうとはせず、立ち去ったようだった。

「……助かった」

 だが、その翠令自身も自分の言葉が力ないものだと分かっていた。これからどうするか、途方に暮れる気持ちの方が大きい。

 とりあえずは落ち着ける場所を探る。その草の蔓を握りしめながら、足を斜面に食い込ませ、そっと一足一足這い上がる。街道に誰もいないのを確かめてから、翠令は道端に腰を下ろした。

 空はすっかり雲で覆われている。樹木の影のないところでも傷口が良く見えない。触ってみた感触では、幸い深手ではないが、切り口が長い。これは簡単に塞がってはくれなさそうだ。翠令は刀を吊るすつもりで持ってきた帯紐で上腕を縛り上げた。

 そのまま崖とは反対側の斜面の大木の根元に身を凭せ掛ける。ぽつぽつと大粒の雨が山の中の木々の葉を叩く音を聞きながら、翠令はその夜を眠った。

 翌朝は暴風雨だった。横殴りの雨で視界が白くけぶり、まだ若く細い木が幹の半ばから強風の中で身をしならせている。

 ──とても歩けるような天気じゃない。

 だから、翠令はそこに留まっているべきだった。しかし、じっとしていられない。

 衝動に突き動かされるようにして翠令は街道を歩き始めた。日よけを兼ねた簡素な笠しか雨を避けるものはない。

 ごうごうと風が渦巻く中、大きな雨粒が礫のように翠令の頬を次々と打つ。浅瀬のように水が溜まる悪路に足を取られて何度も転び、その度に全身が泥まみれとなる。
 だが、そんなことに構ってなどいられない。

 ──野分が過ぎて雨が止めば、どうせ乾くだろう

 翠令はそんな風に思っていた。

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