八十三 帝、深夜にお目覚めになる(二)

文字数 7,126文字

 帝は質問する相手を、平伏する梨の典侍に変えられた。

「どういういことか。申せ」

「……それは……」

 その典侍を制するかのように、あるいは庇うかのように竹の宮の姫君が言葉を発した。

「わたくしが今からなすこと、帝は知らぬ存ぜぬで見逃していただきたいのです」

 帝は息を吐かれた。

「意図だけでもお聞かせいただきたい。私は私の周辺で起こることに無責任でいられる立場ではありません」

「……」

 姫君は少し考える時間を空けた。

円偉(えんい)錦濤(きんとう)の女君を流罪とし、わたくしを新たに東宮として立てようとしています。その流罪の根拠は、かの女君が私を呪って病を再発させたなどと円偉は申しますが、それは真っ赤な嘘偽りです」

「私もあの東宮が人を呪うとは思えない……。その貴女のご病気ですが……いかがでありましょうや?」

 姫君は、このような時でも折り目正しく自分の体調を気遣う帝に謝意を示した。

「ありがとう存じます。ここのところは元気でおります。わたくしの病を理解し、そして乗り越える道を教えてくれる者と出会いましたゆえ」

「それはようございました……。今、その者はお傍にいないのですか?」

「その者は御所に入れる身分ではありません。また、彼は男君です。わたくしが特定の男君を側近く置くことを円偉は許さないでしょう」

「なるほど……」

「わたくしは彼のおかげもあってようやく回復の途に就いたばかりなのです。他に誰も引き受ける者がいないのならいざしらず、この内裏で東宮を務めるのに相応しくありません」

「……」

 帝もこの従姉姫にこれ以上何の苦労もして欲しくはなかった。本人が心やすい環境で過ごして欲しいと思う。この方がそうできるように、自分や錦濤の姫宮が頑張ればいいはずなのだった。

 姫君もまた、錦濤の姫宮に触れる。

「錦濤の御方は健康でいらっしゃる。また、評判を聞いていると、他者への関心が深く、未来の賢帝ともなり得る資質の持ち主であられるよう。お血筋も正当な東宮であられた兄上の御子です。円偉の身勝手で廃される理由は全くなく、この御方を帝位に就けないのは朝廷にも民にも損失でありましょう」

 帝は息を吐かれた。

「私も貴女と同意見です。円偉は(まつりごと)を私物化している。これを認めると悪しき前例となってしまう……。何とかしなければならぬと私も案じていたのです。ただ……どうしたらよいものか……」

 姫君は端的に告げる。

佳卓(かたく)を呼び戻します」

 帝とてそれはお考えになられたことはある。

「可能ですか? 円偉は、彼と双璧を為す佳卓が介入できないように東国に追いやった。朝廷から遠ざけられた佳卓に、円偉が自分の不利益になるような情報など与えないでしょう……」

「いいえ。既に正確な情報を信頼できる使者によって伝えています。あとは、佳卓が東国から兵を率いてこの京に戻って来るだけです」

「しかし、軍勢を連れて来ようにも関所が……あ!」

 ──関契か!

 姫君は表情を引き締めて頷いた。

「今、主上がご想像のとおりです。関所を開く、その関契をこの清涼殿から佳卓の許に送りたいのです」

「されど……」

「誤解のなきように申しますが、佳卓は円偉を討ち取りに都に上るのではありません。あくまで、円偉を交渉の場に引きずり出すことが目的です。帝に背くつもりも、騒乱を起こすつもりもありません」

 姫君は皮肉気に口の端を上げた。

「そうでもしなければ、円偉は他人と話し合うということもしないでしょうから」

「もっともなことです。では、帝である私が命じて……」

「円偉は帝の動向に神経を尖らせています。帝から外に出された命は、どこかで円偉に握りつぶされてしまうでしょう」

「……」

「それに我らの企ても必ずしも上手く行くとは限りません。我らに積極的に関わってしまうことで、主上まで御位を追われてしまっては……」

「私は帝位に未練などないが……」

「ですが、どうか帝位に残っていただき、何かあっても帝の立場から助けていただきたいのです」

「つまり……。円偉のもとで、円偉に操られている振りをしばらく続け、あなた方が窮地に陥った際に援ける役割がこの私にあるということですね」

「さようにございます。何かありましたら、どうかお力添えを賜りたく存じます」

「分かりました。私は私の立場を温存してあなた方を見守ることに徹しましょう」

 姫君は深く一礼した。

「さすれば……。主上、どうか御帳台にお戻りになり、お休みになって下さい。そして明朝もそれ以降も『何もなかった』と周囲をたばかって下さいますよう」

 帝は頷かれると布で囲まれた御帳台にお戻りになった。そして、その中で身を横たえてみられたが……。もちろん神経が冴えて眠るどころではおありでない。女君達が二階厨子のあたりでガタガタと何かを探している物音に耳を傾けておいでになる。

 梨の典侍が「これにございます」と囁いたのは、関契を探し当てたのだろう。

 竹の宮の姫君が緊張感を孕んだ声を発する。

「これを内裏の外まで持ち出すことが叶えば……」

 帝はがばりと跳ね起きられた。そうだ。彼女たちが関契を見つけたとして、どうやって外に持ち出すことができようか。あの装束では殿上を動くしかない。
 大陸風の衣で過ごしてきた錦濤の姫宮と違い、竹の宮の姫君は裾の長い当世風の装束を着て、たいへん淑やかに育った貴婦人なのだ。殿上ですら歩き回ることは滅多にあるまい。

 では、この清涼殿の側近くに仲間が待ち構えているのだろうか。いや、それはあり得ない。先ほど姫君が言ったように、円偉は帝である自分の周囲を警戒しているはずだ。素性のしれない者が内裏の中に入り込めるはずがない。

 というより、そもそも姫君には御所に味方がいない。右大臣家の円偉に対抗しうる左大臣家も「姫君の後見はしない」と明言している。梨の典侍と女君二人で、いったい何ができるというのだろうか。

 たまらず、帝は御帳台をお出になろうとした。

「竹の宮のひめぎ……」

 梨の典侍が鋭い声を放つ。

「んまっ。主上(おかみ)、ご覧になりますな!」

 慌てて帝は御帳の中に戻られる。ただただ恐縮していたように見えた典侍の素早い反応と、その強い口調が意外だった。

 されど、典侍の言葉に従って御帳台の影に引っ込んでいようとも、尋ねて確認すべきことはある。ここで関契を手にしたところで、外にはどう持ち出すつもりでいるものなのか……。

「少し話をしたい。典侍、外にでるが良いか?」

 女君二人が息をのむ気配がした。ややあってから、竹の宮の姫君の玲瓏とした声が返ってきた。

「お話し申し上げます。ただ、暫しお時間を下さいませ」

 衣擦れというよりもっとはっきりと衣類が動く音がする。そして、典侍が忍び泣いているようだ……。

「あな……姫宮様……」

 その声を聞いて帝はとうとうたまらず夜御帳からお出ましになることにした。女君二人に何かあってはならない。助けが必要ならば、どうにかしなければ……。

 夜御殿に水干姿の童子がこちらに背を向けて立っていた。元は赤かったらしい衣は色褪せ、垢にまみれた粗末な衣だ。後ろで結わえられた髪も切り口がざんばらでみっともない。

「誰か!」

 突然御帳台から姿を現された帝に驚いた童子は、はっと振り返って身構える。

「……」

 帝は素早く視線を走らせて竹の宮の姫君の姿を探すが、見当たらない。

「姫君はどちらか? お前は何者だ? 誰の許しあってこの清涼殿の殿上に上がるか?」

 庭の草むしりや掃除、細々とした使いなど雑用を言いつかる童子は御所に居る。だが、貴族の子弟でもなければただの雑色であり、とうてい殿上に侍るような身分ではない。

「もう一度問う。お前は何者か。ここは帝である私の居室ぞ。しかも、従姉姫もおられる。かような振る舞いを平然とするとは人に非ざる妖か? ならば疾く去るがよい」

「……」

 帝は怪しい童子を睨み据えたまま、口だけで梨の典侍に問う。

「何が起こった? 姫君はいずこにおられる?」

「お、主上(おかみ)》……」

 姫君の声がした。

「目の前に……」

「……どこに?」

「主上の御前におります。今、ご覧になっている男の童はわたくしでございます」

「……!」

 叫び声を出しそうになった帝に向けて、童子は指を立てて「しっ。どうかお静かに」と申し上げた。

 帝も心得て、声を潜めて「なんと……」と呻かれる。そして、隠しようもない驚きのままに二、三歩近寄り、穴のあくほどその童子を見つめられた。

 暗がりにぼうっと浮かび上がる顔は確かに女君──他の誰とも間違えようのない美貌の持ち主、竹の宮の姫君のものだった。

 その姫君は笑む。

「男の童子に見えましょうか?」

 その悪戯っぽい目の光は、あの錦濤の姫君に似ている。叔母と姪でどこか通じるものがあるのかもしれない。

「ええ、確かに姫君であられるが……。この格好では地を這う下人にしか見えません……」

 いや、と帝は姫君の全身に視線を走らせた。

「装束だけでなく髪も……。御髪(おぐし)はどうなされたのです?」

 姫君は当世の女君らしく床にも届く長い髪をしていらっしゃったはずだった。
 問われた姫君はあっさりと答える。

「切りました」

 ううっと嗚咽が聞こえた。帝がその方向をご覧になると、典侍が床に突っ伏して泣いていた。その震える手に何かを握りしめている。

「姫宮様の御髪は……こ、こちらに……」

「……」

 典侍の片方の手には長い黒髪の束が、そしてもう片方の手には小さな刀が握られていた。その傍には竹の宮の姫君がさっきまできていた女物の装束がざっくりと畳まれて置かれている。

 典侍は帝の御前ということも忘れ、自身の嘆きを口に出して憚らない。

「姫宮様が未だ稚い振り分け髪のお年頃より、この典侍がお世話申し上げておりました。この世ならぬほどお美しい姫宮様が、たった一つ、髪だけはコシがなく、細く少なく頼りないものであることだけが玉に瑕と残念に思っておりました。それでも、長さだけは千尋のごとくになって参りましたのに……」

 それなのに……と典侍の涙はとどまるところを知らない。

「私が……私が貴女様の髪を、振り分け髪と同じくらいの短さにまで切り縮めてしまわねばならぬとは……」

 姫君が典侍の傍にしゃがんで肩に手を置いた。

「嘆く必要などありません。髪などまたのびてくるものです。それに髪の量が少ない分、簡単に括れましたし、こうしていても邪魔になりません。これなら狭いところも引っかからずに進むことができましょう」

 帝は典侍から姫君に視線を戻された。

「典侍が動転するのも無理からぬこと。高貴な姫君が髪をこうも短く切って性別も替えて男の雑色に身をやつすなど……」

 姫君は童子姿で軽やかに立ち上がった。

「佳卓の奇策です。この姿で、うまく道を選べば無事に関契を外に持ち出せます」

 佳卓……と帝は軽く天を仰いだ。

「近衛大将がこのようなことを……」

 奇計奇策の将とは聞いていた。東国の平定に色んな策を用いてきたという報告は彼自身から受けてきたが……こうも鮮やかに、この帝である自分を驚かせるとは……。

「なんと大胆不敵な近衛大将か……。円偉と並ぶ双璧と評されているが、円偉とは随分と異なる気質の持ち主であることだ……」

 むしろ、円偉は佳卓の何を見て好意を寄せているのか不思議なほどだ。さて、こうも型破りな左大臣家の子息は次の一手をどうするつもりでいるのだろう?

「姫君、佳卓の立てた奇策では……これからどのようになさることになっているのですか?」

「この清涼殿の正面、東庭から弓場に出、紫宸殿の前を承明(しょうめい)門に向かいます。承明門には援けが待っていることになっています」

「それは……?」

「近衛の心ある者とのみ申し上げておきましょう」

 帝はおそらく佳卓の麾下だと思ったが、何も問わないことにした。何も知らないという立場だからこそ、竹の宮の姫君の計画が破れたとしても円偉にとりなしやすいこともあるだろう。

 ただ……。

「清涼殿から外に出るなら、西の後涼殿(こうりょうでん)に移ってそのまま内裏の西門の陰明(おんめい)門に向かった方が近いのではありませんか?」

「帝のおっしゃる通りです。しかしながら、後涼殿やその南には下級女官や様々な官人が控えております。内裏を出ても采女町や内膳司が陰明門の内にあります」

「なるほど、あの辺りは夜でも人が出入りしているかもしれませんね」

 姫君は頷く。

「わたくしは男の子どもに成りすましておりますが、顔を見られてしまっては、見かけぬ童子だと疑われてしまいます。また、声を低く作っても、声を掛けられて話をしている内に女の声だと気づかれてしまうかもしれません……」

「……」

「狭い場所で誰かに話しかけられてしまうと、相手をしなければ不審がられてしまいます。ですから、無視するわけにもいきません。ならば、いっそのこと、広々とした紫宸殿の前の南庭を何か急ぎの用事がある振りをして突っ切って走る方がよいだろう、と考えたのです」

「走る……?」

 帝は顔を曇らせてご質問なさる。

「貴女は女君です。殿上をお歩きになるのもそうはなさらぬご身分の貴女が、地面の上を、紫宸殿の庭を抜けて最南端の承明門まで走ることなどお出来になるでしょうか……」

 姫君がきっぱりと言い切った。

「できます。やって見せます」

「されど……」

「ご心配なさいますな。この内裏、魔窟であの豺虎(けだもの)に襲われて以来、わたくしは地を駆けて逃げてきました。わたくしの脚は走ることができる……できるはずです」

 帝はどう言っていいのか分からぬまま呆然とされた。姫君の方から説明を加える。

「私は心癒えぬ間、幻の恐怖から逃げ出そうとよく外に走り出ていたのです。ですから今回も走り通すことができる──それを期待した上での佳卓のこの計画なのです。そして、承明門に近づけば外に控えていた味方が援けてくれることになっています」

 帝は頷かれた。

「分かりました。ですが、紫宸殿の前にでるまでに清涼殿と紫宸殿を繋ぐ長橋が行く手を阻みます。どうされますか?」

 姫君はこともなげに笑う。

「後宮で働く童子はそれをくぐるのでございましょう? わたくしも童子と同じくらい小柄ですから同じように致します」

 典侍が再び涙に濡れた声を上げる。

「帝の直宮ともあろう方が……。あの下をくぐるのに、必要であれば地面に膝をついて這って進まねばならぬかもしれませんのに……」

「構いません」

 姫君は全く意に介さない。帝は「我が従姉姫は肝の据わった方でいらっしゃる……」と呟いてしばらく、顎に手をやって考え込んでおられた。

 しかし、次におっしゃったのは、男の童に変装して関契を持ち出す計画とは直接関係の無いことだった。

「貴女は先ほど豺虎に襲われたとおっしゃった……」

「……」

 姫君は無言で帝を見つめ返す。

「この私を恨んでおられませんか?」

 竹の宮の姫君は怪訝そうな顔をした。

「主上をですか? 何故です?」

「私は貴女を深く傷つけた、その豺虎の息子です。憎いとお思いではありませんか……?」

 童子姿の姫君が帝をじっと見つめた。こうして見れば、小柄な姫君の身体に少年の格好は意外によく似合っていた。何も知らずに眺めればただの華奢な少年に見える。
 それなのに、この時の姫君は帝の母上を思い起こさせた。自分の不幸を嘆きながらも、息子の自分には笑顔を作って見せてくれたあの母を……。

「確かに主上は……半分はあの豺虎の子ですが……。そのお命の半分は母君から与えられたものでございましょう? それに、この世に生まれたからには親のどちらのものでもなく、主上ご自身の人生です」

「……」

 姫君は一度目を伏せてから、再び帝を見た。

「わたくしもあの豺虎の子を宿しました。あの男の子ではありますが、半分はわたくしの子です。そして、新しい命はどちらのものでもない……。そう思っていましたし、今でもそう思います」

 帝は胸を衝かれた。そうだった……この方も母でいらした……。

「親に望まれぬ子でも、産まれたからには自分の人生で好きにやっていると楽し気に語る者もおります。主上はあの豺虎とは似ても似つかぬ為人。きっと全く違った帝となられることでしょう」

「……有難う」

 帝は長年の胸のつかえが下りた心持でいらした。父が痛めつけた本人の口から、むしろ自分が励まされるなど望外の喜びだ。

 姫君が一礼した。

「どうかご健勝で。御代恙(つつが)なけれとご祈念申し上げます」

 それから姫君は典侍にも声を掛けた。

「梨の典侍。そなたを恨んだこともありました。でも、今、そなたの力を借りて、この国の多くの人々を助ける試みに挑むことができる。これが成れば、わたくしは自分に自信が持てる。止まっていたわたくしの時間が再び動き始めることになる。礼を言います」

「姫宮様……」

 帝には、この姫君を助けるために思いつかれたことがあった。

「竹の宮の姫君、お力を貸しましょう」

 帝はそうおっしゃると、東の弘廂を抜けて簀子にお出になられた。そして、庭に向かって小さく手を叩かれる。すると、その音に呼ばれたのか、かさかさという音とともに白い犬が現れた。

 梨の典侍が目を丸くする。

「おやま。ハク……いいえ、ビャクではありませんか!」

 典侍は姫君を見上げて説明を加えた。

「錦濤の姫宮の飼い犬でございますよ。姿を見かけぬと思っていたら、清涼殿に住みついていたのですか」

 帝は夜着の袂に手をお入れになった。菓子でも貰えると思ったのか、ビャクが吠える。

「わわん! わん! わん! わん!」

 典侍が小さな悲鳴を上げた。

「主上!」

 竹の宮の姫君も青ざめた顔で立ち尽くす。

 二人に構わず、帝は大きな声を出された。

「誰かある!」

 遠くの方から警護の者達が数人ほど近づいてくる物音が聞こえてきた。

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