序 姫宮、錦濤の港から出立する

文字数 1,924文字

 静まり返った港に、くぅーんと犬が鼻を鳴らす声がした。

 花曇りの空の下、数多(あまた)の巨大な船が舳先を並べ、その帆柱が林立している。

 岸辺には二、三十人ほどの正装した人だかり。
 その中心にいた十歳ばかりの少女は、大人に抱きかかえられた犬を見上げて声を掛けた。

「ごめんね、この服ではお前を抱いてはやれないの……」

 少女は自分の裳裾に目を落とす。 

 大陸風の衣の裾には金糸銀糸で豪奢な刺繍が施されていた。そこに飼い犬がじゃれ付こうとしたために、下男が慌てて抱き上げていたのだった。

 少女が犬に話すので、下男が少し屈んでみせる。犬はその腕から零れんばかりに少女へ身を乗り出し、宙を掻くようにして両の前脚を少女に伸ばそうとする。

 少女は、犬が差し出す脚の片方を、袖の裾を汚さないよう気をつけながら軽く握った。

「いい子でいるのよ……。私はもう一緒に遊んでやれないけれど……」

 つい先日まで、この少女は自分の着る服などお構いなしに飼い犬とじゃれ回って遊んでいた。

 しかし、もう少女はそのようなことができる身分ではない。

 少女の傍に立っていた長身の若い女が、少女の目線に合わせて腰を落とした。少女の年の離れた姉にも見えるその女は、男の格好をしており腰には刀を佩いている。

「姫宮、私が連れて参りますよ」

 少女が顔を輝かせた。

「本当?」

「御所に上がられても庭にお気に入りの犬を放すくらいはできましょう。私はこれからも姫宮のお傍にお仕えしますから、私の飼い犬ということに致しましょう」

 少女はほっとした表情を浮かべた。

「良かった……」

 その声を聞いて女武人もまた微笑む。晴れの門出とはいえ、いつも闊達なこの少女が不安と緊張を抱いて旅立ちの時を迎える様子を、彼女は痛ましく思っていた。

 慣れ親しんだこの港街から、少女たちは船で河を内陸へと遡り、山の奥の京の都へ向かう。

 それも当然のこと。この少女は先々帝の孫娘に当たられる。訳あってこの港街でお育ちだが、先日、帝が代替わりされたことで、新たな東宮として京の都に迎えられることになったのだ。

 この港街で少女を育んできた街の有力者たちは、大量の財宝を少女に差し上げる。お血筋以外にさしたる後ろ盾もなく御所に上がられるなら、せめて富はお持ちいただきたいと思ったからだ。それらは何艘もの船に積み込まれている。

 それらの船の列にあって、少女と同じ船に乗るのは、乳母をはじめとした身の回りの世話をする者が数人、子ども時代の思い出の品を入れた櫃が二十ほど。そして彼女が姉とも慕うこの背の高い女武人と、たった今同行を許された白い犬だった。

 どらの音が鳴り響く。

 少女の船がいよいよ出航する。

 少女は船に乗り込む前に後ろを振り返り、名残惜しそうに港を見つめた。女武人もまたそれに倣う。

 彼女達の乗る船は河川を行く小ぶりのものだが、外洋を渡る船はそれぞれ一回りも二回りも大きなもので、それらが湾を埋め尽くしている様は圧巻だ。
 しかし、今日ばかりはどんな巨大な船も帆を下げている。それがこの貴い少女に捧げる、船舶からの最敬礼だった。

 雲が切れ、春の陽光がばあっと降り注いだ。
 少女は瞬きをして、もう一度港を見渡す。
 日差しを受けて輝く海面は眩しく、一方で船の陰となった水面は見る者を引きずり込みそうに黒い。
 
 光と影の明暗の対比がくっきりとする中、相変わらず港はひっそり息をひそめている。ただただ少女の船の出立を見守るために。

 少女は女武人を見上げた。

「静かなのが少しさびしいわね……」

「ええ、まことに……」

 この街で生まれ育った二人はその静かさが落ち着かない。いつもなら聞こえる音が聞こえない。船の帆がバサバサと風を受ける音や、船乗りたちの怒号、そして行き交う人々の興奮したお喋り。
 遠い異国の目新しいものを受け入れ、新しいものを求める人々を送り出してきたこの港の、その血潮のような日常の音が彼女達はとても好きだった。

 内陸にある京の都とは、河を行き来する船で三日の距離。外洋に面するこの港は、大海を越えてきた西の大陸の文化人達に「美しい波の先に在る港」の意で「錦濤(きんとう)港」と名付けられ、その美称をこの街の人々も誇らしげに口にする。

 女武人が仕える少女もこの港を愛した。この街のざわめきを「血潮のようだ」と最初に表現したのもこの少女だ。この街の活気を愛し、そして女武人をはじめ自由な商人たちに愛されて少女はこの年まで育った。

 ――この港街でお育ちになられたゆえ、この女宮を「錦濤の姫宮」と申し上げる。
 荒々しい波濤のような運命を美しくしなやかに生きぬいてこられた姫宮への敬意と、この錦濤で生まれ育ち、姫宮をお守り申し上げた女武人を讃えての呼び名である。

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