五十七 白狼、佳卓に掴みかかる(一)

文字数 5,062文字

「どういうことだ! 佳卓(かたく)!」

 その日は大雨だった。篠突く雨は時刻が過ぎるほどにさらに激しくなり、方角の一定しない風を巻き込み荒れ狂う。

 多忙のはずの佳卓は、夕刻になる前に何とか仕事に一段落つけて来たと言う。嵐の中を京から竹の宮へ馬を走らせてきた彼は、げっそりと疲れ切った顔をしていた。

 そんな佳卓の姿を見た白狼は、それだけで嫌な予感がしていた。前もってここの女主人に連絡を寄越すでもなく、しかもこんな天候の中を馬で駆けて来る火急の用事など、ろくな話ではないだろう。

 竹の宮に到着した佳卓は、竹の宮の寝殿に入らず、門の側の衛士の詰所に白狼を呼び出した。そして、白狼に告げたのだ「この竹の宮を離れて京の都に戻れ」と。

 白狼が机を両手で叩きつけて立ち上がった。弾みでそれまで座っていた椅子が後ろに倒れる。

「前に来た時と話が違う! あんたは俺を信じ、あの女が立ち直るまで黙って見守ってくれるんじゃなかったのか? 俺がここを離れるにしても秋以降だと言ったはずだ!」

 佳卓は座ったまま苦しそうな顔で白狼を見上げた。

「私もそうしてやりかった。だが……今はお前の命が危ない」

「何だと?」

「円偉殿はお前が姫君を襲ったことにして、何か政争を仕掛けてこられるようなんだ」

「俺があの女を襲っただと?」

「あの猥談好きの下衆がそう触れて回っている」

「な……! 円偉って奴はそれを信じているのか?」

「いや、多分それはない。だが、お前に濡れ衣を着せて、直属の上官の趙元(ちょうげん)を失脚させようとしている。おそらく趙元だけでなく私から武人の麾下を遠ざけようとしているように思うんだが……」

 白狼は苛立ちを隠す気にもなれない。

「『思うんだが』って、そんな曖昧な推測でしかないのか。悪いが、趙元や佳卓、あんたたちのことは自分でどうにかしてくれ。あの女はまだ俺の助けが必要だ」

「私も時期尚早だと思う。しかし、趙元や私を狙うために『白狼が姫君を襲った』という事実が円偉殿に必要なんだ。だからお前を殺そうとしている。お前が生きているいる限り、お前は姫君の名誉のためにも身の潔白を訴え続けるだろうから」

 白狼は「は!」と笑い飛ばした。

「俺をどうにかするだと? 俺の腕はあんたもよく知っているだろう? 朝廷のへなちょこ武人なんぞ蹴散らしてやる」

「千人、万人という単位の敵と切り結ぶつもりか? そしてその後の姫君はどうする?」

「……」

「姫君には静かな環境が必要だ。確かにお前ともう少し長く過ごした方がいいが……。お前が朝敵となってしまい、さらには命を落としてしまったらその衝撃はいかばかりか。今まで以上に心の病を悪化させてしまう」

 白狼はふいっと目を窓外に向けた。竹が刈り込まれた敷地の奥に、竹の宮の姫君の寝殿がある。

 白狼は頭の中で様々な可能性を検討する。その間、玻璃玉のような碧い両眼に複雑な葛藤を滲ませ、微動だにせず、ただ何かを睨み据えていた。
 ややあってから彼は苦し気に言葉を吐き出した。

「俺が……大人しくここを離れるのが一番ましなのか……」

 そして、ばりばりと両手で髪を掻きむしる。

「俺はあの女に約束したんだ。どこへでも連れて行ってやると。俺は約束を違える男じゃないはずだった」

 佳卓が頭を下げた。

「済まない……」

 左大臣の子息にして近衛大将の地位にある佳卓が(こうべ)を垂れても、しかし、白狼は顔を背けて苦しそうに顔を歪めているだけだった。

 雨の音が弱くなった。叩きつけるような激しさはなくなり、しとしとと落ちる雨粒を濡れた地面が柔らかく受け止める音が夜闇に響くばかりだ。

 白狼が相変わらず佳卓を見ないままぽつりと声を発した。

「あの女はそろそろ寝支度を始める。話をするなら今のうちだ」

「……お前は?」

「会わない」

「……だが……」

「早く行け」

「白……」

「行けったら、行け! 俺はもうあの女に会わない。合わせる顔がない」

 佳卓は何かを言いかけ、しかし何も言わずに黙って椅子から立ち上がった。そして、詰所の建物を出て寝殿に向かおうとし、ふと足を止めて空を見上げた。

「雨が霧のように弱くなった……。これは止むな……」

「……」

 白狼が無言なのに構わず佳卓は独り言ちる。

「あれだけ降れば、後は晴れるだけだ」

 そして、彼は白狼に振り向いた。

「お前は今から私の従者だ。これから私の命令を聞け」

「なんだと?」

 勝手なことを言うな。白狼は怒りに任せて凄んで見せた。白狼がこれほど怒気を滾らせれば、相対する者は皆竦み上がる。
 しかし、相手は佳卓なのだった。時折見せる、抗う者をねじ伏せるような気迫。今の佳卓もまた、静かにその鋭い光を瞳に宿していた。悔しいが、白狼がこれを跳ね返すには相当な覚悟がいるだろう。

「白狼。お前は私の麾下になったはずだ。お前の手下の面倒を私がみてやることを、お前は恩に感じていると言った。違うか?」

「……違わない。だが、ここでその話題を持ち出すのか。狡いやり方だな。あんたらしくない」

 佳卓は気配を緩めて首を竦めた。

「お前が私の麾下だということを確認しただけだよ。いいか、私の命じるとおりにして私を待っていろ」

 佳卓が指示したのは、南庭に立っていろということだった。雨はもうポツリポツリとしか地に落ちてこない。雨が止むのだから、南庭から少しでも姫君の姿を見ておけという佳卓なりの気遣いなのかもしれなかった。

 佳卓が白狼を置いて寝殿に足を向けた時、白狼が佳卓を呼び止めた。

「あの女には会わないが、俺から言いたいことはある。あんたから伝えてくれ」

「いいよ、言付かろう。どんなに長くてもいいぞ。一言一句覚えてやるから」

「いや、そんなに長くはない」

 実際白狼が言いたいことは決して複雑なことではない。いつでもどこでも幸せを願っているという、ごくありきたりなものでしかない。

 白狼は、佳卓が正殿の母屋で御簾内の姫君に話をしている間、池の畔の玉砂利の上に立つ。
 雲の切れ目から時折月の光が降り注ぐ。その折に白い玉砂利がぼうっと浮かぶくらいで、生い茂った樹木は黒々した陰となり、その向こうに見える竹林も果てしない暗闇として夜の空の底にへばりついている。
 灯火の灯された屋内から見れば外は暗く、白狼の姿は見えないだろう。御簾や几帳を立てていればなおさらだ。

 逆に、外に立つ白狼から明るい邸内が良く見える。左大臣家の貴公子を迎えて、いつも以上に灯火が多い。

 立ててある几帳の陰から、佳卓とその向こうに姫君の御簾が見える角度を白狼は見つけた。
 ──あの御簾の奥に、あの女がいる
 白狼は今夜限りで永遠に会えない姫君の、その声を少しでも聞きたくて、食い入るように見つめていた。

 佳卓が時候の挨拶を述べているのが耳に入る。そして、彼は御簾の中の女に本題を切り出した。

「白狼を急ぎ京へ戻さねばなりません」

 パサリという小さな音が聞こえた。盗賊稼業をしていた白狼は聴力も視力もいい。そして今はどんな動きも聞き逃すまい、見逃すまいと全神経を集中させていた。これがあの女の側に近寄れる最後の機会なのだから。

 御簾内で女が少し俯いた。さきほどのパサリという音は、姫君が驚きの余り蝙蝠(かわほり)の扇を取り落としたものらしい。

 膝元で何かを探っていた御簾の中の人影は、それを見つけたのか、また体を起こした。そして暫く押し黙り、絞り出すような声で問う。

「……白狼を京へ戻すと言いましたか。……それは、なぜです?」

 そして小さく息を吸い、語気を強めて言い切る。

「私はまだ彼の任を解きたくありません」

 姫君は切々と訴えた。

「彼は私の大切な臣です。私を幻の恐怖から護ってくれます。いえ、それだけではありません。白狼のような外の世界を生きる者と話すことは、私にとって慰めであり喜びです」

「……」

 佳卓の無言に、姫君はいっそう声を高くする。御簾越しに誰かを相対するときには気位高く凛然としている姫君には珍しいふるまいだった。

「白狼と過ごすようになって私はようやく自分を取り戻せるようになってきました。やっと月が明るいと知り、花に香りがあると感じ、人には温かい心があるのだと思い出せるようになったのです。それなのにいったいなぜ……。白狼は私に必要な者です。佳卓も分かっているでしょう?」

 姫君のその悲痛ともいえる緊迫した声。佳卓は心底苦しそうに答えた。

「円偉様の強いご意向でございますれば」

「円偉?」

「恐れながら、姫君と円偉様は普段どのようなやりとりをなさっておいでですか?」

「……」

 白狼のことを話しているのになぜ円偉などが話題に出るのか。それを訝しむような沈黙の後、姫君が答えた。

「円偉とは……贈られた書物を読んで感想を書くことがあるくらいですが……。私はここで無聊(ぶりょう)をかこつ身。手元に本があれば読みはします。それで感想を書く」

 姫君の口調は冷ややかだ。

「……いえ、感想ではありませんね」

「……?」

「円偉の本を読んでも、円偉に書き送るような感想は特にありません。燕という外国への興味は覚えますが、円偉が重んじる徳などなんだのというものには興味ありません」

 姫君の語り口は淡々としたものから始まった。

「円偉は徳や仁についての書物を送って寄こしますが、これらの書物を読みこなしているから何だというのでしょう。あの者は、私の境遇をさかんに気の毒がっておりますが、ただそれだけでした。別に自分で立ち上がってあの豺虎(けだもの)を正そうとしたことなどありません。己の不作為を恥じるでもなく、自分は道理を分かっているのだとしたり顔でいるのは偽善者に過ぎません」

 最後の方の口調は尖り、姫君の円偉に対する憤懣が滲み出る。だが、それは彼女の怒りの一部に過ぎない。

「円偉だけではありません。私を取り巻く大人達はおしなべてそうでした。ですから、特に円偉にだけ悲憤を向ける理由もありません。だから贈ってきた書物の内容を理解したという程度の返事はしていました。なにしろ他にすることもありませんし」

 姫君は望んで京を離れて静かな暮らしを送ってきたが、京の都もまた姫君を忘れていたはずだった。

「円偉はなぜ今さら私の暮らしに干渉しようとするのでしょうか。私は円偉が寄越す本を読んで外国のことを知るのは楽しみでしたが、私は円偉本人に何の興味もありません」

 佳卓が現状を手短に説明する。

「しかしながら、円偉殿の方は姫君を特別に想っておられる。そして、近頃、姫君と白狼とが親密だという噂が京に届き、それで白狼を姫君から引き離そうとしているのです」

「馬鹿馬鹿しい。私と白狼とは……」

 そう言い掛けて姫君は言葉に詰まる。

「私と白狼には……男女だからといって何が起こったわけもはありません。……されど……」

 探してみても言葉は見つからないようで、姫君はその躊躇う心のありようをそのまま口にした。

「……私の気持ちをどう言えばいいのかは分かりません。ただ……私にとって男というのは恐怖と嫌悪の対象でしかありませんが、白狼は決してそのような存在ではない……」

 姫君の声が震える。

「白狼は普通の男ではありません……。他のどの男とも異なる特別で……、特別な……」

 姫君はここでも言葉に窮して御簾の内で黙ってしまった。佳卓もまた、無理に答えを聞こうとしなかった。

 しかし、数瞬の沈黙の後で御簾の中で姫君が姿勢を正した。

「いいえ、それよりも、今なぜ私が白狼を手放さなければならないのかが問題です。そもそも白狼は近衛府から遣わされてこの竹の宮にいるはず。何故、武官でもない円偉が近衛の領域に口を挟むのですか。それは僭越というものでしょう」

 佳卓が苦しそうな口調で答える。

「実は、次の帝となられる錦濤(きんとう)の姫宮と円偉殿が対立することがございまして。これ以上朝廷に亀裂が走らないよう、私が東国に赴くこととなりました」

 姫君は早口で言い募る。

「そのことと私から白狼を取り上げようとすることと何の関係があるというのですか」

 いえ……。姫君は息を吐いた。

「佳卓が言うからには何か理由があるのでしょう……」

 姫君は落ち着いた声で状況を整理しようとする。

「佳卓と円偉は双璧と並び称されていると聞きます。円偉と対立した東宮が佳卓を重用し、円偉を遠ざけようとしている──円偉がそう怖れているということでしょうか」

「普通に考えればそうです。そして私を錦濤の姫宮から一旦遠ざけて置きたいと円偉殿が考えているのも確かでしょう。ただ、少し事態は複雑で……だからこそ白狼の命が危ない……」

 姫君はか細い悲鳴のような声をあげた。

「命が危ない?」

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