二十四 翠令、矢を射るコツを聞く

文字数 3,218文字

 薫風になぶられながら翠令は弓を練習していた。勢いよく放つことができるようになった矢は、気持ちよく風を切り、的のどこかには常に当たるようになっている。回を重ねるごとに、矢が刺さる位置も的の中心にだんだん集まるようになってきていた。

「へえ……まあまあかな」

 背後から掛かった声に翠令が振り向くと、白狼が立っていた。翠令が練習場所にしている武徳殿は、彼の所属する右近衛府に近い。

 翠令は構えていた弓を下ろした。

「白狼か。ええと……」

「明朝、竹の宮に出発する。その前に翠令に会えてよかった。弓が出来ないから佳卓が教えたんだって? うん、形になってると思うぜ。実戦 でも使えるかはまた別だが」

「うん……突っ立って構えてからというのが出来るようになった程度だから。動きながら相手を仕留められる域にはまだ遠いな」

 白狼が腕を組むと、面白そうな顔をした。

「俺が矢の当たる当たるコツを教えてやろうか」

 翠令は即答する。

「是非とも!」

 それは聞きたい。白狼は、あの佳卓と並ぶほどの武芸の腕の持ち主だ。そんな彼からの忠言はさぞ有益なものだろう。

「いいか、弓を構えて矢を番えたら、心の中で『絶対に当たれ』と念じながら射るんだ。そしたら当たる」

「なんだ、それは」

 翠令は思わず肩を落とした。期待していたのに拍子抜けもいいいところだ。翠令は彼をねめつける。

「説明になっていないぞ、白狼。からかっているのか?」

 意外にも白狼は真面目な顔を崩さない。

「いや、俺はいつもそう念じてから射ているし、それで当たるぞ。他人に口で上手く言えないが……俺は学がないから説明が上手くない。まあ、明日から竹の宮で真名の読み書きを学んでくるから多少言葉が増えるかもしれんがな……」

「ああ、しっかり勉強して語彙を増やしてくれ。白狼の説明は時々言葉足らずで分かりにくい」

「悪いな」

 そう翠令に返した白狼は、そして東の方向にある内裏の屋根を見た。

「俺が本を読めるようになれば、あの嬢ちゃんとその話ができるようになるかもな。嬢ちゃんは元気か? 正智という爺さんとよく話すんだって?」

「ああ……硬軟さまざまな書物を読んでいらっしゃる。円偉様とも、それから正智殿ともそれを基にお話されて学びを深めていらっしゃる」

 正智との接点は表向き子供向けの説話集を借りているだけということにしているし、確かに説話集も話題に上る。それに加えて、統治の実務についても会話が弾むことが多い。

「そう言えば……嬢ちゃんに礼を言わなきゃならんようだ」

 白狼が少し表情を改めた。

「佳卓から聞いた話では、嬢ちゃんが犬の名前を俺のために変えてくれたんだって?」

「ああ、ハクだと白狼を連想させてしまうこともあるから……」

 白狼は口元だけで笑った。

「俺が犬畜生呼ばわりされるのはもう慣れっこだ。別に構いやしないさ。でも、嬢ちゃんの好意は有り難く受け取っておく」

「うん……」

 慣れることだろうか……そこに含まれる差別のまなざしに……。

「そんな顔をしなくていいぞ、翠令。俺の呼び名は白狼だ。狼と犬ってのは兄弟のようなもんだろ? なんだかそのビャクって奴も弟分のような気がしてるさ。犬は暑さがは苦手だが元気にしてるか?」

「床下の涼しい所を見つけては潜り込んで、舌を出してはあはあ言っているな。まあ多少へばっていても基本元気だ。姫宮が庭に下りられると喜んで駆け寄ってくるし、毬を放れば大喜びで取って来る」

「そうか……嬢ちゃんは良い飼い主だろう」

「うん」

「嬢ちゃんはいい。うん、いい主公だ」

 翠令が肩を竦めた。

「白狼、もう少し言葉を足して説明してくれ」

 そうだな……、と彼は拳を顎に当てて少し考え込んだ。

「嬢ちゃんは器量がある。まず、俺のこの風貌を厭わない。気味が悪い者を怖がるような臆病者じゃない」

「まあ、錦濤では白人を見かけることもあるから……。珍しい者をいちいち嫌っていたら錦濤じゃ暮らしていけない」

「それから信頼できる相手だと思ったらきっちり信頼する。俺が山崎津で賊に入ったときも、俺の『女子どもに手をかけない』という言葉を信じた。それから、自分を守ってくれるはずの翠令のことも信じている。人間、相手から信頼を寄せられれば、それに応えようと思うものだ。俺だって、自分を信じてくれればそいつを大事にしたい。翠令もいっそう忠義を尽くそうと思うだろう?」

「ああ、そうだ」

「一方で、嬢ちゃんは目下の者のことも細々と思い遣る。俺のために犬の名を変えるし、翠令を守ろうと(ほうき)で立ち向かうつもりでいたからな」

 白狼はあの山崎津の船での出来事を思い出したのか、はははと豪快に笑った。傍を通る官人たちがぎょっとした顔で、妖のような風貌の白狼に胡乱な目を向ける。

 白狼は他人の視線など意に介さない。

「ああいう性格は何か集団の頭領に向いている。自分が自分がと出しゃばらなくてもいつのまにか人の上に立っているものだ。ごく自然に、自分でそうしてるとも思うまでもなく手下を慮り、手下もその人柄に惚れこんで心から力を貸す」

「そうだな……」

 翠令も白狼の見解に賛成だ。姫宮が貴い血筋を鼻にかけたことなど一度もないし、自分も誰かに強制されてお仕えしているなどと感じたこともない。ごく当然に姫宮は自分の主公であったし、自分はその従者なのだ。

 けれども、白狼は、翠令には到底首肯しかねることを言い始める。

「嬢ちゃんには盗賊なんかやらせるといいぞ。命がけで生きていく集団でも十分率いていける力量があるからな。俺がそう見込んでるんだから本当だ」

 翠令は鼻白む思いで、白狼に文句をつけた。

「何が『本当だ』だ。お前なりの最大限の賛辞なのかもしれないが、帝におなりになる貴い姫宮を盗賊なんかと一緒にするな」

「帝なんぞ血筋だけでなれるもんだろ? だが、盗賊の首領はそうじゃない。だから賊の首領の方が偉い」

翠令は呆れてものも言えない。

「賊の頭というのは、手下の命を預かるんだからな。器量不足なら寝首を搔かれても文句は言えない。出来ない分からないは言い訳にならない辛い立場だ。だが、嬢ちゃんならやれるだろう」

「できない分からないは言い訳にならない……か……」

「ああ、そうか。それで嬢ちゃんは色んなことを勉強したがるのか。なんかの頭目ってのは出来ない分からないでは通らないから。そこは帝ってのも同じなのかもな」

「そうだな……。しかし、帝の御位と盗賊の頭領とを同列に語るのはお前くらいだぞ。お前と話しているとこちらの常識がおかしくなりそうだ」

 ふと、翠令の脳裏に円偉が浮かんだ。常識を愛し、既存の身分や秩序を保ち、そして一層堅固にすることに天命を見出す保守的な人間。見慣れぬ者への善意は施しとしてしか与えられない頑なさ。
 円偉は白狼のこの奔放な思考を嫌うだろう。もっとも、白狼自身と円偉とが直接対峙する事態など起こることなどあるまい。しかし、双璧と並び称される佳卓とは……。

 佳卓は白狼を買っている。その白狼の振る舞い次第では、円偉と佳卓の関係にひびが入ることになるかもしれない。

「白狼、お前はもう少し周りの視線に慎重になれ。もうお前は盗賊じゃない。公に召し抱えられた近衛舎人だ。お前があまりに突拍子の無いことをしていると佳卓様が困ることになる」

 白狼は佳卓の名に反応した。

「そうか……。俺が大人しくしていないと佳卓に迷惑がかかるのか。恩があるのにそれは困るな……」

「そうだ。とりあえずこの御所から離れて竹の宮で行儀よくしていろ」

 白狼は「分かった」と、普段の彼に似合わないほど神妙な顔で頷いた。

 それでも翠令には何か危なっかしさを感じる。

 ──彼は彼自身の物差しで生きているだけだ。何が朝廷に生きる人々にとっての常識で何がそうでないかをそもそも彼は知らない。

 しかし、その不安を言葉でどう表現していいのか分からない。翠令は、明日には竹の宮に向かうという彼の背中を見送ることしかできなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み