二十一 翠令、甘えられる

文字数 6,912文字

 佳卓(かたく)は姫宮に「隣に座ってもよろしいか」と尋ね、そして許しを得て姫宮の床几の隣に腰を下ろした。
 そして、南の方に視線を向ける。

「今日ご案内差し上げたのは、七条の市まででございました。その南にも街がございます」

 いったい佳卓は何を言うつもりなのかと翠令は身構えた。

「南の町の一角、場末に妓楼街がある……姫宮は娼婦とは何かご存知でいらっしゃるか?」

 翠令はもう我慢ならない。

「佳卓様! 先ほどから御年十の女君にしてよい話題だと思えません!」

 佳卓は静かに翠令を見る。

「幸か不幸か子どもはいつまでも子どもではいられないものだよ。いつかは知らなければならない」

 姫宮ご自身もおっしゃった。

「うん。そうよ。それに女君と男君のことならちょっとは乳母から聞いているわ。全く分からないことじゃないの。佳卓、いいわ、話を続けて」

 それでも佳卓は彼なりに言葉を選んでいるようだった。

「……女君の身を男が金で求める。好きで応じる者もいるのかもしれないが、娼婦の多くは自分や家族が生きていくために仕方なく自分の身体を売る。どんなに自分の身体を自分の望みのようにしたいと願っていても、金のためにそうせざるを得ない」
 
 少し抽象的で回りくどい言い方だが、あまり生々しい話はしないで欲しいという翠令の願いを汲み取っているようだ。

 姫宮はご自分の知っている範疇で想像なさる。

「物語では……素敵な男君に想いを寄せられて、ちゃんと文を交わして、どきどきしながら会うものよね。それがないのは……悲しいというか寂しいというか……なのでしょうね」

「惨め」という語彙を姫宮はお持ちでない。まだ知らないのか、高貴なお血筋の方は一生知らずに生きていくものか翠令には分からない。佳卓も少し曖昧な表情を浮かべてから、それを飲み込んで続けた。

「女君はそのような物語に胸をときめかす楽しみがある。そして、どの女君にも夢を見る権利がある。けれども、そんな美しい想いを知る前に、貧しいがゆえにこの世の汚さに飲み込まれてしまう者も多いのです」

「……」

「白狼の母もそうでした」

「白狼の?」

「彼も娼婦の子です。男というのは勝手なもの。金を出して求めておきながら、相手をする女を蔑み、その子も汚らわしいもののように扱う」

「……白狼自身は良い大人だわ」

「まことに。ただ貧しかったというだけで、世間が正しいとする生き方が難しくなっただけです。そして、それに抗うことは大変に難しい。貧しさはその中に生きる人々を疲弊させる。その苦しみを知り、現状を変えていくこと──それが政を預かる立場の責務ではないかと存じます」

 翠令は正智(せいち)を思い出した。そして、それは姫宮も同様でいらっしゃったらしい。

「正智も言っていたわ。政で大事なのは『安寧と豊かさ』だって。徳とか仁とかより
大事だって」

 しかし、佳卓は苦笑して首を振った。

「それも一面の事実です。そして、正智や私が出来るのもここまでです。ただ、実務に携わる者と天子とは立場が異なります。円偉殿が徳や仁にこだわるのは理由があってのこと……」

 佳卓は続けた。

「錦濤の姫宮、貴女には叔母に当たる女君がおいでです。竹の宮の姫君と申し上げる方で……」

「佳卓様!」

 翠令がこう声を上げて佳卓を止めようとしたのは何度目だろうか。今日の彼はあまりに姫宮に対して際どいところまで踏み込み過ぎるように思う。

「翠令、繰り返すが、姫宮はいつまでも子どもではいらっしゃらないのだ。永遠に知らずに済ますことはできない。では、誰がいつどのようにお伝えする? 翠令も乳母も直接竹の宮の姫君を存じ上げない。事情をよく知るのは梨の典侍だが、彼女に話をさせるのは酷だろう」

 翠令は押し黙る。確かに、誰がと言われれば適任者がいない。そして典侍のいない時機というのは、このような時しかない。

 姫宮は驚いた顔でいらしたが、落ち着いた声でお尋ねになった。会ったこともない叔母がいると突然聞かされても、実感がわかないご様子だ。

「ええと、その竹の宮の姫君とおっしゃる方は、お父様の姉姫様? それとも妹姫様? 今どうしてらっしゃるの? おいくつの方?」

「竹の宮の姫君は、姫宮の父上の妹君で御年は二十ばかり。今は京の西にある竹の林に宮を構えてご静養なさっておいでです」

「どこかお悪いの?」

「先ほど、女君が貧しい故に体を売らざるを得ないと申しました。しかしながら、貧しくない、やんごとなきお生まれでも自分の身を他人に蹂躙されてしまう悲劇が起きたのです。竹の宮の姫君はその被害に遭われ、そしてお心を病まれておいでです」

 翠令は佳卓に必死で目配せする。あまりむごたらしいことをお聞かせして欲しくない。彼もちらりと翠令に視線を絡ませて応じた。

 彼は淡々と事実を語った。
 竹の宮の姫君の叔父である先帝が襲い掛かったこと。姫君が望まぬ妊娠をし、ご出産叶わず錯乱されたこと。先帝は御子をあげられぬ幼い少女ばかりを好色の対象とし、故に今上帝を例外として他に子どもを持つことが無かったこと。そして錦濤の姫宮が東宮に招かれたこと……。

 それから。
 円偉は仄かに姫君に好意を寄せており、先帝の暴挙に悲憤慷慨していたこと。それが燕の哲学書を猛烈に学ぶこととなり、天子の徳を重んじる今の姿勢に繋がっていること……。

 姫宮はぽつりと言葉を零された。

「そう……」

 深いため息をつかれて、そして佳卓ではなく翠令を見た。

「私は子どもで分からないのだけど……。だけど、叔母上様は、いっぱいいっぱいお辛い思いをされたのよね?」

 ご自分が子供であることに悔しそうな表情をなさり、そして翠令にお聞きになる。

「翠令は年が上だから分かる?」

「……私も全て分かるとはとても……。お苦しみであったと拝察致しますが……。あまりに類のない過酷なことゆえ……」

「翠令にも分からないほど、怖いことなのね……」

 姫宮の顔がどんどんと強張り、薔薇色の頬から血の気が引いていく。姫宮のお気持ちが沈みゆくさまは翠令には手に取るように分かる。

 なぜなら、もっとお小さい頃このようなことはよくあったからだ。何か恐ろしいものを見聞きなさると、姫宮は翠令に掛け寄って来られたものだ。そして、しっかりと翠令に抱き付く。そうしてご自身で不安を鎮めようとなさり、さらに翠令が背中をとんとんと叩いてあやしてさしあげるとすっかり安心なさるのだ。

 今だってここで翠令が「大したことではございません」と笑い飛ばせば、姫宮のお顔は明るくなるだろう。けれど、そう分かっていても、今の翠令にそれはできない。

 女として生まれたこと。それだけで男の欲望のはけ口となり、自分ではどうにもならない不幸に叩き落されることがある。竹の宮は確かに稀有な美貌ゆえ豺虎(けだもの)に狙われてしまったが、全ての女にもその恐怖があるのだ。
 翠令という名の女である自分にも、いまだ子供でいらっしゃる姫宮にも。

 翠令……と震える声で名前を呼ばれた。姫宮は眉根をきゅうっと寄せ、そして円らな瞳に涙を溜めて翠令に両手を差し出しておいでになる。幼い頃から泣き出す直前にはこのようなお顔をなさるのだ。ここ暫く見かけなかったが……。

 翠令は慌ててにじり寄って、そのお身体をしっかりと抱きしめた。そして、未だ翠令よりずっと小さなお背中をとんとんと叩いて差し上げる。

 くすん……。
 小さく押し殺したすすり泣きが聞こえた瞬間、翠令はそのまま姫宮を抱き上げて立ち上がった。

 座ったままの佳卓が見上げてくるのを見下ろし、きっぱりと翠令は言い切る。

「ここまでです。姫宮はお疲れでいらっしゃいますから」

 上官に対して非礼にあたるだろうが、そんなものは後で叱られればいい。

 佳卓も何も言わずに俯くと、自分の膝を押し下げるように腕を使って立ち上がった。

 翠令は馬があまり得意ではないが、早く駆けさせるのでなければ自分の馬に姫宮をお乗せすることができた。姫宮は翠令の胸に顔を埋め、その両腕を彼女の背中に回してぎゅっとしがみついていらっしゃる。

 佳卓は一度だけ自分の馬を翠令の馬に寄せ、無言で姫宮のご様子を確認すると、後は翠令の馬の後ろに自分の馬をつけさせた。

 陽明門では佳卓が先回りして馬を降り、翠令から姫宮を抱き取った。翠令は自分も馬を降りると、姫宮を再度受け取り、そのまま内裏へ向かう。そしてもう佳卓はついてこなかった。
 賀茂社からの帰途、三人は誰も口を利いていない。

 昭陽舎に着くと、何も知らない梨の典侍が明るい声で出迎えてくれた。

「まあまあ、無事のお帰りよろしゅうございました」

 そして翠令に抱きかかえられた姫宮を覗き込むようにして尋ね申し上げる。

「宮様、お疲れになられましたか? 翠令殿に抱っこをせがまれるほど?」

「……うん」

 典侍は微笑む。

「お外を楽しんこられたようで、ほんによろしゅうございました」

 典侍は、姫宮の「外出したい」という願いが叶ったことを単純に喜んでいる。姫宮は少し心苦し気な顔をされたが、にっこりと笑顔を作られた。

「うん。同じ年くらいの子とも会えたわ。楽しかった。あのね……お外で楽しかったから錦濤に居た頃を思いだしちゃった。今夜は翠令と一緒に寝ていい?」

「あらあら、まあまあ」

 典侍は十歳の姫宮が子ども返りなさっているのを、ただただ愛らしいと感じているようだ。

「では、夕餉を支度いたしましょう。お休みの際には翠令殿も御帳台に入られて……」

「あ、ご飯はいいわ。お腹が空いていないの。それより早く眠りたくて……」

「まあ、もうへとへとでいらっしゃる……。では、今すぐお休みなさいまし。今日の楽しい話は明日にでもお聞かせくださいますよう」

「ええ……」

 御帳台で寝具の中にお入りになった姫宮は、枕元に座る翠令にふっくらとした手を伸ばしておいでになった。その掌を翠令も両手で握る。姫宮が仰せになった。

「翠令……。佳卓を怒らないであげてね」

「私が近衛大将を、でございますか? そんなこと……」

 姫宮は少しだけ相好を崩された。

「山崎津では佳卓を刀で脅してたじゃない。私のためなら近衛大将を諫めるんだって言って」

 ああ、と翠令も思い出して苦笑した。

「今日の私が佳卓の話にびっくりしたのは確かよ……。帝をはじめとする朝廷は人を殺してしまう命令も出す立場なんだって分かって怖くなっちゃった。それに、竹の宮の姫君がおいたわしくて悲しい気持ちになったし、この世にはどんな不幸が襲い掛かってくるか分からないってとても不安。でも、佳卓の言うとおり、知らずに生きていくことはできないわ」

「……」

 翠令は姫宮の御手を握る手に力を込めた。そうなのだ。人の世の現実であり、いつかは直面しなくてはならない。

 ただ、翠令にとってさえ今日の佳卓の言は聞いていて負担であった。御年十の女の子どもには……。

「あのね、翠令」

 姫宮はしっかりしたお顔をなさっていた。

「私はね、恐ろしい話をする大人よりも、子どもには何も分からないだろうって考える大人の方が嫌いよ。佳卓は私が大人になれることを信じてくれたのよね。うん、そんな佳卓に応えてあげなくちゃね」

 今日は佳卓がいたからお外を見られたのよね、と姫宮はお続けになる。

「私の周囲って大人ばかりじゃない? 東宮になるからには民を思いやらなきゃって分かったつもりでも今までピンと来なかったの。だって私が知ってる民の方がしっかりした大人なんだもの。だけど、今日、同じくらいの子どもと会って分かった気がする」

「……」

「誰もが生まれた時からしっかりした大人じゃないもの。今の私のようにまだ子どもの民もいっぱいいて、私と一緒に大人になるのね。そういう今の子どもたちのために、私は将来ちゃんとした帝にならなきゃいけないわね」

 そうか、と翠令は思う。確かに姫宮は大人に囲まれてお育ちだった。市井の、同世代の子どもたちをご存知でなかったのだ。

「今の帝もお身体が弱くていらっしゃるのにとても頑張っていらっしゃる。私も出来るだけお手伝いして、そして帝が安心して御位を引き継がせることができるような、そんな立派な東宮になりたいわ」

「姫宮……」

 確かに姫宮の双肩に、今の同世代かそれより幼い子どもたちの未来がかかっている。それが東宮になるということだ。つい先日まで錦濤でハクと戯れて過ごしていた少女には重い責務だと思うが、姫宮はしなやかに受け入れていらっしゃるようだった。

「私だけが独りで政を行う訳じゃないし。先帝はとても悪い帝だったけど、だから、その後を良くしようって皆が頑張っているのよね」

「さようですとも」

「正智は東国で安寧と豊かさを実現しようとするし、円偉は京の都で理想の政治を考えてる。佳卓は、京では白狼のような盗賊を味方につけて治安を守るし、東国では朝廷の代表として正智と一緒に頑張っているし……」

「ええ、姫宮には優れた臣下がいっぱいおりますとも」

「うん、私も彼らに応えていかなければならないわね」

 そう意気込まれる姫宮の瞳には力強くも明るい光が宿っている。

 翠令は安堵とともに一抹の寂しさも覚えた。姫宮は大人におなりになる。頼もしくもあり、そしてあまり急がないで欲しいとも願う気持ちもある。

 姫宮は、翠令の複雑な表情をどう受け取られたのか、にこりと微笑んで軽快な声色でおっしゃった。

「それにしても、円偉に好きな女君がいたなんてね!」

 姫宮が楽しそうにおっしゃるので翠令の顔も自然とほころぶ。

「本当に。堅苦しく真面目なばかりの御仁かと思っておりましたら、意外な面もおありのようですね」

「ふふ、円偉にも若い頃があったのねえ。そうよねえ、そして初めて本を読んだ子供時代もあったはずなのよね……それは私くらいの年だったかもしれない。私も今からいっぱいご本を読めばいろんなことが分かるようになるかもね」

「さようでございますとも。姫宮にはお時間がたっぷりございます。焦らず一歩一歩大人におなり遊ばしませ」

「そうね……。そして、今の帝や私が御所にいて世の中が平和なら、竹の宮の姫君もごゆっくり静かにお過ごしになれるわね……」

 そうだ。姫君は今日、初めてご自分に叔母上がいらっしゃることをお知りになったのだ。

「お元気になっていただきたいわ。私のたった一人の叔母上様ですもの」

 姫宮はふと天井を見上げられた。

「叔母上様とお話したい……。お父様の妹姫で、お父様の子どもの頃もよくご存知よね。お会いしたいわ。いつかお元気になられるといいのだけれど……」

「ええ、まことに……。時間が傷を癒すのを待つよりないでしょうけれども……。姫宮がしっかり御所を守り、このまま静かにお暮しさせてさしあげれば、少しずつでもご快復なさるのではないかと思います」

「うん。早くそうなるといいわね……」

 そうだ! と姫宮が高いお声を出し、敷物の中でくるりと身を捩って翠令に顔をお向けになる。

「お元気になられたら、市に遊びにお出かけなさるといいわ! お菓子を買って馬に乗って……とーっても楽しいことをなさるといいと思うの!」

 深窓の姫君がそのようなことを楽しみにするとは思えないが、姫宮は今自分が体験して楽しかった出来事を例に挙げていらっしゃるのだろう。

「今日は楽しゅうございましたか?」

「ええ、ちょっとべそをかいちゃったけど、楽しいこともいっぱいだったし、勉強にもなった。……だからね」

 姫宮はもう一度繰り返された。

「佳卓を怒っちゃ駄目よ、翠令」

「わかりました。重々承りましたとも、姫宮」

 お喋りを終えて満足なさった姫宮はそのままうとうととなさる。翠令は自分の手の中にある、姫宮の拳をとん、とんと柔らかく叩いて眠りを促した。

 姫宮はそうっと瞼をあげられた。

「ありがとう……。翠令が一緒だと安心。叔母上様のように怖い思いをしなくて済んだのも、翠令が守刀としてついてくれていたからだわ。ありがとう。それに怖い時は翠令が慰めてくれて本当に心強い。だから……私が大人になるまでずっとそばにいてね……」

「もちろんでございますとも」

 翠令はそっと姫宮のふっくらとした手を握って差し上げた。

 姫宮がお休みになった後も、翠令はその寝顔を拝見する。置かれた火皿の上、油の先に浸した灯心の先で小さく温かい火影が揺らめき、静かで穏やかな雰囲気が御帳台に満ちていた。

 翠令は姫宮の「ずっとそばにいて欲しい」というお言葉を嬉しく思う。三歳で初めてお会いした時から、その手を引いて歩んできた。ぱたぱたと駆け寄ってきて、両腕で翠令に抱き付き、「翠令大好き」と何度そう口にして下さっただろう。

 ──されど、それは大人になるまでだ。

 政をどう執り行うのかなどという高度な問題はいずれ、ただの女武人に過ぎない翠令の手に余るようになる。
 姫宮が今日のように翠令に甘えてこられ、翠令がそれに応えて差し上げる年月ももうすぐ終わってしまうのだ。そして、その先は……。

 ──姫宮が大人になられたら、円偉様や佳卓様といった才人とお過ごしになる……

「あ!」と思わず翠令は声を上げる。

 ──しまった!

 佳卓の名前が脳裏に浮かんで、翠令は自分の失態に気がついた。

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