二十六 翠令、月下の弦を聴く

文字数 4,817文字

 梅雨の合間にぽっかりと晴れ渡った夜が訪れた 。

 ここのところ長雨続きだったため、翠令はろくに弓の練習が出来ていない。
 せっかく上達してきたところで練習を怠ってしまうことが悔しく、この夜は姫宮の許しを得て武徳殿前で弓の練習をすることにした。

 今宵は望月、明るさは十分な夜だった。

 武徳殿前に用意した的に大抵の矢が当たる。自分でも手ごたえを感じた翠令が休憩を入れようとしたとき、ふと振り返った先に右近衛大将趙元が立っていた。

「趙元様……。気が付かず無礼を致しました」

「いや、こちらも翠令の集中を乱したくなくてそっとしていたから」

 翠令は首を傾げた。急ぎではなくとも、何らかの用向きはあると思われるが、翠令に心当たりがない。

「……何か?」

「このような月夜には佳卓様が燕弓を演奏される」

「燕弓?」

「燕からの客人から献上された珍しい楽器だよ。弓で弦を擦るものでね、毎年夏になると佳卓様が月夜に大極殿前でご演奏なさるんだ。翠令も聴きに行くといい」

「……私は無骨者ですので、楽は全く嗜まないのですが……」

「実は私も楽のことはよく分からんよ。ただ、珍しい楽器なので一見の価値はあると思う。それに……このような時の佳卓様は昔のことをお考えなのでね。翠令もその昔語りを聞きに行くといい」

「それは……?」

 趙元は穏やかに笑んだ。

「あの方は照れ屋だ。一方的に尊崇されるのを好まない。過去の愚かさや恥を麾下に知っておいて欲しいと願っていらっしゃる。翠令も佳卓様から一度じっくり聞いておくといい。今年の夏は錦濤の姫宮の立太子の礼の準備で忙しくなるだろうから、今夜がいい機会だと思う」

「佳卓様は何か過去にご失敗でもなさったんですか?」

「失敗というか……まあ、それを本人から伺うといい。佳卓様が過去に何を思い、そして今後どうしようとしているか。それを佳卓様ご自身から聞くことに意味がある」

「ああ、それから」と趙元は付け加えた。

「翠令はまだ大極殿を正殿とする朝堂院に入ったことないんじゃないか。武官にはあまり縁のない場所だからね。これを機会に足を踏み入れてみるといい」

 翠令も佳卓の過去と朝堂院に興味を覚えた。

 大内裏の中央にある朝堂院に入るのは、武人の翠令にとって初めてのことだった。応天門から真っ直ぐ中に入ると、大きな広場の両端に大陸風の建物が整然と列をなす。朱の柱に白い漆喰の壁、そして緑の連子窓が夜目にも鮮やかだ。屋根の要所に配された緑釉の瓦が月を受けて濡れたように光っている。

 あえかな弦の音がする。

 ──これが佳卓様の奏する楽器の音か?

 耳を澄ますと、朝堂院の最奥の大極殿の方から聞こえてくるのが分かる。

 翠令はその音に吸い寄せられるように歩を進めた。

 近寄れば寄るほど大極殿の、その巨大さの迫力が増す。大極殿は他の建物より一段高い龍尾檀の上にあり、さらに高い基壇の上に築かれていた。正面十一間の幅もさることながら天を塞ぐような重層の高さが、その威容を誇る。

 しかし、その壮麗な建物の前に広がる龍尾檀の上を、華やかさと程遠い哀愁を帯びた弦の音が漂う。

 ──哀しい音色だ……

 夏の夜の静かで涼やかな月影の中、その奏者は龍尾檀を囲む高欄の東角に、半跏を組んで腰かけている。

 彼の持つ燕弓という楽器は確かに風変わりで、奏者の膝の上に置かれた六角形の小さな箱から竿が伸びたものだった。彼はそれを左手で縦に構え、そして張られた弦を右手の弓で擦る。

 佳卓は半眼で自らの手から紡がれる音楽に耳を傾けながら、男にしては細く長い指の形を変えながら弦を押さえ、右の弓を優雅に舞わせていた。その動きに合わせて、異国風の憂愁を帯びた旋律が紡ぎ出される。

 不調法で楽などの風雅に疎い翠令にも、その楽器の発する音色以上に、奏者が心を籠めて美しい曲を生み出していることが感じ取れた。 

 演奏に区切りがついたところで、佳卓は螺鈿細工が施された長い竿を自分の肩にもたせ掛けて、龍尾檀の下に佇む翠令に尋ねた。

「やあ、翠令。趙元か朗風に何か言われたかい?」

「はい、趙元様に……。あの、珍しい楽器を弾いていらっしゃると……」

「で、ついでに私の昔語りも聞いておいで、と言われたんだろう?」

「ええ……。でも、無理に伺わなくとも私は構いませんが……」

 燕弓の音には哀切な響きがあったた。彼にとって悲しみを伴う記憶なら、自分のためにこじ開けて欲しくはなかった。

「翠令は優しいね。気遣ってくれることには感謝する。しかし、私はこの話を麾下に知っておいて欲しいんだ。……そんな下にいないで上がっておいで」

「……龍尾檀はご身分が高い方でないと上れないのでは?」

「誰も見てやしないさ。咎められても私がどうにかする」

「でも……」

「私は翠令を見下ろしたくないのでね。上ってきて欲しい」

「はあ……」

 それでも龍尾檀への階を全て登り切るのは憚られ、翠令は佳卓と同じくらいの目線になる段で足を止めた。

 佳卓は燕弓を掲げて見せた。

「変わった楽器だろう?」

「ええ、燕弓という名だそうですが……ですが、私は港街の錦濤育ちですが、燕の人々が持っているところを見たことがありません」

「これは燕からも遠い異国の楽器を、さらに燕で改良したものだそうでね。燕でも同じ物がほとんどない珍しい品だそうだ」

 翠令が合いの手を打つまでもなく、彼は言葉を継ぐ。

「京の都にも鴻臚館という外国の使節をもてなすところがある。そこで会った燕の客人が持っていた。私はまだ七歳くらいの童子の頃で、父や兄に宴の席に連れられて行ったんだ。そこで燕人がこれを奏でていた」

「……」

「形も珍しければ音も聞いたことがない。私はすっかりその楽器に魅入られてしまい、大人達に欲しいとねだった」

「それで贈られた、と。良かったですね」

 彼は苦い笑みを浮かべた。

「さっきも言ったように燕でも珍しいものだ。そしてその燕人も旅に持ってくるくらいだからかなり気に入っていたのだろう。だから……言を左右にして断ろうとした。そしてその様子を見た父も兄も私に諦めさせようとしたのだが……。子どもの駄々ほど手に負えないものはないからね。根負けした周囲が燕人を説得して私に差し出すようにした。……済まないことをしたと思う」

「……小さい子どもというのは頑是ないものですし……」

 彼は応天門の、その更に南を見た。朱雀大路を下るとその東西に鴻臚館が今もある。そこにいる過去の自分に向けるかのように、彼は冷ややかな口調で言った。

「いや、七歳の私は十分に分かっていたんだよ。『子どもの駄々なら通る』とね。七歳の私の我が儘はこの場面でも子供らしさとして許される。しかし、大人たちが(つつが)なく友好を深めなければならない場面で、燕の客人が断るのは大人げないと目される。そして断り続ければ両国にしこりを残してしまう。だから燕の客は私に燕弓を贈らなければならなくなる……当時の私は計算づくでわざと子供らしく見えるよう駄々を捏ねたんだよ」

「……」

 七歳の子供がそこまで知恵が回るのか……とも思うが、早熟な子どもならこれくらいの奸計は巡らせるのかもしれない。

「自分でも、嫌な餓鬼だったと思う」

 佳卓は、今度は東に目を向けて冷笑を浮かべる。

「そんな餓鬼がそのまま大きくなっても、軽佻浮薄な少年貴族にしかなれなくてね」

「……」

「趙元の父にも迷惑をかけた」

「趙元様の父上ですか?」

「もともと彼の家は武門を司る家系だ。彼の父親が東国鎮圧の大将に任じられたとき、その東国遠征に私がついて行きたいと言い出したんだ。初冠(ういこうぼり)を済ませてすぐ……十三歳の頃だったか……」

「佳卓様ならお若い頃から武芸の腕に優れておいででしたでしょう……」

 彼は大きく首を振った。

「上手いと自分で思い込んでいたがね。左大臣家の次男坊が貴族の嗜みとして馬や弓を習う……そりゃ周囲は世辞を言うよ。確かに儀礼をこなせる程度には出来た。しかし、ただそれだけだ。到底実戦で使えるようなものではなかったね。兵を率いる趙元の父が渋ったのも当然だった」

「結局は同行されたのですか?」

「朝廷一の権門の子息が望むのだ。趙元の父だって呑まないわけにもいかないだろう」

「……」

「それにその時の東国出征はさほど危険ではなかった。反乱を起こしているのは一ヵ所だけだったので比較的安全な旅ではあった。それでも、総大将の趙元の父は気苦労が多かったんじゃないかと思う。何しろ、連れて来た左大臣家のお坊ちゃんは物見遊山気分だったからね。手に入れたばかりの燕弓を荷物に入れ、そして東国では女君と恋に戯れるという風流人気取りときたものだ」

「女君」

 翠令は思わず佳卓の言葉のその部分を反射的に繰り返した。

 佳卓は翠令をまっすぐに見て、穏やかに笑む。

「何もなかったよ、彼女とは。私はただ恋に恋する、若くて愚かな少年であったというだけのことだった」

 彼は明るく光る黄色い月を一度見上げたが、すぐに視線を背けてしまい、そして再び翠令を見た。煌々と明るい夜の中で彼の顔ははっきりと見えるのに、その表情は硬いばかりでどのような感情がその奥にあるのかよく分からない。

「彼女は東国の豪族の娘だった。親子とも京風を好んでね。その土地には珍しい寝殿造りを模した邸宅を建て、古びたものだったが都風の装束を着て過ごしていた。京で流行りの物語も断片的に伝わっていて、彼女はそれらを読むのがとても好きだった。年は私と同じくらいだったね」

「物語に登場するかのような貴公子が京から現れて驚いたことでしょう」

「うん……。私も『鄙を旅する貴公子』という役柄に酔っていた。当然のように恋文を交わし、軒で共に月を見た。せがまれるままに都の話をしてやり、燕弓を奏してやった」

「……」

 翠令は自分の顔が曇っているだろうということに気づいていた。佳卓の心に近づいた女君に妬心があるのも認めるが、それ以外にも、その身分差で始まる恋物語の先行きに不穏なものを感じるせいでもあった。

「それ以上のことは何もなかったよ。彼女の父も側近くで起居していたしね……。そして、間もなく趙元の父があっさり反乱を片付けたから京に戻ることになった」

「それで女君とは……?」

「別れは随分盛り上がったんだよ。『私は必ず東国に戻って貴女を妻にする』とかなんとか情熱的なことを口走ったものだ。……どうしたね、翠令?」

「今の、何事にも斜に構えていらっしゃる佳卓様とは違いますね……」

「まあね、今の私はこの頃の私から変わろうとしているのでね」

 佳卓は軽く口の端を上げて笑った。そして続ける。

「何しろ私は愚かで、思慮の浅い軽い少年だった。その娘には、別れ際に『どうか月をご覧になるたびに私のことを思い出してください。この東国でも京でも私たちは同じ月を見ているはずですから』と言い置いていたが……」

「詩情のあるお言葉ですね」

「いや、都の男が使う、わりと定型的な表現だよ。翠令、誰かにそんなこと言われてものぼせるなよ」

「私は武人です。そのようなことを言われるような姫君ではありません」

 佳卓は少し頬を緩めて、翠令を少し眩しそうな眼付きで見つめた。

「翠令は美しくて気持ちのいい人柄だから、近衛府でも好意を持ち始めた男が複数いると私の耳にも届いているよ。だが、翠令、女を軽く扱うような男に騙されては駄目だ」

「はあ……」

 翠令は曖昧に笑うよりない。

「例えば、昔の私だ。東国の娘に色よいことを言っておきながら、帰り道ではもう忘れていた。左大臣家の子息が鄙の豪族の娘と結婚するなど本気で考えてはいなかった。都の暮らしに戻れば、どこぞの釣り合いの取れた家格の姫君と婚姻するのだろうとぼんやりと思っていた」

「……」

 そんなところではないかと翠令も思っていた。

「一方で私は勝手なことも思っていた。私には東国で私を恋い慕い待ちわびている女がいるのだと」

「あの……?」

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