三十九 白狼、山崎津の話をする

文字数 6,417文字

 同じことは三日続いた。夕方になり日が翳り始めると、姫君は泣き叫び始める。部屋の中の調度を壊し、止めようとする女房達に衣を破かれても彼女は暴れ、そしてボロボロのなりで外に走り出てくる。

「白狼! 助けて!」

 彼女は男が襲い掛かってくるのだと言い募る。彼女に見えている男というのは、あの猥談好きの下衆ではなく、童子の頃に襲い掛かってきた豺虎(けだもの)であるようだった。あの下衆男の一件は、彼女が封じ込めようとしてきた忌まわしい過去をはっきりと呼び起こしてしまったらしい。

 彼女は白狼に訴える。

「あの男が来るわ! あの男が! あの男が相手では誰もわたくしを助けてくれない! 父様も兄様もいないの! あの男に何もかも奪われてしまったのよ!」

 今の姫君は二十ほどの大人なのに、こうして取り乱している間、彼女の中で時間が御所の中で襲われた童女の頃にまで遡ってしまう。

 佳卓の話では、姫君は自分を守ってくれなかったからと当時の周囲の大人達を恨んでいるという。その筆頭が梨の典侍であり、白狼は酒を奢られたこともあって恨まれた典侍の方を気の毒に思っていたが……。
 確かに姫君のこの狂乱状態を目の当たりにすると、周囲に見放されたという孤独と絶望もまたこの姫君を苦しめて来たのだとやるせなく思う。

 姫君を抱きとめるたびに、白狼は初めての時と同じようにしてやった。「俺を見ろ」と言い、まずは碧い瞳で覗き込む。彼女は彼と目が合うと動きを止め、そしてまじまじと彼の容貌を見つめる。白い肌、碧い瞳、高い鼻梁、色の薄い髪──異形と指差されてきたその容貌を。
「ほら、俺だ。あんたを守る妖だ」と白狼が言い聞かせると、彼女はふうっと力を抜いて気を失うのだった。

 ──辛いだろうな。

 彼女にとっては三日以上男に襲われ続けていることになっている。本人自身も幻に過ぎないと分かっていても、いや、分かっているからこそ、見えない恐怖に疲弊しきっている頃だろう。

 日が傾き始めた。また夕刻に差し掛かる。白狼は階の一番下に腰かけながら空を見上げてため息をついた。空の色は毎日毎日代わり映えしない。あの女にとって辛い時間がまた始まってしまう……。

 殿上が騒がしくなった。

 女房達が刺々しく「几帳の奥でじっとお座りなさいまし」「貴女様ほどのご身分の方がそのようにふらふらと立ち歩くなどはしたない」「高貴な方がしきたりを守れないなどと恥ずかしゅうございましょう」と声を発している。

 女房達の声を向けられている姫君は、どうやら(ひさし)の辺りにいるようだった。白狼は立ち上がって建物の方を伺う。

 ふらっと御簾が揺れた。目に痛いほど華やかな色目の袖が、御簾をそっと押し広げていた。そしてその隙間から、姫君が弱々しい様子で顔を出す。

 床の下にいる白狼を認めた彼女がほっとした表情を浮かべた。彼女と目が合った白狼もまた、彼女が彼を見て多少なりとも安堵したようなのが少し嬉しい。

 姫君は御簾の端から身を滑らせて簀子(すのこ)に出て来た。そして、白狼の側の高欄(こうらん)に崩れ落ち、欄上に両手をかけてそこに突っ伏す。

 庭に立つ白狼がその真下にまで歩み寄った。頬に涙が流れているのが見て取れる。

「泣いているのか?」

 白狼の側にいる姫君に向かって、御簾の中から女房の金切り声が浴びせられる。

「まあ! 貴女様という方は! 正気を失っているときならまだしも!」

「そんな賤しい者に顔をお見せになるとは! しきたりに反しておりましょう!」

「ご自分の身分もお忘れか!」

 一言一言が耳に入るたびに、姫君は肩をびくりと震わせる。

 白狼は女房達に構わず話しかけた。

「……大丈夫か?」

 姫君は首を激しく振った。

「もう、嫌。嫌よ……また、同じことの繰り返し……。あの男が襲い掛かって来るわ……」

「安心しろ、あんたには俺がついてる。俺は妖で、どんな恐ろしい相手でも食ってやるから」

「ありがとう……」

 彼女は淡く笑んだ。

「でも……襲ってくるのよ……また……」

「俺がいるさ。安心して襲われていろ」

 その言葉を受けて姫君は白狼を見つめた。

「白狼は、あんなものはただの幻だとは言わないのですね……。女房達はいもしない幻覚に恐れ戦くわたくしを愚かだと笑うのに」

「他人が幻に過ぎないと笑うことはたやすい。だが、あんたにとっては現実にいるんだろう?」

「ええ……いるのです、わたくしにとっては……だから逃げるのです。不甲斐ないと思っていますが……」

 白狼は真面目な顔で首を傾げた。

「不甲斐ない? 何が?」

「それは……恐怖に負けて、このように御簾の外に逃げ出し……自分の父でも兄でも、そして夫でもない者に顔を見せて頼ってしまうことです。しきたりに適った生き方ではない……」

「しきたり?」

「御簾の内で静かに大人しくするのが女君のあるべき姿。わたくしは恐怖に負けて逃げ出してしまう……。きちんとできない弱い人間です……」

 白狼はぼりぼりと頭をかいた。

「その、あんたが言うしきたり通りに振る舞えないからって、何がどう困るんだか分からんな。俺は、逃げることが恥ずかしいなどこれっぽっちも思わんが」

「でも……」

「力づくで女を襲う男なんぞ人間の屑だ。現実でも幻の中でも関りならずに済むよう、逃げられるなら逃げた方がいいさ。そりゃ」

「軽く言うのですね……」

「真っ当な選択だと思うからだな。逃げることは大切なことだ。立ち向かって勝てるなら戦え。だが、勝てもしないのに戦うことはない。負けたらおしまいだからな」

「……」

「大切なことは、戦うことじゃなくて勝つことだ。屑になんか負けなくないだろう? だったら逃げろ。俺だって勝ち目がなけりゃさっさと逃げる」

「白狼なら……?」

「勝てる手はずが整うまで手下と一緒に逃げてるさ。そうだ……。あんたにだって手下がいるんだからあてにしろ」

「手下?」

「あんたが俺をここにおいてくれたから、俺はあんたの手下になった。あんたは俺の主公だろ? 俺は妖だからあんたの敵を食べられる。せっかく、あんたに使える手下ができたんだ。きちんと俺を使いこなせ」

「使いこなす?」

「俺が盗賊で食べてこられたのは手下に助けられたからだ。また、俺もあいつらのために良い頭領でいてやったつもりだ。主公と従者は互いに支え合い、役割を担いながら共に生きていくものだ。だから、あんたも俺に助けられていればいいだろう」

「……」

「ああ、盗賊稼業を例に出されるのは嫌か? なら、別の奴の例を出そう。佳卓がときどきここに来るんだって?」

「カタク……近衛大将の佳卓のことですか?」

「そうだ、あいつだって麾下を抱えて仕事している。あいつ個人の武芸の腕も確かに凄いが、俺を捕らえるのを独力でやり遂げたわけじゃない。麾下を率いて俺たちを京から追いやって、最後は錦濤(きんとう)の嬢ちゃんまで利用した」

「……話が見えません。錦濤の嬢ちゃんとは誰のことですか?」

「ああ、そうか。済まんな、俺は何かを説明するのが苦手なんだ。ええと、嬢ちゃんというのは錦濤の姫宮って呼ばれている嬢ちゃんだ」

 姫君は錦濤の姫宮という言葉に反応した。

「白狼は錦濤の姫宮と申す女君と面識でもあるのですか?」

「ああ、あの嬢ちゃんとはちょっとした付き合いだ。佳卓が嬢ちゃんを囮に俺をおびき寄せ、俺たちはその罠にまんまとはまっちまったんだ。そう、それで翠令がかんかんに怒っていたな……」

「囮? スイレイ?」

 白狼は地面に立ったまま、片腕を上に延ばして高欄に凭れ《もたれ》かかった。

「一つ話をしてやろう。面白いぞ」

 白狼は山崎津のあの夜を語った。錦濤の姫宮の財宝を奪いに船を襲ったが、それは佳卓の罠だったこと。錦濤の姫宮が囮に使われたことで、幼い頃からずっと姫宮を護ってきた女武人の翠令が激昂したこと。それから自分はとうとう近衛に捕まり、佳卓の配下となったこと──。

 姫君は呆気にとられた様子で白狼の話を聞き終えた。

「……」

 姫君が口に出そうとして言葉に迷っている間、夕方の空に烏がカアと鳴く声が聞こえた。西の空はすっかり茜色に染まっている。

 白狼は「日が暮れるな」と独り言ち、姫君の顔を見る。姫君の頬の涙はすっかり乾き、白い筋が残っているだけだった。
 白狼にその跡を見られていると気づいた姫君は、それを拭うと、ふうと一息ついた。

「白狼の話を聞いていたら、夕暮れ時でも恐怖を忘れていられました。山崎津という所では一晩に随分色んなことが起こったようですね……。錦濤から来た女君も、その翠令という女武人もとても活発な性質のよう……。それから佳卓には時々会いますが……いつも礼儀正しく座っているばかりなので、武官としての働きぶりを聞くのは新鮮です」

「俺の話が面白かったか。そりゃ良かった」

 姫君は少し考えてから白狼に命じた。

(きざはし)を上って来なさい。そして、これからは午後から簀子でお過ごしなさい。わたくしの目の届くところに侍っていて欲しいのです」

 御簾の中から姫君の言葉を聞きつけた女房はここでも甲高い声を上げた。

「なりませぬ! そんなこと!」

「落ち着かれたのなら、お早く御簾の中にお戻りを!」

 姫君は女房達に振り向いた。落ち着いて話す姫君の本来の声は高く澄んでいる。

「わたくしがこうしていられるのは白狼がいたからです。白狼が珍しい話で私の気を紛らわせてくれたから、今日のわたくしは夕方に暴れることがありませんでした。だから、何も調度は壊れなかったし、そなた達も何の後片付けもしなくて済んだでしょう? これからも白狼には私の目が届くところに控えていてもらいます」

「されど、そのような賤しいものを殿上に侍らせるなど、貴い女君の護るべきしきたりに反します」

「しきたりなど振りかざしても、わたくしが暴れるのを防げなかったでしょうに。わたくしが物を壊してしまうと、後片付けも面倒でしょうし、そのたびに内侍所に使いを出して入手するよう手配するのも手間なのではなくて?」

 女房達はじっと黙り、そしてそのうちの一人が言い放った。

「よろしゅうございましょう。犬か猫をお傍に置かれるのと同じこと」

 姫君は不快げに言い返そうとした。

「そのような言い方、白狼は……」

 姫君が白狼を庇いかけたその時、すぐそばで「わん」という声がした。

「……?」

 彼女が振り返るのに合わせて、白狼は笑んでやった。

「俺は犬畜生扱いには慣れているから気にするな。俺を殿上に上げるのが何か具合が悪いなら、動物の鳴き真似くらいしてやるぞ」

 姫君はぽかんとした顔で確認した。

「先ほどの声は、白狼が鳴き真似をしたのですか?」

「そうだ」

「意外なこと……。白狼はそんなおふざけはしないものかと思っていました」

「多少は面白みもなけりゃ集団の主は務まらない。四角四面な頭領じゃ手下も息が詰まるからな」

 白狼は姫君にだけ聞こえる小声でもう一度「わん」と鳴いてみせた。

 姫君はふっと可笑し気に目元を緩め、今度は白狼の方が少し戸惑う。どこかで似たような顔を見たことがあると記憶を探り、それが錦濤の姫宮で、そう言えばこの二人は叔母と姪にあたるのだったなと思い出した。

 黄昏時が終わる頃、屋内に次々と明かりが灯されていく。
 姫君は母屋の中で女房達に身の回りの世話をされていた。簀子に控える白狼の傍を、衣類や(たらい)を持った女房達が通り過ぎる。彼女達は白狼に対する忌々し気な視線を隠そうともしない。

「このような身分の者がこんな場所に……」

「高貴な女君の側近くの殿上にこのような男が侍るとは……」

「異例というより……異常じゃ」

 姫君に聞きとがめられないようひそひそと囁かれるこれらの声を、白狼はあっさり無視していた。
 こんな女どもはどうでもいい。それよりあの女は落ち着いているのか。

 白狼を上げたのが功を奏したのか、姫君は夜更けまで平穏に過ごした。大殿油で明るく照らされた御簾内で、姫君と女房達が夕食を取ったり水を遣ったりする。時おり彼女は庭に視線を向けて白狼の姿を確かめる。

 ふと気づいて彼は場所を変えた。彼女からすると、明るい室内から暗い外を見ることになる。これでは自分の姿を見つけにくいだろう。

 彼は釣灯籠の真下の明るい所に立った。ここならあの女から見えやすい。しかし、それは傍にいる女房にとっても目につきやすく、彼女達の非難がましい視線を受けるということでもあった。

 確かに自分たちの一挙手一投足が男に見られていては愉快ではあるまい。白狼は彼女たちに背を向け、庭を眺めた。

 しかし、この日の空は曇りがちで、闇に沈む庭はただ黒い影の濃淡があるだけでつまらない光景だった。
 ふっと彼は姫君の顔を思い出した。彼が見慣れた彼女の顔は、いつも悲壮な色を浮かべている。ところが、彼が「わん」と犬の鳴き真似をしたとき、その顔が少しだけ緩んだ。その笑んだ顔が脳裏に浮かぶ。

 白狼も自分が思い出した彼女の笑顔につられ、誰もいない夜の陰に向かって自ずと微笑みを零す。

 ──自分の冗談が受けると嬉しいものだな

 白狼は滅多に軽口を叩かない。たまに口にしても上手い冗談だと思えない。だから、自分のおふざけで誰か人が笑うのは貴重な体験だった。きっとそれで印象に残ったのだろうと、そう白狼は思っていた。

 その背中に、姫君の玲瓏とした声がかかる。

「白狼」

 彼が振り返ると、彼女は御帳台に入りながら簀子の白狼に首を巡らしていた。

「白狼、よろしく頼みます」

 母屋と簀子とでやや距離があったが姫君は直接言葉を掛け、それは耳ざとい白狼にも届く。彼は声で答えず、ただ頷いてみせた。

 しんしんと夜は更けゆく。
 簀子の白狼も眠気を感じた頃、御帳台の垂れさがった布が揺れた。灯は抑えられていたが、御簾の外からもほんのりと屋内の様子が見て取れる。

 布の端を寄せて、姫君がそうっと中から現れる。侍っていた女房は顔を上げたが、姫君がその前を通り過ぎるのを黙って見送った。姫君は母屋(もや)(ひさし)を仕切る几帳にも隠れず、白狼の傍までやって来る。

 簀子に座っていた白狼は立ち上がり、廂との間に掛かる御簾を持ち上げてやった。

「どうした?」

「……助けて……」

 その小さな声は震えていた。錯乱こそしてはいないが、その瞳は恐怖で見開かれ、その響きには切羽詰まったものがあった。

「怖いの。暗がりに誰かがいそうで……」

 姫君は顔を両手で覆った。薄い肩が小刻みに震えている。

 夕方を乗り越えることはできたが、夜を独りで眠るのが辛いのだろう。
 恐怖にかられ、少し正気に戻って、また不安におののく。目まぐるしく変わるその様子が白狼には痛ましい。

「頭では分かってるわ、どこにも怖い男なんていないって。でも、怖いの……」

 白狼は息を吐いた。本当に恐ろしいものは他人ではない。他人に植え付けられ、己の心の中で膨れ上がる形容しがたい黒々とした不安。これこそがいつまでもいつまでも、どこに逃げても、その当人を苦しめるのだ。いくらその魔物は自分の心にしかいないと分かっていても。

「外に出て夜風に当たれ。少しは気分が変わる」

 姫君は御簾から簀子に出た。彼は彼女の側に腰を下ろして胡坐(あぐら)をかき、立っている姫君に片手を伸ばした。

「言ったろう? 俺は妖だから怖いものは何でも食べる。あんたの頭の中にいるなら、それも喰ってやろう」

 姫君は彼の手を取り、彼に引かれるまますとんと彼の脚の上に座った。彼は彼女の上半身を軽く抱き、背中をとんとんと叩いた。大人が子供をあやす仕草だった。彼女は目を閉じて、彼の肩に首を載せた。

 とんとんとんとん……。肩の上の女の首が重くなるまで、彼はそうして寝かせつけてやった。

 白狼には男として女と接しているつもりなど全く無かった。相手は恐怖におびえる幼い少女だとしか思っていない。恐ろしさに震える童子が居れば、抱きしめて安心させるのは大人の当然の務めだろう。彼には妻もいないし持つつもりもないが、娘だけはできたのだ。彼はそう思っていた。
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