十五 翠令、酒を酌み交わす

文字数 6,669文字

 白狼は手を止めてますます真剣な顔をする。

「『恩』は返すものだ。いつか返せるし、返さなくてはならない。いつか返すんだから、『恩』を遣り取りする相手とは対等だ」

「うん……」

 確かに受けた恩は返すべきだ。それを返すのなら、確かに相手と対等と言えるだろう。

 白狼は杯の酒をそのままに続ける。

「だが、『恩』と違って、『情け』というのは目上の立場から目下の者へ一方的に施すものだ。だから、『情け』を掛けてやったと思う連中は偉そうにするし、『情け』を受けたと思った側は卑屈になってしまう。な? 『恩』と『情け』ってのは全然別物だろう?」

「……まあ、そうかもな……」

 一般的な意味はともかく、少なくとも白狼にとってはそうなのだろう。

「だからだ。佳卓(かたく)と他の奴は違う」

 翠令は軽く天を仰ぐ。白狼は本人の言うとおり、あまり物事を口で説明するのが上手くない。

「ええと……白狼……。もう少しそこを詳しく説明してくれ」

「えっとだな……。だから……。俺に『情け』をかけてやったと思っている連中は、自分が目上で俺を目下だと思っているから、俺が彼らに(へりくだ)らないことを許せない。だが、佳卓は違う。俺に遜れなんて一度も言ったことがない」

「……」

「佳卓は俺に『情け』をかけてやったなんて思っていないだろう。俺は佳卓のしてくれたことを『恩』に着ているが、いつか必ず返すつもりだ。だから、俺とあいつは対等で、俺はあいつに遜るつもりはない」

「でも……」

 相手は近衛大将を拝命している人物であり、しかも左大臣家の子息だ。礼節の上ではせめて敬語くらいは使うべきだろう。

「でも? 何だ?」

「いや……」

 けれども翠令もこれ以上、白狼に佳卓様に遜れと主張する気が起きない。白狼は、佳卓の身分にひれ伏す多くの人々よりも、真の意味で佳卓に敬意を払っていると感じられもするからだ。

 白狼はどことなく誇らしげに続ける。

「俺は誰にも遜らならい。情けを掛けてやったとふんぞり返っている奴らに対して卑屈になる気はない。それはあいつらが勝手にしていることだ。また、恩ある相手ならなおさら遜らない。遜るということは恩を返して対等になるということを諦めてしまうということだからな」

「……そうか……」

 翠令はもう一度頷いた。

「そうか……」

 受けた恩は必ず返す。そう決意しているから白狼は人に遜らない。傲然とした態度こそが報恩である──些か奇妙ではあるが、それなりに筋の通った論理ではあるのかもしれなかった。

 翠令が納得したと見て満足したのか、白狼はまた杯を持つ手を動かす。

「さて、佳卓の恩をどうやって返そうか。俺の手下全員の人生を引き受けてくれたからな。かなりの借りだ」

「……」

「何だ?」

「いや、佳卓様の恩は、自分が賊として処罰されないことではないのかと思って」

「そんなことは小さいことだ。手下のことについては俺も頭を悩ませていたから、佳卓のおかげで正直助かった」

「白狼は手下思いなんだな」

「手下思いというより……」

 白狼は首を傾げた。

「俺は娼婦の子で、望まれて生まれたわけじゃない。俺を生んだ女はいたが、さっさと俺を捨てた。俺を育ててくれたのは、俺を哀れんでくれた他の娼婦達を始めとする妓楼街の人々だ。これが、俺が生まれて最初に他人から受けた恩だ。もし、俺が哀れまれて終わってしまうと只の恩知らずになる。だから俺は妓楼街に生きる者達を食わせてやった。それだけだ」

 何も気負う風のない口ぶりは、本当に単純にそう思っているだけのようだった。

「だがなあ……」

 ここで白狼が酒を口にして、遠くを見つめた。

「盗賊稼業にも限界がある。朝廷の武人どもが腰抜けぞろいの間は良かった。だが、佳卓ほどの将に本格的に討伐に乗り出されるとな……」

「そうだな」

「あいつは前々から朝廷に恭順すれば、手下に仕事を斡旋すると伝えて寄越してはいた。ただ、貴族なんてものは気まぐれだからな。いくら約束されても信用できないと思っていた」

「だが、実際に佳卓様は全員分の仕事を整えた」

 そこだ、と白狼は大きく笑う。

「俺を捕らえた時点で佳卓は手柄を立てたわけだから、別に俺の手下のことは放っておいてもよかったんだ。だが、あいつは俺との約束を守った。大した奴だ」

「うん」と同意しようとした翠令の耳に、カッカッカッと規則正しい(くつ)音が聞こえてくる。

 近衛府を出入りする者達の足音や武具の音などなら、先ほどから雑然と聞こえてはいた。けれどもこの沓音は明らかにまっすぐこちらに近づいて来る。

 誰だろう? と思う間もなく、その音は部屋の前で止まった。そして、その沓の持ち主はコンコンと扉を叩く。

 白狼が椅子に座ったまま怒鳴った。

「何だ?」

 扉がすっと開く。

「佳卓様……」

 話題の主、佳卓が不機嫌そうに立っていた。佳卓は白狼と翠令に素早く視線を走らせて眉を跳ね上げる。

「白狼が女君を部屋に連れ込んでいると聞いたのでね」

「別にやましいことは何もしていない。あんたが『いい男』だという話をしていた」

 佳卓は扉をぐいっと開けると、自分の沓を片方脱いで床と扉の隙間に足先で押し込む。扉が閉まらないようにする意図があるらしい。

「女君と二人きりの時には、こうやって扉は開けておけ」

 白狼は不快そうに眉を顰めた。

「俺が嫌がる女に襲い掛かるとても思っているのか? 見下げられたものだな」

 佳卓は部屋の中、白狼の手元の瓶子(へいし)に向かって歩いてくる。

「お前が女君に関係を強要するような卑劣な男では決してないと分かっている。だが、朝廷の武人の綱紀というものをきちんと正しておきたい」

 佳卓は白狼から瓶子を取り上げると、扉を目で指し示した。

「こういうときには扉を開けるようにするべきだ」

「……分かった」

 白狼は、自分個人が疑われているわけではないと納得したらしい。他ならぬ佳卓自身も含めた上で実践して見せるのだから文句がないのだろう。

 佳卓は椅子に座ると、卓の上に転がっている粗末な器から中ぶりの椀を手に取り、瓶子の口を添えた。ふわっと立ち上ったその香りを嗅いだだけで意外そうな声を上げる。

「お、いい酒だね」

 翠令が説明した。

「梨の典侍殿がとっておきの御酒を渡してくださいました」

「ほほーう」

 佳卓はそのまま椀に酒を注ぎ、椅子に座ってから口元に持っていく。それを口に含む前に翠令が慌てて問いかける。

「佳卓様、あの……。今日のことは……?」

 佳卓は椀を持つ手を止めて、怪訝そうな視線を向けた。

「今日のこと? ああ、姫宮と大学寮に行ったことか。最後まで自由に楽しめなくて残念だったね」

「いえ、あの……。お咎めはないのですか?」

「何を咎める? もちろん主公が間違っていれば諫めるのは臣下の役目だが、姫宮は何も間違っておられない。いずれ帝になる御方がこの国のことを知りたいとお思いになった。立派な心がけじゃないか。ま、今後は近衛に話を通しておいてくれると助かるがね」

「はあ……」

 佳卓が酒を干して翠令に尋ねた。

「で。なんで典侍秘蔵の酒がここにあるんだね?」

「姫宮が昭陽舎で白狼に報いたいとおっしゃったのですが、佳卓様ほどの身分がない白狼を後宮に立ち入らせるわけにもいかなくて……、ああ、そうだ」

 翠令は梨の典侍から白狼への伝言を頼まれていたのだった。

「白狼に典侍殿が詫びて欲しいと言っていた。昔、お仕えしていた姫君が男に襲われて辛い思いをされたゆえ、白狼を昭陽舎には入れられないと……」

「仕えていたお姫さんがどうしたって?」

 佳卓が説明する。

「禁裏の内での醜聞だから白狼は知らないのだろう。十年ばかり昔のことだ……」

 竹の宮の姫君の話を聞き終えた白狼が、心底苦々し気に顔を顰めた。

「哀れな話だな。その姫君とやらも酷い目に遭ったと思うが、典侍も何も悪いことはしていないのに助けてくれなかったと恨まれるとは辛いだろう。酒を奢られている今の俺の立場では、典侍の方を気の毒に思うが」

「たまに姫君にお会いするが、実際に姫君を拝見するとまた別の感想を持つかもしれないよ」

 翠令が驚きの声を上げた。

「お会いになることがあるんですか?」

 伝聞の上でしか知らなかった悲劇の女君。その翠令の漠とした印象が、佳卓の一言で血肉を持った生々しい存在に変わる。

「近衛大将として警護のことで竹の宮をお訪ねするのでね。御簾越しだが、いつも静かで……沈んだご様子でいらっしゃる。心の傷は未だ癒えてはおられない。まあ、誰かを恨まずにはいられないのだろうね」

「……」

「……」

 沈黙が部屋に降りる。姫君の恨みが筋違いであることは明白だが、だからといって他人が裁けることではない。

 佳卓が床の片隅を見つめ、深い、本当に深々とした溜息をついた。そして、力のない小声で零す。

「悲劇の先に出口はないのだろうか……とは私もかねてから考えているところだね。他人の運命に、人はとても無力だ」

 いつも人を食ったような人物が真面目な顔で弱音を吐く様に、翠令は胸を衝かれる思いがした。

 白狼も少しだけ驚いた顔をし、微かに気遣うような視線を佳卓に向けた。

「あんたにも出来ないことはあるのか……」

 佳卓は放り出すように「は」と声を発した。その顔に自嘲が薄く漂っている。

「出来ることと出来ないことでは、私には出来ないことの方が多いと思ってるがね」

「佳卓様は色んなことに優れてらっしゃると……」

 武芸の腕は恐ろしく立ち、白狼を召し抱えるという大胆な策で京の民衆も味方につけた。アクの強さはともかく、鬼神の如しと呼ばれるのも納得できる有能な人物だと翠令は思う。
 姫君の悲劇は他人にどうしようもない。それでも佳卓は己の無力を嘆く。そして翠令はどんな言葉を掛ければいいのか分からない。

 白狼が話の先を引き取る。

「あんたは、少なくとも俺の手下を救うことが出来た。奴らの首領として、俺はあんたに恩義を感じている」

 佳卓と白狼、京の街で剣の腕を競った男二人の視線が交わる。

「俺はあんたを大した奴だと思ってる」

 佳卓は目を瞑ると、小さく「そうか」と呟きを漏らした。
 
 白狼が言葉以上の何かを佳卓に送り、佳卓が白狼からそれを受け取ったのだと思われた。この二人は、互角に競い合っている内に、相手の力量を認めあう友情のようなものを育んだようだ。そんな二人の間の、ある種の絆のようなものを、翠令は少し羨ましいなと思う。

 次に目を開けた佳卓は、しんみりとした空気を変えようと思ったらしい。手酌で酒をつぎ足しながら少々わざとらしいほど軽やかな調子で口にする。

「ああ、私が来るまで二人で私を褒めていたんだってね。翠令が私を『いい男』と言ってくれたんだって?」

「……は?」

「ふむふむ、翠令にも私の良さが分かったようだ。そうだろう?」

 どうやら男二人の会話を黙って見ていた翠令に気を配ってくれてもいるらしい。

 翠令が苦く笑いながら「ええ、さようです」と言いかけたところを、白狼が佳卓に指を突き出しながら遮る。

「残念だが、それは俺だ。俺が翠令にお前が『いい男』だと説明していたんだ。有難く思え」

「はん。お前に言われてもね」

「翠令からの甘言が欲しいのか」

錦濤(きんとう)の姫宮を囮に使った件を水に流してもらいたいんでね。どうもまだ根に持たれているようだ」

「では、俺からの恩返しは、翠令に取りなしてやることにしよう。これで俺の借りはチャラだ」

「翠令を口説くくらい自分でやるさ」

 翠令は笑って聞いている。紅一点の自分が男たちの軽口の中でモテることには慣れていた。現に佳卓の話は白狼への挑発に移っていく。

「それとも何かい、白狼。他に私の恩を返す方策が見つからないかね? いいよ、恩を返すのをあきらめても。その代わり私に遜って敬語を使ってもらうことにしようか」

「……」

 佳卓は椀を白狼に突き出し酌を促した。

「ほら、『佳卓様、御酒をどうぞお召し上がりください』だ」

「酒を注ぐくらいはしてやるが……そんな気持ち悪い言葉を俺が使うのか?」

 佳卓がからからと笑う。

「白狼にそんな口で喋りかけられたら、私だってむず痒くてたまらない」

 佳卓はやはり手酌で酒を呑む。

「白狼はそのままの口調でいたらいいよ。その口調がお前らしい。情けを受けて終わるまい、受けた恩はいつか返すのだという意地がお前の根幹にある。その意地の表れなんだろうから、いつまでも傲岸不遜でいろ」

「だが、佳卓、お前の恩を俺はどうやって返したらいい?」

「別に私に返さなくてもいい。代わりに、お前に助けを求める人間がいれば、そいつを助けてやれ。人から受けた恩を人に返す。これでお前は恩知らずではなくなる」

「そういうものか?」

「お前が恩を売った相手が、お前に似ていれば──つまり、哀れまれて終わろうとせずに恩を誰かに返したいと思えば──その相手はまた誰かを助けるだろう。──これが広がって行けば、世の中が少しは美しくなる」

「……それでいいのか?」

「私は朝廷を代表する名門貴族に生まれ、私個人で身に着けることができる能力は最大限に身に着けて来た。だが、私一人に世の中を変えるほどの力はない。例えば、竹の宮の姫君のような女君一人も救えない……」

 佳卓は再び暗く哀しげな顔をした。鬼神の如しと呼ばれるほど強く、どこか鋭く尖った性格であっても、本人は己の無力さの方を相当に気にしているらしい。
 もっともそれをここで素直に吐露する気はないようで、ここでふたたび眉を上げて鼻を鳴らす。

「この私から恩を受けた白狼が、そして白狼から恩を受けた誰かが、どこかで繋がりあって世の中を変える。ふふん、面白いじゃないか。全ての出発点に私がいるというのが愉快だね」

 うん、と佳卓は心底楽しそうに自分に頷き、翠令を見た。

「私は、『主の器量は麾下を見れば分かる』というのが持論でね。翠令と錦濤の姫宮を見て、ますます強くそう思う」

「姫宮と私ですか?」

「うん。翠令のような剛直な臣下を従えている姫宮は真に主の器だと思う。実際、翠令を大事にしているし、今日のように大学寮に出かけて民のことを知ろうとなさる。末頼もしい東宮様であられる」

「私はともかく、姫宮をお褒め頂くのは嬉しく思います」

 佳卓は苦笑いした。

「おいおい。翠令の今の直接の主公は私だよ。翠令が私の許でその勇敢さを発揮して欲しいという話をしたいんだが?」

 白狼も低く笑う。

「ああ、そうだな。山崎津の夜は面白かったな。佳卓に助けられたはずの翠令が、佳卓に向かって刃を突きつけた時には同士討ちかと思ったぞ。その翠令が佳卓に従うなら、佳卓の器もそれだけでかいということだ」

「……私はただ……姫宮が侮られているのが許せなくて……」

 佳卓が「ほら」と白狼に笑いかけた。

「やっぱり翠令は根に持っている!」

「いえ……それはもう……」

「いいんだ。姫宮を囮とした件は私が悪い。そして、翠令はいつまでも私を諫めるような剛直な人間でいて欲しい」

 佳卓は口元に笑みを浮かべていたが、その目は真剣だった。

「もう一度言う。主の器量は麾下を見れば分かる。直接存じ上げなくとも、翠令を召し抱える錦濤の姫宮は度量の大きな方であろうと思った。私も他人からそう思われたいものだ」

 佳卓は片頬だけを緩めて見せた。

「白狼が言ったように、目上の者をも剣で諫める翠令のような剛直な麾下を持てば、私の評価も上がろうというもの。私だってその程度の美名は欲しい」

 そして白狼にも顔を向ける。

「お前もだよ、白狼。かつての賊を配下に収める。権力に靡かないお前のような男を麾下に従えることで、この佳卓という男の器の大きさも評価される」

 佳卓は初めて掛け値なしに満足そうな笑みを浮かべた。

「お前たちのような人物を召し抱えることになって嬉しく思っている。お前たちの器量が私の誉れだ。先に言ったように、私一人に出来ることはあまり多くない。だが、お前たちには器量に見合った働きをし、誰かを助け、そして世の中を美しくして欲しい。そのきっかけに私がなりえたら……私だって少しは他人に褒めて貰えるだろう。まあ、私の鼻が高くなるよう心掛けてもらえると嬉しいよ」

 白狼が黙って佳卓の前に置かれた杯に酒を注いでから、(うべな)った。

「分かった。俺は恩を返す男だ」

 翠令も言う。

「私も……お諫めするのはいくらでも……」

 白狼が混ぜっ返す。

「よし、翠令は刀の手入れを怠るなよ。いつでも佳卓の寝首を搔けるようにな」

「……ええと」

 とっさに返事が出来ず翠令は困ってしまう。佳卓は、その翠令の困り顔を肴に見やりつつ、白狼が注いだ酒を実に上手そうに口に含んだ。
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