三十三 翠令、白狼の噂を聞く(二)

文字数 3,946文字

 佳卓がぽつりと言った。

「白狼の件も姫宮の件も、どちらもこの私が絡む」

 そしてため息をつきながら組み合わせた両手の指に力を籠める。

「円偉殿は生真面目な方だ。今でも初恋を捧げた竹の宮の姫君に何くれと気を配っている。真名の学び書をはじめ、貴重な燕の書籍を折々にお贈りし、文の遣り取りをなさっておいでだ。高貴な姫君の隠棲生活を静かに、だが、心を込めて見守っていらっしゃる。そこに元盗賊との醜聞が起こっては、自分の大切な何かが汚されたような気になるだろう……」

 朗風も眉をひそめている。

「円偉様は典型的な貴族の男性ですからねえ。白狼のことは野卑だとしか思っていません。自分を差し置いて姫君に近づいたと思うと不快感もひとしおでしょう」

「……」

 佳卓の顔も厳しい。

「今日の姫宮の一件と、白狼の件。円偉殿にとって不快な出来事が同時期に起こり、そのどちらにも私が絡んでいることになる……。円偉殿がこの二つを結びつけて考えないでいて下さればいいのだが……」

 趙元も翠令に頷いて見せた。

「絡んでいるのが佳卓様でなければ円偉様もその取り巻き達もそれほど神経を尖らせないだろうが……。日頃双璧として何かを争っていると見なされがちだから、白狼の件でも何か含むところがあるのではないかと痛くもない腹を探られることになるかもしれん」

 朗風も腕を組む。

「すっごく悪意をもって解釈すれば……。佳卓様が姫宮の寵を盾に、身分卑しき元盗賊を竹の宮に送りこんで竹の宮に気に入られるように仕向け、円偉様に恥をかかせようとしていると疑われかねません」

 佳卓が無言でいる間に、趙元が翠令に事情を説く。

「朗風の解釈は少しばかり極端だが……。そうでなくても、佳卓様が錦濤の姫君に気に入られているのをいいことに、円偉様が重んじる朝廷の秩序を蔑ろにしているくらいのことは思われるだろうな。そして、円偉様を尊崇し、同じように秩序を愛する者達の反感を買う……」

翠令はたまらず口に出す。

「別に姫宮は佳卓様を依怙贔屓などしていらっしゃいません」

「だが、今日の昭陽舎(しょうようしゃ)の合議に出席した公卿たちの口ぶりでは、佳卓様が女武人の翠令や地方官吏の正智を通じて姫宮と親しくなりつつあると警戒されているのは確かだろう……」

「ですが、佳卓様は何も関係がない……」

 雨がとうとう降り始めたらしい。ぽつぽつと水滴が屋根を叩く音が聞こえ始めた。遠くで誰かが雨に気づいて何事かを叫ぶ。

 それをぼうっと聞きながら、ふっと翠令の頭に浮かぶことがあった。

 今日の姫宮の件については、佳卓は何もする必要はなかったのだ。翠令が会議の場に乗り込もうとさえしなければ……。

 だが、翠令が騒ぎを起こしかけたから、佳卓は動いた。それが、女武人を通じて姫宮と佳卓が繋がっているのではないかという漠然とした疑念を、くっきりと呼び起こしてしまうことになってしまったのだ。

「申し訳……ありません……私が迂闊でございました……」

 自分の軽率な振る舞いは、朝廷の権力争いを無用意に刺激してしまったのだ……。自分でも自分の血の気が引いていくのが分かる。

 佳卓が翠令に明るい声を掛けた。

「それはあまり気にするな、翠令。幸い私個人は円偉殿に好意を持たれている。また円偉殿と私的に会う機会を設けるさ。また、今日昭陽舎には兄上もいらしてね。兄上も私を心配して円偉殿との交友に気を配るとおっしゃって下さっている」

 趙元も翠令を気遣うように言い添える。

「そうだ。翠令が過剰に気に病むことはない。白狼の件はあくまで噂に過ぎない。事実無根ならいずれ噂も消えるだろう」

「事実無根……」

 趙元は首を振って見せた。

「白狼と竹の宮の姫君とで何か起きるなどと考えづらい。身分差を考えればそもそも接点自体が全くない。白狼は衛士を務めるただの武人で殿上に立ち入ることなく、いわば地を這って生きる。片や姫君は皇女であられるのだから、寝殿の母屋の奥深くからお出ましになることもない」

「……」

「武人でありながら東宮と同じ殿舎の床の上で過ごす翠令が、きわめて特殊なんだよ。高貴な女主人と舎人など普通なら全く接することはない。そうだな、天空を舞う白鳥と野を駆ける白狼とが出会うことがないように……」

 朗風が茶化した。

「白鳥と白狼ですか。さすが趙元様、上手いこと言いますねえ」

 翠令もつられて苦笑し「そうですね……」と呟いた。

 今度は朗風が呑気な声で自分の見解を述べる。

「それに、白狼の女性の好みとも合いませんしねえ。白狼と姫君とで何も起こってなんかいないと私も思いますよ」

「はあ……。白狼の好みをどうして朗風様がご存知なんですか?」

 これには佳卓が答えた。

「賊であった白狼を捕らえるために、いろいろ身辺調査をしたのでね。彼の行動は把握済みだ。これまでの女性との付き合い方も大体把握しているね」

 朗風が得意げに鼻を鳴らす。。

「私はちょくちょく部下たちと都の南の方にも遊びに行くんですよ。だから下町の噂も拾ってきます」

「……」

「白狼だって修行僧でも何でもないですからね。妓女を買うということはするんですよ……って、女性の翠令には愉快では無い話でしょうけど少し続きを聞いて下さい」

 翠令は自分でも気づかぬうちに不快そうな顔をしていたらしい。

「白狼は妓女の中でも妓女に向いていなさそうな女を選ぶんです。気が弱くて質の悪い客を上手くあしらえないとか、妓女となった事実を受け入れられずに心を病みかけているとか、そういう女をね。そして、引き取るんです」

「引き取る?」

「妓楼にちゃんとお金を払うんですよ、それも割高の金額を。そうやって妓女を自分の住処に住まわせる。で、その女に出来ることをやらせる。飯炊きでも裁縫でも。農作業が出来るくらい身体が丈夫なら羅城の近くの農家に手伝いにやらせる」

「それで……?」

「そのうち、どこからか下女の働き口だったり、農家の息子との縁談だったりを見つけ出して、送り出すんですよ。裁縫で身を立てるようになった女もいましたね」

「つまりは、妓女の暮らしから足を洗わせたということですか?」

「そうなんですよ! 女の買い方まで義賊なんですからねえ。どの女も白狼に感謝していて評判もいい。そりゃ民衆は白狼の味方になりますよ。我々がなかなか捕まえられなかったのも仕方ないでしょう?」

「……そうですね」

「ところが竹の宮の姫君は別に食べるのに困って妓女になったわけでもなんでもない。お心の健康はともかく、お暮しは保証されていますからね。先ほど話題に出ましたが円偉様だって気にかけておられます。今でも書物や文をお贈りされるなどされていますし」

「なるほど。山崎津で姫宮の財宝を奪おうとしたときも、白狼は貴族が贅卓に暮らしていることに嫌悪感を示していました。姫君のお心の件は気の毒ですが、白狼が積極的に手を差し伸べたくなるようなお立場ではないですね……」

「ね? 事実無根なら話は簡単です。噂はいつか消えますし、それまでこの都で佳卓様が兄君と一緒に円偉様のご機嫌を取っていれば済みます。翠令が謹慎して大人しくしているうちに、まあ、何とかなりますよ」

 翠令はほっとした気持ちで佳卓を見た。しかし、佳卓は渋面を崩していない。

 ぽつぽつと雨音が大人しかったのはここまでだった。突然、ざあっと一斉に雨が降り注ぐ音があたりを取り囲む。

「降り出しましたね……」

「ああ……」

「そうですね……」

 互いにそう言葉を交わした趙元と朗風、そして翠令が佳卓の次の言葉を待つために無言になる。
 その間にも周囲の石畳に水が溜まり、水滴が水面を叩くぱちゃぱちゃと高い音がし始めた。

 佳卓はその場の誰とも視線を合わせず、空を見つめながら独り言ちる。

「だが、噂は立っている。何かが起こりはしているのだろう」

 規則正しかった雨音が風をはらむ度に乱れる。連子窓(れんじまど)から吹き込んで来た風は中の衝立(ついたて)をガタガタと揺らし、飛ばされた書類が宙を舞う。
 室内のはっきりとした音に混じって、遠く低く遠雷が響いてくる。

 佳卓は肘をついて組んでいた両の拳から親指を立て、そこに顎を乗せた。

「貴人とただの舎人で接点がない。姫君は白狼の気を惹く方ではない。それに……あいつは私に恩を感じている……」

 翠令、と佳卓が呼んだ。翠令ははっと身じろぎして彼を見たが、やはり彼は誰の顔も見ず、声だけで翠令に問いかける。

「白狼は出立する前日、弓の練習をしていた翠令に会ったんだろう?」

「ええ」

「そして、翠令は『白狼が何かすれば佳卓様に迷惑がかかる』と白狼に言ったんだったな? そして白狼は『気を付ける』と答えた」

「はい、そうです」

「円偉殿のことはともかく、白狼は、自分が問題を起こせば私が困ることくらいは前から分かっていたはずだ」

 私だけじゃない、と佳卓は続けた。

「白狼が竹の宮の姫君をどう思おうが、別に姫君に悪事を働こうともしないだろう。女子どもに害をなさないことも彼の信条の一つだ。自分と醜聞が立てば姫君の名誉も傷つく。彼が姫君を気に入らなくても、それなりに気は使うはずだ」

 佳卓は両手を机に広げ、右手の人差し指で少しばかり苛立たし気に表面を叩いた。

「彼は義侠心あふれる男だ。私や姫君のことを考えれば軽はずみな真似をするはずがない。だが、噂は立った──。何があった? 何かへまをやらかしたのか? いや、彼は頭が回る男だ……」

 それから天を仰いで、声を放る。

「らしくない……全くもって、らしくないね! 一体、竹の宮で何が起こっているんだ?」

 ピカリと閃光が走った。佳卓の真剣な表情がその光の中に一瞬露わとなり、それから一拍遅れて地を揺るがすような低い衝撃音が轟く。
 連日晴天続きで盛りを迎えていたこの夏の、その初めての雷が落ちた瞬間だった。

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