八十九 翠令、姫宮の凱旋に従う(三)

文字数 4,795文字

 二度目の山崎津は昼日中(ひるひなか)だった。
 初日で白狼たちに会ったこともあり、姫宮の船列はゆっくりと河を遡っての到着だ。

 船の先頭付近の縁から前方を眺める姫宮と翠令の目に街並みが見えてくる。

「山崎津って賑やかな街だったのね」

「前回は夜中で分かりませんでしたが……民家もあれば、官衙らしき建物もありますね。佳卓(かたく)様の策で、官衙から借りた衛士はその姿をろくに見ませんでしたし、あの騒動で何がなんやら分からぬままに通り過ぎてしまいましたから……こうしてじっくり見るのは初めてですね」

 ふふっと姫宮は笑われた。

「今回は佳卓が何かを仕掛けている訳じゃないんでしょう? 少し山に寄り道できないかしら。私は錦濤の海沿いと京の御所しか知らないから、山道を登ってみたいわ」

「散策なさるだけなら……。どうやら今回はきちんと衛士も揃っているようですし……」

 船溜まりには多くの人影があった。群れておらず整然と並んでいるから、野次馬ではなく正規の近衛の出迎えだろう。

 船が近づいて彼らの姿が詳しく見て取れるようになる。巻纓(けんえい)の冠に袍、そして石帯に平緒。太刀を佩いたその背中の平胡籙(ひらやなぐい)に扇のように刺された矢。そして顔の両方に(おいかけ)が加わった様子は、威厳と精悍さとが強調されている。

「随分、身なりを整えているのね」

「ええ、こうして見ると本当に武官の正装は美々しいものですね……あっ!」

「あら!」

 近衛大将の佳卓は多忙なはずだった。双璧と呼ばれた円偉を欠き、引き受けなければならない残務処理は多いはずだ。こんなところに来る時間の余裕はないはず……。だが……。

「あれ、佳卓じゃない?」

「……」

 向こうも近づいてくる船を認めたらしい。一人、隊列を離れて前に出た。
 その細身の長身、しなやかな身のこなしと伸びた背筋。
 少しずつ顔立ちも見えてくる。すっと通った鼻筋。すっきりした顎の線。そして──切れ長の黒い瞳。

「……!」

 翠令は我知らず両手で口を覆っていた。そうしないと叫び出してしまいそうだ……。

 佳卓は口の端をふっと上げると、目を瞑って少し俯いた後に、嬉しそうな笑みを見せて寄越した。

 姫宮が船を降りられる。もちろん守刀の翠令も隣に並ぶ。その前に近衛左大将佳卓が片膝をついた。

「お出迎えありがとう、佳卓。忙しいと聞いているけど、わざわざ来てくれたのね」

 佳卓は姫宮を見上げて申し上げる。

「もちろんです。女東宮たる錦濤の姫宮が、守刀の女武人翠令を伴って山崎津に凱旋なさる。お出迎えするに、この近衛大将佳卓以上に相応しい者などおりましょうか」

 姫君はにこりと笑われた。佳卓はその瞳を次に翠令に向ける。

「さて、私は私の大事な麾下の無事を確認したい」

 彼は、初めて会った時と同じように鋭い目つきで、翠令の頭のてっぺんからつま先までさっと一通り視線を走らせた。そして、そのまま「ふう」と息を吐く。

「翠令は無事なようだ。翠令は無茶をするから──案じていた」

「あの……」

 佳卓は姫宮の御前ゆえ膝を地に着けたままだ。すると、姫宮だけでなく、その背後に立つ翠令を見上げる形となる。

「ええと……」

 自分の上官を見下ろしているのも気が引けるので、翠令が腰を下ろそうかとしていると、姫宮がひときわ甲高い声を上げられた。

「いっけなーい!」

「は?」

 屈みかけた翠令が再び腰を伸ばす。

「私、大事なものを船に置き忘れてきちゃった。取りに戻るわ」

「え?」

 姫宮は、同じくぽかんと背後に控える乳母に声を掛けられた。

「乳母、ついて来て。一緒に船室を探して」

「はあ……。でも、それでしたら翠令殿もご一緒に」

 姫宮はもう船の方に向きを変えていらした。つつっと急ぎ足で乳母の傍により、そして袖を軽くつまんで、船に一緒に連れて行く。

「んもう。乳母ったら。野暮なことをするもんじゃないわ」

「は? え? ああ!」

 翠令だって姫宮の背を追おうとする。

「あの、姫宮?」

 背中から声がかかる。忘れようのない、翠令にとって特別な男君の声が。

「翠令」

 佳卓が立ち上がっていた。

「姫宮は乳母を──乳母だけをお呼びだ。翠令は行かなくてよろしい」

 翠令が「しかし……」と口の中で言いながら、佳卓を振り返る。

「姫宮は気を利かせて下さったんだ。随分と大人になられたじゃないか」

「……」

「もう姫宮に私的な守刀は不要だ。公の近衛がお守り申し上げるのだからね。翠令は近衛で引き取る。私の麾下だ」

 佳卓はとってつけたような厳めしい顔をして、腕を組んでいた。

「まずは近衛大将として翠令に言う──恋人としてだって言いたいことはもちろんたくさんあるのだが、まず先に近衛大将としての威厳を示さないと翠令に叱られてしまうからね」

「私が佳卓様を叱るなど……」

 佳卓は恨みがましそうな目を向けた。

「翠令は東国で私に言ったじゃないか。『麾下を使いこなせないような無能な上官など、男君としても魅力がない』と。あれほど強烈な叱責があるか? 貴女に恋する男に向かって、よくも言ってくれたものだ」

「申し訳……」

「いや、いい。別に翠令に謝らせたいわけじゃない。ただ、言っておく。東国で貴女に京へ向かえと命じた時だって、私は非情で冷徹な近衛大将をちゃんと演じて見せただろう? 今もそうだ。近衛大将として麾下である翠令を労い、そして褒める」

「……」

「弓が上手くなったそうだね」

「……!」

 言うまでもなく、竹の宮の姫君を援護射撃したときの話だ。

「朗風からその様子を聞いたが、相当に難しい場面だったと思う。だが、翠令はやり遂げた。姫君を襲う下衆野郎の足先に矢を突き立てたんだってね」

 佳卓は心底嬉しそうに目を細めた。ふと、翠令は白狼と三人で酒を酌み交わした夜を思い出した。誰かが誰かを助ければ、この世が少しずつ美しくなる。それを見るのが幸福だと言っていた佳卓の目。

「翠令の弓の構えはきちんと整ったものだと朗風が言っていた。さすが、飲み込みが早く、基本に忠実な翠令だ。こういう素直な人間は物事の上達が早い」

 佳卓はまっすぐに翠令に視線を向け、さりげなく口にした。

「翠令、よくやった」

 簡潔なその賞賛が、翠令の胸にしみわたっていく。

「ありがとう存じます……」

 翠令が一礼したのに一つ頷くと、佳卓は表情を和らげた。

「さて、次は恋人として言わせてもらおう。翠令が誰かを救うために弓矢を構えた姿は、きっとぞくぞくするほど美しかったに違いない。私がこの目で直に見たかったのに残念だ……」

 確かに佳卓はその頃東国にいた。けれども──。

「私が矢を放つとき、傍に佳卓様がおられました」

「ん?」

「私は必死で弓の射法を思い出していました。すると、佳卓様の声が聞こえ、佳卓様の指が私の肘の角度を整えて下さったのです……」

「……」

 少し怪訝そうな佳卓に翠令は説明を重ねる。

「教えて下さった場面を懸命になぞっていて、そして佳卓様の幻を感じることができて……」

「幻の私が貴女を助けたのか。それは良かった。ともかく、それじゃあ私は翠令から褒美をもらってもいいんだよな?」

「……? ええ、もちろんです……」

 佳卓が大股で歩み寄り、戸惑う翠令に片腕を伸ばした。そして、次の瞬間。翠令は佳卓に抱きしめられていた。

「あ……の……」

 翠令の肩を覆う男の肩が大きく上下に揺れた。翠令の項に吐息が掛かる。

「武人としてこれ以上ないほど目覚ましい働きをしてくれたこと、近衛大将として深く感謝する。だが、一人の男としては、恋人の無事をこうして確かめることができて本当に嬉しい……よく、生きていてくれた……」

 そして、翠令を正面に戻して、翠令の額の横の髪を手櫛で後ろに流す。

「ええっと……」

 佳卓の、男にしては細くて長い指が翠令の顎を捉え、上向かせる。これではまるで口づけをするかのようだ。

「あの? 佳卓様?」

 佳卓の顔は真剣だ。

「私は貴女に言ったはずだ。再び会えたら、とびきり濃厚な口づけを交わしてやると」

 彼は翠令に触れていない方の手で両方の(おいかけ)を毟り取る。

「それは……」

「邪魔だ。私は今から本気の口づけをするんだから」

「ちょっ……! 今、ここで、ですか?」

「そう。今、ここで、だ」

「衆目というものがございます!」

「だからいいんじゃないか。──嫌なのか?」

「だ……」

 だって恥ずかしいではありませんか、と翠令は言いたい。

「翠令……」

 狡いと翠令は思う。そんな声を……甘くて優しいそんな声で名を呼ばれてしまっては……。

 佳卓に自分の名が呼ばれて、全身の血が湧きかえるようで、その流れる音がどくんどくんと耳に煩い。ぼうっと頭の奥が痺れていくようで何も考えられない。

 男は顎を捉えたまま、翠令の腰を引き寄せた。その黒い瞳が──初めて会った時とは違う意味で翠令の何かを慄かせるその視線が近づいてくる。怖いわけではないのに、翠令はぎゅっと目を瞑った。

 最初の一声は朗風だった。

「うっわあーっ!」

 それを嗜める趙元の声もする。

「こら! 黙っていて差し上げろ。雰囲気ってものがあるだろう。ほらほら、皆も後ろを向くんだ。山の上を見ろ。紅葉が始まって綺麗だろう?」

「いやあ──川沿いにもっと見ごたえのある光景があると、山の紅葉なんかどうでも……」

「それは分かるが、ここは慎め」

 河に浮かぶ船の方向からも声がする。姫君に付き従う乳母のものだ。

「んまあ、んまあ! あの佳卓様がこんな情熱的な男君でいらしたとは!」

「乳母……声を小さく」

「あんな熱烈な口づけを、こんなに大っぴらになされては……。これから佳卓様に近づく女君も、婿に取りたいという殿方も現れることなぞないでしょうねえー!」

 それを聞いた佳卓の唇が、翠令の唇の上で少し横に開いた。翠令が目を開けると、至近距離で佳卓の瞳が笑っていた。してやったり、という人を喰った、いつもの笑みだ。

「佳卓様?」

 楽しそうに佳卓は囁く。

「さあ。これで私は貴女だけの男君だ。他の女君は寄って来ない。左大臣家の子息故、私の恋人はなかなか面倒な任務だが──翠令、受けてくれるかね?」

 面倒──確かに面倒だ。
 近衛の武人としては、恋人だから甘く遇されていると謗られぬよう武芸を一段と磨き、実力を備えなくてはならないだろう。
 恋人として世間に知られるなら、貴婦人らしい身のこなしや教養とて要求されるだろう。
 これから翠令は自分を変えていかなければならない。自身のためにも、佳卓のためにも。そして、それはとても困難なことかもしれない。

 だけど……。

「お受けします」

 女武人・翠令はどんな敵にも怯まない。戦って退け、そして前に進むのだ。


 姫宮は人々が騒ぐ声を背に、船に再び乗り込まれた。本当は特に用事などない船室に入ることもなく、船の先頭に歩まれる。
 後に続く乳母ははしゃいだ様子を隠さない。

「よろしゅうございましたねえ。これまで姫宮を守ってくれた翠令殿は、これから佳卓様に守られて過ごすようになりますわねえ……」

 波の音がちゃぷんと 北の都に舳先を向けた船にぶつかった。
 姫宮は静かに乳母を振り向かれる。

「少し……違うわ。佳卓は私の臣下よ。今度は私が佳卓ごと翠令を守るのよ」

 姫宮は再び舳先を向き、河の流れの上の方をご覧になった。

 蛇行する河の水面の先、遠くに紫色の山並みが霞んで見える。
 姫宮は知っている。あの山に囲まれた地には、壮麗な門を構えた都城がある。
 多くの民の財と労力を支配下に置いている、この国の王権の中心が。

「私は恩を返さなければならないわ」

 帝の王権が及ぶ全ての民の、そのそれぞれを知り、彼らに合わせていく不断の努力が自分を待ち構えている。姫宮はそれをよく理解なされていた。

 京の都の上空にあった雲が切れたらしい。陽の光が一筋、あの御所の辺りに降り注ぐ。

 姫宮はじっとその光を見据えておられる。その少女の凛々しい横顔は、刀を抜いて切っ先を相手に突き付ける、女武人の気迫に似ていた。





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