三 翠令、激昂する

文字数 6,013文字

 再びヒュッと風を切る音がした。ガッと音を立てて、今度は賊の足元に矢が刺さる。

 翠令は矢が飛んできた方向に顔を向けた。船溜まりの奥の船、その縁に人影が見える。美々しい鎧を付けた武人が、もう次の矢をつがえていた。

 ――あの距離から?

 あそこからこの船まで相当な距離がある。一方、翠令と賊との間隔は、さっきまで剣を交わしていたのだから腕を伸ばした長さ分も離れていない。

 ――この狭い範囲に立て続けに矢を的中させたのか。

 武人は弓を構えたまま船溜まりに並んだ船を乗り移ってこちらに歩み寄ってくる。船の上は波に揺れているはずだが、武人は器用に身体の平衡を保ち、構えたその矢先はピタリと賊の男に向けられたまま動かない。

 時おりキラリとその矢先が光る。鋭く光った鏃が月の光でまたたくのだ。

 武人は姫宮の船に乗り移る。やや細身で長身の若い男だった。翠令より年長だが、年齢が離れていてもせいぜい数歳違いだろうか。
 細面の顔に、一重の切れ長の目の形が印象的な怜悧な目許、すっと良く通った鼻筋、引き締まった口許とすっきりした顎の線。非常に端正な顔立ちだ。

 賊の男の精悍で荒々しい様子に比べると、華奢に見える骨格といい、どこか洒落た雰囲気が漂う武具といい、この武人はどこかの貴族の子弟なのだろう。

 しかし、その武具がただの飾りでないことは先ほどの弓の腕から明らかだ。そして、船を歩いて来る身のこなしに一分の隙もない。鎧もよく体に馴染んでいる。手練れの武人であることは間違いない。

 そして、立ちのぼる鬼火のような気配。

 ――この迫力は尋常ではない。

 しかし、賊も屈しない。こちらもまた気力を漲らせて武人に相対する。

 ――この武人相手にも怯まないのか、この賊は……。

 白人の男は、翠令に見せなかった真剣な表情で武人を睨み据えながら口にした。

「あんたか、カタク」

 ――カタク?

「あんたが到着するのは明日の朝じゃなかったのか?」

「悪いね」

 武人が軽く笑った。賊が低く野太い声なのに対し、やや高めの涼やかな声だ。

「お前たちがどこかで錦濤の姫宮の船列を襲うだろうと思っていたのでね。山に潜んでお前たちの動向を見張っていたんだよ」

 ――この方が近衛大将の佳卓様?

 翠令は意外に思う。確かに名のある武人だろうとはさっきから感じていた。
 けれども、近衛大将という要職にある人物として彼女が想像していた風とは何かが違う。武官の長として尊崇を受けるような人物というのは、もっと重々しくて風格を漂わせた壮年の男性ではないのだろうか。

 威厳のある男性はこうであるはずという翠令の想像を裏切るかように、佳卓は片方の口の端を上げて皮肉気な口調で続ける。

「京ではお前も稼げないだろう? だが、お前は手下思いだ。手下を食わせてやるためならどこかで誰かを襲う。錦濤の姫宮が賑々しく財宝を積んだ船を引き連れてお上りになることは、京雀の間で評判だったからね。ここに来ると思っていたよ」

 船がぎりと軋んだ。白人らしく手足の長い男が、重心をかけて武人に斬りかかったのだ。
 佳卓はひょいと横に体を倒してそれを避けた。同時に、翠令に弓を放って寄こす。翠令は思わず腕を伸ばして受け取った。そうしなければならない気がした。

 佳卓は腰からスラリと刀を抜き、そしてそのまま賊の胴を薙いだ。その動きは流れるように滑らかで、そして素早い。賊は後ろに退こうとしたが避けきれず、その衣の腰の裾が斬り裂かれてしまった。

 次は、賊が斬りかかる。巨体から袈裟懸けに振り下ろす剣の動きは大きい。

 ――ぶうっんっ

 刃が鈍く低い唸り声を上げて佳卓を襲う。
 側で見ているだけの翠令も思わず身を竦めてしまうほどの迫力だ。

 ――ひゅんっ

 対する佳卓の振りは目にもとまらぬほどに速い。短く高い音を立てて空気を斬り、白刃の切っ先が光の弧を描く。
 その動きの鋭さが力となり、重いに違いない賊の刀を撥ね返す。

 キンと鉄の刃と刃がぶつかる甲高い音が一瞬響き、火花が散った。

 しかし、翠令がそう認めた瞬間に二人は次の動きに移っている。

 ――怖い……

 翠令も剣技の腕には覚えがある。けれども、ここまで緊迫した剣戟を交わしたこともなければ目にしたこともない。

 賊は定石に無い動きをするから、翠令には太刀筋が全く読めない。だが、佳卓は相手のどんな変則的な動きにも応じ、そして押し返す。

 ――巧い

 体格から見て膂力では賊に劣ることは一目瞭然だ。太く逞しい賊の腕に比べ、袖から覗く佳卓の腕は、しっかりと筋肉がついているとはいえ明らかに細い。
 だが、その彼の腕が繰り出す剣捌きは絶妙だ。

 力で押す賊を、技で凌ごうとする佳卓。
 しかし、技の正確さは集中力に依存する。真剣で戦っているのだから、わずかな気の緩みが命取りだ。

 翠令が固唾を飲んで見守る。
 佳卓の早くて無駄のない動きは途切れることがなく、常に正確無比。そして美しい舞でも舞っているかのように淀みない。いつまでも軽々と続けていけそうだ。

 対する賊の方が、無駄な動きが多い分疲れが見える。賊もこのまま形勢が不利だと思ったらしい。不意にしゃがみ込むと、その長い脚で佳卓の足元を払った。

 しかし、佳卓はやすやすといったん飛びずさってしまう。賊が次に立ち上がろうとしたときには、佳卓が右の腕をぐっと伸ばし、片手で握った剣先を賊の眉間に当てていた。

 ――勝負あった!

 両者ともにはあはあと肩で息をする。佳卓も声を出す前に一度ごくりと唾を飲み込んだ。

「さあ、観念してもらおうか。お前との追いかけっこもようやく終わりだな。京では散々取り逃がしたが、今回ばかりは縄に繋がれてもらう」

 そう言う佳卓の背後から、やはり弓矢や刀を構えた武人達が隣の船から乗り移ってきた。伏せろと言われて膝をついていた翠令も立ち上がる。

 周囲を見渡してみると、他の船でも佳卓の手勢が賊を取り押さえ終えたらしい。どの船にも揃いの皮甲姿の武人の姿が見える。

 さて――。賊を後ろ手に縛りあげるように麾下に命じた佳卓は、鋭利な線の顎をくいっと翻して翠令を見た。

 その視線に思わず翠令は息を呑む。賊と交わす言葉にはどこか軽い雰囲気があったのに、それが嘘のように、眼光炯々として人を射る。月とも星とも、灯火とも異なる鋭い輝きを、翠令はいまだかつて人の目に見出したことがなかった。

 ――やはりこの方は尋常ではない。

 ただ見られているだけだというのに、翠令は自分の心臓が鷲掴みにされてしまった心地がする。
 怖ろしい。その視線だけで、自分の何かが斬り裂かれてしまうかのようだ。

 佳卓は瞬きを一つした。それだけで、彼の恐ろしいほど尖った気迫がふっと消える。しかし、その犀利そうな静かな眼差しは別の意味で翠令を慄かせる。

「貴女が女武人、翠令か――なるほど」

 落ち着いた口調。だが形容しがたい凄みがある。

 彼の瞳は語っていた。お前のことは分かった、と。風聞の上で翠令という人物についての情報は叩き込んだうえで、今実際の翠令の姿を見、そして何かを了解したのだ。そして、それは翠令自身よりも翠令という人間の本質を理解したのだという気がしてならない。

 得体のしれない恐ろしい人物――翠令の胴がぶるりと震えた。単純に実直な人間ではないが、軽い人柄かと思えば、鋭利な刃を当てられたようにヒヤリとさせられる。鬼神のごとしと謳われるのは、武芸の巧さだけではなく、その遣い手の何かを畏れてのことではないか。

 この方がこれから錦濤の姫宮を護るのか……。確かに非常に優れた方ではあろう。しかし……。

 ――護る――本当に?

 姫宮を護るべき立場の人間が来たのに、なぜこんなことが起きるのか。

 翠令は思わず船室への扉に刺さった矢を指さし、自分より頭一つ背が高い佳卓を睨みつけた。

「これは一体どういうことですかっ!」

 翠令の噛み付くような怒鳴り声に、佳卓がわずかに目を見開く。

「ここは錦濤の姫宮のおわす船。その御在所に弓を射かけるとはどういうおつもりか!」

 翠令の腹の底から憤りがこみ上げる。いかに相手の気迫が凄まじかろうと、いや、だからこそ翠令の心の奥で「呑み込まれてなるものか」という意地が燃え立つ。

「先ほど貴方はおっしゃった、『賊が錦濤の姫宮の戦列を襲うと予想がついていた』と。それは……」

 彼女は声を限りに張り上げた。

「予想していて賊に襲わせるままとは! それは……それは……姫宮を囮に使ったということですかっ!」

「……」

 翠令は相手の無言を肯定と受け取った。全身の血が沸騰するような怒りを感じる。

「姫宮を仮の東宮とそこまで侮っておいでか! 許せませぬ!」

 静かな声で相手は問うた。

「許せなければどうする?」

 考えるまでもなかった。翠令は手にしていた佳卓の弓を忌々し気に投げ捨て、自分の刀を両手で握り直した。

「待て」

 その声は佳卓の背後から掛かった。麾下の一人、とはいえ立派な鎧からして地位の高そうな男だ。

「気持ちは分かるがその剣を収めよ。この御方は近衛の大将……」

「いや、説明はいい」

 佳卓が男に振り向いて制し、そして再び翠令に向き直った。

「私が近衛大将佳卓であること、翠令殿は既にご存知だろう」

「いかにも。本来これから姫宮をお守り申し上げるべき近衛の大将が、畏れ多くも姫宮を囮に使うなど……。二度とあってはならぬこと。この翠令、命を賭して近衛大将をお諫め致す!」

 翠令は刀の切っ先を佳卓に向けた。己の身分の低さなどどうでもいい。もちろん剣で勝てるとも思っていない。取り押さえられた後には、厳しい処断が待ち構えていることだろう。

 しかし、姫宮を幼いころからお守り申し上げてきた臣下なら、ここでわが身を捨ててでも主張しなければならない。我が姫宮は安々と扱ってよいお方では決してないのだ、と。

 近衛の大将は、優雅な物腰に似合わぬ太い笑みを浮かべた。

「その剛直、気に入った」

「……」

「翠令殿の申されるとおり姫宮への無礼であった。幾重にもお詫びしよう」

 あまりに率直な態度に、翠令は揶揄われているのかと疑う。

「私ごときに『殿』などつける必要はございますまい。私は都に入れば貴方が率いる近衛府の、その雑兵にしかなれぬ身です。それに、詫びていただくのは私ではなく姫宮だ」

「貴女はまだ私の麾下になってはいない。今は錦濤の姫宮お抱えの従者だ。このような忠実無比の臣を召し抱えている姫宮に敬意を表し、今は貴女に『殿』をつけてお呼びしよう。まあ、京に到着後に私の麾下となったら、翠令と呼んでこき使うゆえご覚悟を」

「……」

 佳卓は本当に翠令の振る舞いを不問に付すつもりらしい。翠令は刀を下ろした。それを見届けると、佳卓が膝をつく。

「……?」

 怪訝に思う翠令ではなく、佳卓は翠令の背後の扉を見つめていた。その視線を追って翠令が扉を振り向くと、いつの間にかそれは開いており、姫宮が立っていらっしゃった。

「姫宮!」

 佳卓が夜着姿の十歳の少女に丁寧に語り掛ける。

「初めておめもじ仕る。私は朝廷より近衛大将の職を賜る、名を佳卓と申す者。今上帝の命を受け、東宮様をお迎えに上がりました。無礼がございましたこと、どうかお許しあれ。盗賊を捕らえて京の街を安寧たらしめることが姫宮への礼節かと存じた故なれども、翠令殿が申される通り、姫宮を囮に使ったとのそしりは免れません。伏してお詫び申し上げる」

 そして、佳卓は深々と頭を下げた。

 姫宮は考え深そうな表情で佳卓をご覧だった。しかし、顔を上げた佳卓と目が合った瞬間、すっと顔を強張らせてしまわれた。彼の瞳に、再びあのヒヤリとする光が宿っている。

 姫宮にまであの、人の心の奥底に踏み込むような視線を向けるのか。自分はいい。だが、姫宮を値踏みするような真似は許せない。翠令はさっと姫宮の横に並んで、出来るだけ目に力を込めて佳卓を睨んだ。

 佳卓は、その翠令の様子を見て瞠目し、そして表情を和らげる。

「従者殿をまた怒らせてしまったようだ。重ね重ね申し訳ない。私はどうも目つきが悪くてよろしくない。決して害意などございません」

 姫宮が落ち着いた声を佳卓にお掛けになった。

「お出迎え、ありがとう」

 いつもどおりの可憐なお声。よかった、姫宮はあの佳卓の恐ろしい視線に怯えてはいらっしゃらない。

 姫宮様は御年十。その幼さはかえって武器かもしれないと翠令は思った。
 なまじ齢を重ねている分、翠令は相手の存在感が尋常でないことに畏怖を抱く。だが、まだ子どもの姫宮は、恐ろしいと思った相手の恐ろしさがどれほど恐ろしいかまだお分かりでない。初めて会う大人がどのような個性でも、それはそのようなものと素直に柔らかく受け止めるだけのことだった。

「盗賊を捕らえるのは近衛大将のお仕事だもの。それに……貴人が敬われるのは、民のための役に立ってこそでしょう? 囮でもなんでも、それで私が誰かのためになるなら良いことだわ」

 佳卓は姫宮の言葉に感じるところあったようで、しばし真面目な顔で姫宮を見つめた。それから、口元に柔らかい笑みを浮かべ、気づかわし気に姫宮にお尋ねする。

「刀を持った賊が近くに現れて、恐いとお思いではございませんか?」

 姫宮は「ううん」と首を小さくお振りになり、そして目線を縄で繋がれて座らされている賊に向けた。

「私は全然怖くなかったわ。だって、この人は『女子どもに何もしない』って言っていたもの」

 賊が驚く。

「嬢ちゃん、あんた、あんたの従者が斬りかかってくる前から聞いてたのか?」

「ええ、扉の陰からそっと見ていたの」

「怖くなかったのか? 大人たちの斬り合いが」

「大丈夫よ。だって翠令はとっても強いんだもの。今までだって錦濤のおうちに押し入ってきた賊をやっつけてくれたのよ」

 賊は翠令を見上げた。

「この女がそれなりに実戦をこなしてきたことは分かる。初めて敵を斬るような風ではなかったからな。胆力があるのは認めよう。ただ、まだまだだな。あのままじゃ、俺にやられていた」

 翠令はムッと黙った。賊に論評されずとも、己の武芸が至らぬことくらい分かっている。

 そんな翠令に代わって姫宮が口を挟まれた。

「大丈夫よ、翠令が危なかったら……」

 姫宮は物陰から(ほうき)を取り出された。

「私がこれで助けてあげるつもりだったわ! えいっ」

 御年十の少女は真面目にその箒を構えて得意げな顔をなさる。

 ぶっと佳卓が噴き出した。一拍遅れて、賊が肩をゆすって笑い出した。そして佳卓の麾下たちも。

 周囲の者が皆笑うので、姫君は少しご不満げに口を尖らせていらっしゃる。

 佳卓が姫宮に申し上げた。

「姫宮は臣を思い、民を思う。よろしき器量の女宮を東宮にお迎えできること、改めてお喜び申し上げる」

 立っていた者達も一斉に膝をつき、錦濤の姫宮に礼を取る。

 春らしい柔らかな風が、松明の火の粉を、おぼろに霞む夜空の中に穏やかに散らしていた。

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