四十 白狼、信頼される

文字数 5,538文字

 姫君が夕方に外に飛び出るほど錯乱することはほぼなくなり、夕暮れ時を静かに過ごす日が多くなった。

 女房達は相変わらず自分たちの利害しか口に出さない。

「やれやれ、梅雨が始まる前に収まって良かったこと」

「雨の中を外に走り出られては泥の始末など手間がかかる。屋内で過ごしていただかなくてはの」

 彼女達は簀子(すのこ)に座る白狼を「これ、お前」と呼んだ。

「なんだ?」

「姫宮は未だ夜中にふらふらと立ち歩かれるが、お前がしっかりお世話して、外には出さぬようにしておくれ」

「それは、あんた達の都合なんだろ?」

 それ以外に何を考える必要があるのかと言わんばかりの態度で、女房達は白狼の問いを無視した。

「それから雨の日はお前も廂の中に入るように」

「……?」

 ここの女房達が白狼を気遣うとはとても思えない。

「お前が簀子で濡れたままでは、お前に触れた姫宮の衣装まで濡れてしまう。乾かすのが面倒じゃ」

「……」

 どこまでも勝手な彼女達に、白狼は返答する気も失せてしまった。

 確かに季節は梅雨に入ってしまったようだった。日々じめじめと湿気で空気が重くなり、暑気が身体に(まとい)いつくようになってきている。

 ただでさえ寝苦しいこの時期、神経が不安定な姫君にとってはなおのこと夜を越えることが難しかった。
 ほぼ毎日のように、夜更け過ぎになると、か細い声で「白狼、いますか……」と尋ねながら御帳台を出てくる。

 眠ろうとすると、どうしても暗がりに何かが居る気がしてならないのだという。

「寝入ろうとしてしばらくは気にならないこともあります。でも、一度気になってしまうともう駄目なのです。何がきっかけとなるか自分でも分からない……」

 彼女の話では、その時は不意に訪れるのだという。突然、周囲の何もかもが彼女にあの時あの瞬間に立ち返るように追い立てる。庭木を渡る風の音も、灯火に揺らめく几帳の影も、女房達の立てる衣擦れの音も何もかも……。そして、彼女の記憶は、一番恐ろしかったあの場面に戻ってしまうのだ。

 幻の恐怖に苛まれている姫君に白狼は心を込めて請け負った。

「そんなときのための、あんたのための妖だ。あんたは俺の主公だろう? 俺のことは好きに使うといい」

 白狼は姫君が来ると、出来るだけ刺激しないようにその身体を抱き取り、そして自分の碧い瞳を見せつける。「ほら。妖だろう?」という彼の言葉に、彼女は少し安心した様子を取り戻し、そして彼が背中をトントンと叩いてやるうちに、体はほぐれ眠りにくたりと落ちて行く。

 姫君の「寝かしつけ」は決して嫌な仕事ではなかった。大人が子供を泣き止ませて安堵するように、自分の手で相手が心の安らぎを取り戻す(さま)を見ているのは、白狼自身にとってもどこか温かい気持ちになる。

 ある時、彼の胸の中で彼女がぽつりと(こぼ)した。

「こうしていると父様(とうさま)兄様(あにさま)を思い出します……」

「そうか」

「白狼はとてもぶっきらぼうで、わたくしを貴人として扱う気はさらさらなさそうですが……。でも、こうして私を守り、あやしてくれるのですね。父様や兄様みたい……」

「懐かしいか?」

 姫君の口調が少し涙がちになった。

「ええ……。思い出さないようにしていましたから……。久しぶりに思い出して、とても、とても懐かしい……」

 白狼は意外な気がした。

「思い出さないようにしていた? 何故? いい親父と兄貴だったんだろう?」

「ええ、とても。いつも優しい父と兄だった。生きていらしたら、きっとわたくしを守ってくれたはず……。だけど、いなくなってしまわれた……」

 話題を変えた方がいいのだろうかと白狼は一瞬ためらった。けれど、やはりそれは止めておく。彼女が話したいときに話したいことを話せるようにした方がいいだろう。

 姫君はぶるりと身を震わせた。

「二人ともいなくなってしまってわたくしは恐ろしい目に遭って……。こうして竹林の中に住むようになって、あの豺虎(けだもの)から離れても、わたくしは楽になれない。幻だと分かっていても、恐怖に負けて正気を失ってしまう。長い間、意識を取り戻すとそれは塗籠(ぬりこめ)の牢の中でした……」

 その声が震える。

「牢の中で目を覚ますのはとても惨めなものです……。痣だらけで身体のあちこちが痛い。でも、それは自業自得だと女房達は言う。わたくしのせいで自分たちが取り押さえるのに苦労したとなじられる……」

「ここの女房達は、なんで男手を頼らないんだ?」

「男を床に上げるなんて……とても非常識なことなのですよ?」

 白狼も不承不承頷く。

「ああ、そうらしいな」

「それに女房にとって外聞が悪いものですから伏せているのです。女房達としては、『自分たちが誠心誠意お仕えしているから竹の宮の姫君は快方に向かっています』と、そういうことにしたいのです」

「なるほどな……」

「ここの暮らしは静かだけど惨めで……。子どもの頃の幸せな時期のことは思い出したくなかった。比べてしまうと余計に辛くなってしまうから。失われてしまっては手の届かない悲しみしか残らない……」

 でも……と彼女は柔らかい声を出して微笑んだ。

「白狼がいれば安心です。白狼は男だけれどわたくしに何もしない……。父様や兄様と同じ……守ってあやしてくれる……」

 姫君はそう言って目を閉じた。その眠りに落ちて行く前の無防備な顔を、白狼は見つめ、彼女に気づかれないように息を吐いた。
 他人に信頼を寄せられていることがとても嬉しい。けれど、嬉しいだけのはずなのに、それなのに、どこか苦しい気がした。

 白狼は姫君と過ごす前の時間、すなわち起きてから夕刻前までは書庫から持ち出した本を眺めて過ごしている。
 書庫にいてもいいのだが、他の近衛舎人と顔を合わせるのを避けていた。会えば相手は姫君のことを尋ねてくるだろう。興味本位で話を聞かれるのが煩わしくてたまらなかった。

 ある日、白狼は透渡殿(すきわたどの)の中央を居場所と定めて書物片手に座り込んだ。坪庭に植えられた樹木の若葉を雨が叩く。それが茂りゆく前の試練でもあるかのように。葉の上に蝸牛が角を動かしながらのろのろと動いている。
 白狼はそれを眺めているつもりだったが、どうやら転寝をしてしまったようだった。

 その日の夜。
 姫君が寝支度が済ませて御帳台に入ろうとするとき、いつもどおり(ひさし)の端にいる白狼に「頼みます」と声を掛けた後、更に一言を加えた。

「白狼、横になって休んでいていいのですよ」

「……?」

「今日の白狼は転寝をしていたのだとか」

 通りがかりの女房が「そんなところで寝るなどと!」と、白狼を見つけて叩き起こしていたのだった。

「大丈夫だ。俺はあんたを寝かしつけた後に眠るから」

「それでは白狼の方が遅くまで起きていることになります。体を壊してしまってはいけません。休めるときにはお休みなさい。わたくしが声を掛けた時に寝かしつけてくれればそれでいいのですから」

 白狼は素っ気なく返した。

「あんたもたまには優しいことを言うんだな。俺は眠くなったら適当に仮眠を取る。気遣い無用だ」

「そう……」

 姫君は苦笑を口調ににじませて静かに答え、そして御帳台の中に消えた。

 初対面の頃から比べると互いにだいぶ打ち解けてきた。姫君が白狼を信頼してくれるようにもなった。だが、姫君の方から白狼を気遣ってくれたことはこれまでなかった。

 別に彼はそれを非難する気など全くない。彼女は不安と恐怖に振り回されて他者を気遣うどころではなかったのだ。今日このような声を掛けるくらいだから本来の彼女は心優しいところがあるのだろう。ただ、誰も彼女を守らないから、彼女も誰かを(いた)わることを長らく忘れてしまっていたのだ。

 強くも弱くもない雨がしとしとと降り続く。白狼は欠伸(あくび)をして姿勢を変えた。盗賊時代は雨の日はねぐらで寝て過ごしていた。どうもその習慣が抜けておらず、雨に眠りを誘われてしまうらしい。
 あの女も気遣ってくれたことだし少し仮眠を取ろうか。そう考えた白狼は、足を投げ出して柱に凭れて座り、片脚だけを立てるとそこに片腕をのせて体の力を抜いた。

 そうしてうとうとと寝入り始めたころ。すうっと人が近づく気配がした。

「……!」

 白狼は弾かれたように立ち上がる。すると、自分よりずっと小柄な姫君が、白狼の近くに置かれていた高燈台に手を伸ばしているところだった。

 彼は反射的に刀を手にしていたが、それを握る手から力を抜いて息をふうと吐いた。

「……あんたか……」

「白狼を驚かせるつもりはありませんでした……。ごめんなさい」

「いや……」

 今の姫君の顔には緊張や不安の色は浮かんでいない。穏やかな、そして人を案じる表情だった。

 彼女の静かな顔を見下ろしながら、改めて美しい女だと白狼はしばし見惚れた。
 以前から美人だとは思っていたが、彼女については容姿以外に気を配らなければならないことがあまりに多く、このようにじっくり見つめたことがなかった。

 肌のきめは細かく、色は抜けるほど透明に白い。黒曜石のような瞳は見る者を吸い込むような抗いがたい魅力がある。ほっそりとした顎の線は、彼女の品の良さと嫋やかさを強調しているようだ。全体に華奢で小柄で未だにどこか幼女のような愛らしさとともに、少し目を伏せると物憂げで幽玄な雰囲気を醸し出す。

 白狼はため息をついた。佳卓が「禍々しいほどの美しさ」と表現したことがある。白狼もまた「不幸な美貌」というものがあることを知っていた。

 美しさに高い値がつく娼婦は、そうであるがゆえに男の欲望に振り回される。そして、そんな女はたいてい金に置き換わる外見以外に何も持たないまま年老いていく。彼女たちの人生の友は、若さと美貌と、それらを失っていく悲哀だけだ。

 美しすぎる女というのは不幸を招く。この女もこれほどの佳人でなければ、こんな過酷な人生を送らずに済んだのであろうに……。

 黙り込んだ白狼を、姫君が不審げに見上げている。その眼差しに気づいた彼は、はっと物思いから醒めた。そのまま彼は自分の目をすがめる。

「どうした? 今のあんたはあんまり怖そうにしていないが……」

「白狼の側の灯火が、明るくて眠れないのではないかと思って……」

「……俺のために出て来たのか?」

 確かに、灯りを消した方が白狼にとっては寝入りやすい。しかし……。

「俺はあんたの護衛だ。何かあって起き出したときに周りが見えないと動けない」

「白狼は最近きちんと睡眠を取っていないのではなくて?」

「俺は盗賊の頃から夜起きているのに慣れっこだ。俺を心配してくれるのか? 今日は随分しおらしいな」

 失礼ね、と彼女は淡く笑んだ後、苦い顔を見せた。

「……確かにわたくしは白狼にとって良い主公ではありません。いつも負担をかけて済まなく思っています」

「……」

 白狼は一瞬言葉に詰まった。

「……よせ……」

 何を言ったらいいのか分からないまま、言葉を継いだ。

「……あんたが気にすることじゃない」

「白狼の顔が少し赤いようです。気恥ずかしいのですか?」

 確かに自分の頬が熱い。そうだ、確かにそれもある。もともと彼は、人に感謝されたり気遣われたりするとむずがゆい気持ちになる。

 白狼はふてくされたように腰を下ろした。

「済まないと思っているなら、さっさと眠ってもらおうか。ほら、寝かしつけてやるから」

 立ったままの姫君に手を伸ばす。

「そうね」

 姫君はその手を取った。

 胡坐を組んだ白狼の上に、横向きに姫君も腰を下ろした。そして彼の心臓の音に耳を傾けるかのように頭を彼の胸にもたせかける。まるで女童が甘えるように。
 彼もまた、子どもにそうするようにトントンと彼女を抱きかかえた手の先で彼女の身体を軽く叩く。

 姫君は小声で白狼に話しかけた。

「初めて会った時と同じことを言いましたね」

 彼は手を止めた。

「何が?」

 姫君は少し考えてから訂正した。

「いえ、あれは初めてではなく二回目だった……。わたくしが錯乱したのを白狼が助けてくれた翌日のことです。わたくしが前日の夜のことを良く覚えていないと言ったら、白狼は私に『あんたが覚えておくことはない』って返したでしょう? さっきも『あんたが気にすることじゃない』と言いました……」

 白狼にとっては当然のことだった。

「覚えていても愉快じゃないことは覚えておく必要はないし、気にするべきじゃないことは気にしない方がいい」

 姫君はふっと苦笑した。

「気にはなります。白狼はわたくしの従者ですが、わたくしは白狼の主公としてちゃんとしていないと思いますから……。済まぬことです」

 白狼は彼女に主として自分を使いこなせと言ったが、出来ないことに弱音を吐いて欲しくはなかった。

「そういうことを……言うのはよせ。あんたがしおらしいと心配になる」

「……」

「あんたは……高飛車にしている方がいい。そっちの方が似合う」

「随分ね……」

 姫君は軽口だと思ったようだが、白狼はまじめに話しているつもりだった。ただ巧く切り出すことができない。

「ええと……例えばだな……。俺がやたら礼儀正しい言葉遣いをするようになったら、それはもう俺じゃないだろう?」

 姫君は軽く噴き出した。

「そうですね。ですが、白狼は言葉遣いを改める気はないのですが? もう少し口調を変えた方が、相手に良い印象を与えると思いますが」

「……俺はこの口調を改めたりはしない」

「どうして? 何もわざわざ人から嫌われる必要もないでしょうに」

「人から好かれるかどうかより、もっと重要なことがある」

 そうだ。人が白狼を好むかどうかは、そいつが決めることだ。白狼には直接関係ない。
 それ以前に自分が自分であることの方がずっと大事なことだ。そして、そのために必要なのが……。

「俺にとって一番大事なものは『意地』だ」

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