三十 翠令、謹慎を命じられる(一)

文字数 5,247文字

 梅雨が明けると猛烈な夏がやってきた。

 ──暑い……

 太陽の眩しさだけなら錦濤(きんとう)の方が強かったかもしれない。しかし、港町の錦濤では山風と浜風が街の空気を入れ替えてくれた。
 それに対して三方を山に囲まれた盆地の京の都では風らしい風が吹かない。淀んだ空気は日ごとに暑気を溜めているようで、熱と湿度を帯びた空気が重苦しく、翠令は息が詰まるように感じる。

 夏が来るたびに京の人々はこんな気候を過ごしているのかと翠令は半ば呆れたくなるが、梨の典侍によれば今年は例年よりもさらに厳しい暑さらしい。

「京の夏は蒸すものでございますが、梅雨が明けてしばらくはじわじわと気温が上がるもの。この時期に一気にここまで酷い暑さとなる年はあまりございませぬ。まことに……今上帝のお身体が案じられますこと……」

 お身体の弱い今上帝は毎年夏に寝込まれるそうだが、今年はお疲れが甚だしく、ほとんど臥せってお過ごしと翠令も聞いていた。健康な武人の自分でさえ喘ぐように暑さをしのいでいるのだから、帝のような方にはさぞお辛かろうと翠令はおいたわしく思う。

「翠令殿のお仕事もお忙しいとか」

 こうも暑いと人は苛立ち、些細なことで喧嘩が起きる。官人やその家人同士で、どちらがかが拳を使うような争いになれば、翠令達のような武人が乗り出して事態の収拾にあたる。厄介なのは、そのような争いごとに円偉と佳卓の名前 が引き合いに出されることだった。

 翠令はため息をついて、希望的な観測を口に出すよりほかはない。

「暑さが過ぎて季節が変われば多少はましになりましょう。典侍殿の方もお仕事が大変だと思いますが……」

 錦濤の姫宮が正式に東宮におなりになる儀式が秋に迫っている。この儀式を立太子の礼といい朝廷で取り仕切るものだが、帝のご体調ではそれがご負担だ。ゆえに、この昭陽舎(しょうようしゃ)に朝臣が集まり姫宮ご本人と直接に話をある程度進めることになった。

 その初日を控えて、梨の典侍は昭陽舎に人を迎える準備に追われている。もっとも、この女官にはそれは張り合いのあることであるらしい。

「いえ、この昭陽舎に主だった朝臣が集まるなど()えのあること、励みになります」

 月が変わった盛夏のある日。午前中から濃紺の空に入道雲が浮かぶ蒸し暑い日だった。

 昭陽舎に大人の男たちが集まってこられた。東宮の御前なので皆正式な装束に身を固めていらっしゃる。

 翠令は昭陽舎の近衛舎人として、階の下に膝をつき控えていた。訪れる男君達が簀子を歩くのを上目遣いにちらちらと拝見しつつ、その中に佳卓と面差しの似通った方を見つける。おそらくあの方が権大納言である佳卓の兄君だろう。

 左右の大臣に、大納言の円偉以下参議までが続き、総勢十人ばかりが姫宮の待つ昭陽舎の廂の中に入って行く。

 佳卓も近衛大将の職だけでなく中納言を兼任しているため、その資格で出席することになっていた。やや遅れて到着した彼は、外にいる翠令に声を掛ける。

「そこは直射日光があたって暑いだろう。頃合いを見て日陰に入ってもいいよ」

 翠令は階の上の佳卓に顔を上げて、一礼を返す。(つつが)なく議事が進行すれば有難くそうさせて頂こうと思った。

 左大臣の声が開会を告げ、姫宮が集まった皆にお言葉をたまう。

「今日は私の立太子の礼のこと、集まってくれてありがとう」

 少しでも暑さがしのげるよう、御簾も格子も全て上げて風が通るようにしている。階下で頭を下げている翠令には段上の床にいる方々の姿を見ることはできないが、お声を聞くことはできる。姫宮はいつも通り落ち着いておられるようで、翠令は一人微かに微笑んだ。

 姫宮はもともと大人に囲まれてお育ちだ。錦濤には燕から高位な使者などが来る。そういった人物をもてなすのに、いかに財力があろうと一介の商人では釣り合いがとれない。だから、高貴なお血筋である姫宮を上座に据えて、使者を歓待する場が設けられていた。十人を超える大人たちと、時には燕語を交えて自由に討論することに姫宮は慣れていらしたのだ。

 昭陽舎の公達たちの議論は、費用の負担をどうするかという内容に進んでいく。
 翠令の知らない声がその細目を読み上げ、そしてしめくくった。

「……東宮がお立ちになられること、大変めでたいことなれど常にないことゆえ、かように纏まった出費が必要となるものでございます」

 円偉の沈鬱な声がした。

「仕方ございますまい。今年は民からの税を上げましょう。断腸の思いでございますが、東宮が威儀を正して儀礼に臨むことも重要なことでございますれば」

 複数の男たちがさざ波のように声を立てる。

「おお、あれほど民思いの円偉様が税を取るとおっしゃるとは」

「まことに円偉様には苦渋の決断でございましょう。致し方ございませぬ」

 妙に湿っぽいそれらの口調は、円偉に(おもね)ってのことだろう。

 円偉が「いかがですかな、佳卓殿」と双璧の意見を求めた。

 佳卓の落ち着いた声が流れる。彼にしてはやや低めの声に、「そうか、公の場ではこのようにお話になるのか」と翠令は耳を澄ます。

「円偉殿は正しく政を執り行い、普段から民の税を必要最小限に抑えていらっしゃる。だからこそ、このような特別な支出を国庫から賄えない。特別な支出を増税なしにできるというなら、それは税を取り過ぎているということですからね。必要があれば一時的に税を上げるのは適切なことかと存じます」

 佳卓は淡々とした口調だった。

 なるほどと翠令も納得する。円偉の人柄には好感を持ちかねるところもあるが、政については潔癖なほどの姿勢で臨む方なのだろう。その方の率いる朝廷が一時的に税を上げるのは理に適っているのだ。

 そしてこの時、翠令は円偉が佳卓を求める気持ちも分かる気がした。他の者のように感傷的な口調で阿られるよりも、自分の主張を理路整然と認めてくれる方が円偉のような才人にとっては手応えがあることだろう。

 大人達の話が一段落ついたところで、姫宮がお声を発せられた。まず、「自分のための費用は要らないのだ」と前置きなさる。

「私の立太子の礼なんで質素で全く構わないのよ。だから、費用だって掛けてくれなくて全然かまわないし、あんまり税を上げなくてもいいわ。でもね、必要に迫られて税を上げるのなら、その方法を工夫したらどうかしら? そうすれば民への負担は少なくならない?」

 円偉は「は?」と問い返した。あからさまではないものの苛立ちがあるのが感じ取れる。双璧の佳卓が褒めたように彼は堅実に政を運営してきたのだろうし、それに対する自負もあろう。姫宮に「口答え」されるいわれはないと感じたのかもしれない。

 しかし、姫宮は、円偉の声に含まれた小さな棘にお気づきにならないまま続けられる。

「あのね。この間風土記を読んだら、京から北西に進んで北の海に面した『古志(こしの)国』では、お米がたくさん取れるんですって。そういう国にはお米を税にすればいいわ。だけど、そのままじゃなくてね」

「……」

「ええと、『古志国』ではお米が珍しくないから貨幣五枚にしかならないとするでしょう? だけど、お米があまりとれない国だと同じ分量でも貨幣十枚になるわ」

 姫宮は滔々(とうとう)とお続けになる。

「逆に言うと、お米があまりとれない国と取引をすれば、貨幣五枚分の税を納めるのに『古志国』の負担は今までの半分の分量で済むの」

「……」

 大人達が当惑気に沈黙する。姫宮は自分の説明が分かりにくいのかとお思いになったようで、更に極端な例をお挙げになる。

「ええっとね……。志麻(しまの)国の真珠はもっと凄いわ。一粒あれば燕の珍しいものがたくさん買えるもの。志麻国だったら真珠を何粒かで一年分の税が賄えるんじゃないかしら?」

 要は、その地方の名産品が、それを珍しいと思う別の地方では高値が付くという事実を活かし、主に貨幣を中心とした取引を通じて各地方の実質的な負担を減らすということだ。

 錦濤の商家育ちの翠令には納得がいく話だった。また、実務的な正智も賛同しそうだと思う。
 しかし……あまり円偉様が好む意見ではないだろうな、という気もする。

 円偉は冷ややかに申し上げた。

「姫宮、君主たるもの、そのようなことよりも真っ先に考えねばならないことがございます」

 姫宮は無邪気な声でお尋ねになった。

「あら、なあに?」

「民から税を取り立てること、それについて民に詫びる、その謙虚さが仁道というものでございます」

 姫宮は少し面喰ったような間を空けてから、すぐ反論なさった。

「あの……最初に言ったように私の立太子の礼の費用はどうでもいいわよ。何ならそんな儀式なんかやらなくってもいいわ」

「そうじゃなくて」と姫宮はお続けになる。

「税をどうしても取らなきゃいけない場面ってあるでしょう? そういう時には税をきちんと取らないと皆が困るわよ。錦濤では商船を持っている商人たちがお金を出し合って、港を整備するのに、そこから費用を出していたの。そういう会費を取らないと、皆にとって必要なものを整えられないわ」

 翠令もそう思う。税がなければ堤を造るといったこともままならない。それを前提に、どうすれば負担を減らし公平な徴税が出来るか考えるべきだ。

 これまで全国から米を中心に税を納めさせるのが当然だったのだろうが、姫宮のご指摘通り、米が良くとれるところとそうでないところで一律に米を租税とするのは、形式的には公平でも実質的な公平さに欠くだろう。その地域の特産品を税としてみた方が民にとって良いことではないだろうか。

 円偉はやはり静かに口にした。より一層冷ややかさが増している。

「錦濤の商人たちの集まりと国政とは異なります。姫宮はこの国の君子とおなりになる。徳を備えた天子となり、仁の心をもって民に心を致さなければなりません。税をどう取るかなどより、どうすれば取らなくて済むかをお考えになるべきです」

「どんな立派な帝の御代でも、税をとらずに済んだ前例はないでしょう? どうせ取らなきゃいけないなら、効率をよくすることで、民の負担を下げることはできると思うの」

「効率とおっしゃいますが……。そのような事実が起きたとして、そこに天子と民との心の交流はないではありませんか」

「……え?」

「税を取る技術を変えて税が下がったとしても、それは天子の恩寵ではありません。税とは天子の威徳に対して捧げられるものです。実務的にどうするかなどという話はそれ相応の者が考えればよろしゅうございましょう。天子の徳こそ、この朝廷で論じられるに値する。私は徳ある天子のありようをお話しているのです」

「でも、税を取るよう命じるのは最終的には帝の責任でしょう? 天子だってもっと税を少なくできる工夫はないか考えたっていいじゃない」

 姫宮は頭の回転がお早いので、即座に反論を思いつかれる。

 だが……。翠令は願う、姫宮ここでお止めなさいませ、と。姫宮はここで退くべきだ。これ以上、円偉を追い詰めない方がいい。

「その地方で良く取れるものを別の地方とで交換させてみたら? そうやって税の負担を下げる工夫の余地はあると思うわ。朝廷の方でちゃんと各地の産物を知って課税に活かせば、その土地の民の負担を下げられて、朝廷の方は税収を確保できる。円偉は少し民の実情に無関心なところがあるんじゃないかしら?」

 ――姫宮……!

翠令は唇を噛む。
口が滑ったというのともまた違う。
十歳の子どもからすると、大人はいつも悠然と構えているように見え、自分の言葉で何かが傷つくなど思いがけないことなのだろう。──しかし、このお言葉では円偉の面子を傷つけてしまう。

 声を上げたのは参議の若者だった。

「怖れながら姫宮、円偉様が民を蔑ろになさっているとおっしゃっるのですか」

「蔑ろってわけじゃないけど……。あまり民に興味はなさそうには思えるわ」

「なんと!」と別の者が気色ばむ。

「姫宮は円偉様の紀行文をお読みになったはず。あのご本を読んでなお、円偉様が民を思っていないなどと口になさるか!」

「円偉があちこちに旅行に行ったのはよくわかる本よね。でも、円偉のあの本では円偉の好き嫌いは分かるけど、旅先の民の暮らしはよく分からないじゃない」

 円偉自身は他の者が彼の代わりに姫宮に抗議している間、沈黙していた。

 そして、おもむろに話し始めた。静かでゆっくりとした低い声。しかし、ここまで静かさを強調されると、その奥の不穏な感情が見え隠れする。

「私の本は、私の好き嫌いなどを書いたものではございません。鄙に住む民の心の美しさを京の為政者の心に届けるべく描いたものでございます。それをお分かりいただけぬとは残念なこと」

 円偉は大きく息を吐いた。その「はあっ」という音が階の下にいる翠令の耳にも届くほどに。
 そして殿上は静まり返る。屋内に下りた重苦しい沈黙は、そのまま階の下に跪いている翠令にまでひたひたと押し寄せてくるようだった。
 太陽がじりじりと地面を焦がす音まで聞き取れそうなほど耳を澄ませても、何も聞こえない……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み