八十五 翠令、承明門で待つ(二)
文字数 3,425文字
足を止めた男は、ひゅーと口笛を吹いて、そしていかにも下卑た声を出した。
「そこな童子、遠目に見ても美形のようじゃないか」
さっきまで一緒にいた男も進む足を止めたらしい。紫宸殿の陰から、庭に残った男に呆れ声を放った。
「お前なあ、どんだけ助平なんだよ……。相手は男だぜ?」
下衆はへへっと嗤う。
「俺は稚児だっていけるクチだ」
「お前の趣味には付き合えねえな。その童と話すくらいはいいが、こんなところで妙なことなんかするなよ」
「おう。先に行っておいてくれ」
猥談好きの男は足を西に向けて姫君に近寄り始めた。月を雲が覆うが、あまりに薄くて男の醜く歪んだ笑い顔を隠すほどには暗くない。
姫君は足を止めてしまった。
「姫君……」と翠令は唇を噛む。
そんな男に構わず一刻も早くこちらに来て頂きたいと願うが、よりにもよって自分を襲った男と再会した姫君が平静でいられるわけがない。
男はずかずかと姫君に近寄って来る。左近の桜から紫宸殿の真正面まで西へ進んできた。このままでは姫君を素通りすることなどないだろう。
姫君は弱々しく二三歩後ずさり、とうとう悲鳴を漏らしてしまった。
「嫌! 来ないで!」
男の足が止まった。
「なんだ……おい……。女みたいな声を出して……っていうか、お前、ひょっとして女か? おい、なあっ、お前、竹の宮の女にそっくりだぞ!」
──まずい!
姫君に近づく男の足が妙に弾んだものになる。姫君の足は竦んでいるのか動かない。
姫君の唇が小さく動く。声にならない声は聞き取れない。けれどもその動きが確かに「たすけて」だったことは見て取れた。
「くそっ」と白狼が声を放つ。そして、弓矢を屋根の上に乱暴に置くと、身を躍らせて承明 門の外に止めていた馬の背に滑り降りた。
──馬で姫君を救い出すつもりか?
だが、どうやって? 承明門の扉は閉ざされている。塀はもちろん馬で飛び越せるような高さではない。
翠令は白狼から視線を紫宸殿の南庭の姫君に移した。そうしているうちに男はさらに姫君に近づいている。
──わん!
姫君の中からビャクが飛び出て地面に飛び降りると、男の前で身を伏せた。
──わん、わん、わん!
高い吠え声に、ときどき「うぅー」と低い唸り声も混じる。
自分を優しく抱いてくれていた竹の宮の姫君が怖れていることを察知したビャクは、相手が敵だと分かっているのだ。
「な、なんだよ、この犬はよぉ」
男がたじろいで止まっている間に、どんどん、めりめりっというただ事でない音が夜の紫宸殿前に響く。
白狼が自分の馬を操り、その馬の前脚で承明門を蹴り破ろうとしていた。
ミシミシと木の扉が軋む重たい音がする。
──それでも間に合うか……。
あの男が姫君の身柄を抑えてしまえば万事休すだ。姫君を人質にして、我々の動きを封じるだろう。
──わん、わわん、わおーん、わわん、わん!
ビャクは懸命に立ちはだかってくれる。しかし……。
「うるせぇんだよ、この犬!」
男が思いっきり乱暴にビャクを足で払った。
──きゃうーん
翠令は思わず、白狼が残していった弓を手に取り立ち上がった。
「その犬に危害を加えるな。帝が保護をお命じになった犬だぞ!」
この場では姫君を姫君と呼んで、直接助けることが出来ない。
男は南の承明門の方を向いて怒鳴った。
「なんだあ、塀の上に誰かいるのか?」
騒ぎを聞きつけて、近衛舎人が一人だけ清涼殿の方から出て来る。
翠令は冷やりとしたが、自分で自分を落ち着かせた。
出てくる近衛舎人の数は多くはないはずだ。今が一番警護の近衛の数が少ない時間帯だし、まともな近衛であれば変事だと判断すれば帝の側近くをまず護ろうとするだろう。出て来た近衛は様子を見に来ただけだ。
その近衛は翠令の声が屋根の上から降ってきたことを不審に思わず、それよりも勅命に背いて、童子の抱いた白い犬を足蹴にした男を責めた。
「おい、帝の勅命だ! この童子にこの犬を外まで連れ出させろ!」
けれども、帝がそうお命じになった場面を知らない男は気に留めない。
「そんな犬なんかよりよぉ! この童子をよく見てみろよぉ、こんな格好をしているが実は……」
男は姫君の変装を暴こうとしている。その先を口に出させてはならない。
翠令は承明門の屋根の陰から西に数歩離れた場所に素早く躍り出た。月影の中、歩廊の屋根の上に立つという異様な存在は、紫宸殿前の庭にいる人々によく目立つことだろう。今度こそ下衆男も近衛も自分に気づくはずだ。
案の定、近衛が叫ぶ。
「何者か!」
翠令は弓を構えて見せる。実際に射るつもりはないが、こちらに注意を惹きつけなくてはならない。鏃 が月の光を集めて瞬くように、翠令は角度を細かく変える。
近衛が翠令を指さした。
「女武人か! 錦濤の女童と一緒に京に来て、禁裏で近衛舎人に刀傷を負わせ、行方知れずになってた武人気取りの生意気な女!」
近衛も下衆男も翠令に注目している。このまま自分が彼らの気を惹き続けて、その間に姫君がこちらに近寄るためには……。
翠令は怒鳴った。
「いかにも! 錦濤の姫宮の守刀と呼ばれた女武人翠令だ。姫宮の飼い犬を取り返しに参上した!」
近衛はせせら笑う。
「何が取り返しに参上した、だ。お前はここでお縄だ」
翠令は矢を引き絞って威嚇するが、彼らは動じない。
猥談好きの方の男が「知ってるぜえ」と嘲笑交じりに指をさす。
「お前は弓なんか扱えないんだろ? 女武人などと言われているが、矢の一つも射ることが出来ないってみんな知ってるぜぇ。最近になって付け焼刃で練習を始めたばかりだってこと、近衛で知らない奴なんていないぞぉ!」
「うるさい」っと翠令はわざと癇性な声を出し、弓を手から取り落とすような振りをした。
彼らの目には、弓も扱えない女が図星を指されて動揺したと映ったようだ。はははははあ、と男たちは高笑いを響かせる。
その間も白狼は承明門の外から馬に扉を蹴らせていたが、翠令が姿を現したことで、彼らは「恐れるに足りない」と判断したようだった。
「さっきからドスドス扉を叩いているのも、お前の仲間か」
「女とつるむような奴に大したことなどできるもんか」
「待ってろ、直に衛門府の武人が捕らえに来る」
どうせ捕らえられる翠令のことに構っている場合ではないと、猥談好きの男は思い出したらしい。
「そうだ! あんな女武人とやらはどうでもいい! それよりこの童子は……」
男が姫君に視線を向けた。翠令がその男に続きを言わせないように叫ぶ。
「ビャク!」
「わん!」
ビャクが翠令めがけて南に走り出した。童子姿の姫君も弾かれたように走り出す。
「あ。おい!」
近衛の方は、勅命で犬の世話を申し付けられた童子が犬を追うのは当然だとしか思わないようで動かない。
姫君は全力で走る。それは翠令にも分かる。けれども、その足取りはおぼつかない。幼い頃にこの御所にいらした頃は、庭に降りることはおろか、殿上を立ち歩くことも稀だったと梨の典侍は語っていた。白狼や佳卓によれば、錯乱した時に地面を走ることもおありだそうだが……。
──狂乱のままに地を駆けるのと、この場面で走るのとでは心持ちが違うだろう。
今の姫君は分別を失っておられない。自分が手にした関契を外に持ち出さなければならないという使命を十分お分かりだ。その上で、襲い掛かって来る魔の手から逃げなくてはならない。
恐怖と焦りは、心だけでなく身体にも負担となるものだ。東国への歩き慣れない山道の旅で翠令も痛感した。
──もう、姫君の脚は上がっていない
姫君が懸命に脚を前に繰り出そうとしていることはよく分かる。けれど、その逸るお気持ちほどの速さが出ない。男がそんな姫君に残忍な笑みを浮かべながら追いつこうとしている。
男が自分の腕を前に上げたのは、もう少しで姫君の身体を捉えられると思っているからだろう。
翠令は本気で弓を構えた。門の外、馬を操る白狼が怒鳴る。
「翠令! 射る気か?」
「ああ!」
「なんだと⁈」
白狼の声は言外に「出来るのか?」と問うていた。
彼からは、閉じた扉の中の様子が見えない。だが、それでも、姫君があの男に追われている状況だと白狼も分かっている。今まで練習以外に矢を射たことがない翠令が、にもかかわらず、弓矢を使わなければならないということは、それだけ姫君に危険が迫っているということだ。
──つまりは、追う男と追われる姫君の距離はごくわずか。
「そこな童子、遠目に見ても美形のようじゃないか」
さっきまで一緒にいた男も進む足を止めたらしい。紫宸殿の陰から、庭に残った男に呆れ声を放った。
「お前なあ、どんだけ助平なんだよ……。相手は男だぜ?」
下衆はへへっと嗤う。
「俺は稚児だっていけるクチだ」
「お前の趣味には付き合えねえな。その童と話すくらいはいいが、こんなところで妙なことなんかするなよ」
「おう。先に行っておいてくれ」
猥談好きの男は足を西に向けて姫君に近寄り始めた。月を雲が覆うが、あまりに薄くて男の醜く歪んだ笑い顔を隠すほどには暗くない。
姫君は足を止めてしまった。
「姫君……」と翠令は唇を噛む。
そんな男に構わず一刻も早くこちらに来て頂きたいと願うが、よりにもよって自分を襲った男と再会した姫君が平静でいられるわけがない。
男はずかずかと姫君に近寄って来る。左近の桜から紫宸殿の真正面まで西へ進んできた。このままでは姫君を素通りすることなどないだろう。
姫君は弱々しく二三歩後ずさり、とうとう悲鳴を漏らしてしまった。
「嫌! 来ないで!」
男の足が止まった。
「なんだ……おい……。女みたいな声を出して……っていうか、お前、ひょっとして女か? おい、なあっ、お前、竹の宮の女にそっくりだぞ!」
──まずい!
姫君に近づく男の足が妙に弾んだものになる。姫君の足は竦んでいるのか動かない。
姫君の唇が小さく動く。声にならない声は聞き取れない。けれどもその動きが確かに「たすけて」だったことは見て取れた。
「くそっ」と白狼が声を放つ。そして、弓矢を屋根の上に乱暴に置くと、身を躍らせて
──馬で姫君を救い出すつもりか?
だが、どうやって? 承明門の扉は閉ざされている。塀はもちろん馬で飛び越せるような高さではない。
翠令は白狼から視線を紫宸殿の南庭の姫君に移した。そうしているうちに男はさらに姫君に近づいている。
──わん!
姫君の中からビャクが飛び出て地面に飛び降りると、男の前で身を伏せた。
──わん、わん、わん!
高い吠え声に、ときどき「うぅー」と低い唸り声も混じる。
自分を優しく抱いてくれていた竹の宮の姫君が怖れていることを察知したビャクは、相手が敵だと分かっているのだ。
「な、なんだよ、この犬はよぉ」
男がたじろいで止まっている間に、どんどん、めりめりっというただ事でない音が夜の紫宸殿前に響く。
白狼が自分の馬を操り、その馬の前脚で承明門を蹴り破ろうとしていた。
ミシミシと木の扉が軋む重たい音がする。
──それでも間に合うか……。
あの男が姫君の身柄を抑えてしまえば万事休すだ。姫君を人質にして、我々の動きを封じるだろう。
──わん、わわん、わおーん、わわん、わん!
ビャクは懸命に立ちはだかってくれる。しかし……。
「うるせぇんだよ、この犬!」
男が思いっきり乱暴にビャクを足で払った。
──きゃうーん
翠令は思わず、白狼が残していった弓を手に取り立ち上がった。
「その犬に危害を加えるな。帝が保護をお命じになった犬だぞ!」
この場では姫君を姫君と呼んで、直接助けることが出来ない。
男は南の承明門の方を向いて怒鳴った。
「なんだあ、塀の上に誰かいるのか?」
騒ぎを聞きつけて、近衛舎人が一人だけ清涼殿の方から出て来る。
翠令は冷やりとしたが、自分で自分を落ち着かせた。
出てくる近衛舎人の数は多くはないはずだ。今が一番警護の近衛の数が少ない時間帯だし、まともな近衛であれば変事だと判断すれば帝の側近くをまず護ろうとするだろう。出て来た近衛は様子を見に来ただけだ。
その近衛は翠令の声が屋根の上から降ってきたことを不審に思わず、それよりも勅命に背いて、童子の抱いた白い犬を足蹴にした男を責めた。
「おい、帝の勅命だ! この童子にこの犬を外まで連れ出させろ!」
けれども、帝がそうお命じになった場面を知らない男は気に留めない。
「そんな犬なんかよりよぉ! この童子をよく見てみろよぉ、こんな格好をしているが実は……」
男は姫君の変装を暴こうとしている。その先を口に出させてはならない。
翠令は承明門の屋根の陰から西に数歩離れた場所に素早く躍り出た。月影の中、歩廊の屋根の上に立つという異様な存在は、紫宸殿前の庭にいる人々によく目立つことだろう。今度こそ下衆男も近衛も自分に気づくはずだ。
案の定、近衛が叫ぶ。
「何者か!」
翠令は弓を構えて見せる。実際に射るつもりはないが、こちらに注意を惹きつけなくてはならない。
近衛が翠令を指さした。
「女武人か! 錦濤の女童と一緒に京に来て、禁裏で近衛舎人に刀傷を負わせ、行方知れずになってた武人気取りの生意気な女!」
近衛も下衆男も翠令に注目している。このまま自分が彼らの気を惹き続けて、その間に姫君がこちらに近寄るためには……。
翠令は怒鳴った。
「いかにも! 錦濤の姫宮の守刀と呼ばれた女武人翠令だ。姫宮の飼い犬を取り返しに参上した!」
近衛はせせら笑う。
「何が取り返しに参上した、だ。お前はここでお縄だ」
翠令は矢を引き絞って威嚇するが、彼らは動じない。
猥談好きの方の男が「知ってるぜえ」と嘲笑交じりに指をさす。
「お前は弓なんか扱えないんだろ? 女武人などと言われているが、矢の一つも射ることが出来ないってみんな知ってるぜぇ。最近になって付け焼刃で練習を始めたばかりだってこと、近衛で知らない奴なんていないぞぉ!」
「うるさい」っと翠令はわざと癇性な声を出し、弓を手から取り落とすような振りをした。
彼らの目には、弓も扱えない女が図星を指されて動揺したと映ったようだ。はははははあ、と男たちは高笑いを響かせる。
その間も白狼は承明門の外から馬に扉を蹴らせていたが、翠令が姿を現したことで、彼らは「恐れるに足りない」と判断したようだった。
「さっきからドスドス扉を叩いているのも、お前の仲間か」
「女とつるむような奴に大したことなどできるもんか」
「待ってろ、直に衛門府の武人が捕らえに来る」
どうせ捕らえられる翠令のことに構っている場合ではないと、猥談好きの男は思い出したらしい。
「そうだ! あんな女武人とやらはどうでもいい! それよりこの童子は……」
男が姫君に視線を向けた。翠令がその男に続きを言わせないように叫ぶ。
「ビャク!」
「わん!」
ビャクが翠令めがけて南に走り出した。童子姿の姫君も弾かれたように走り出す。
「あ。おい!」
近衛の方は、勅命で犬の世話を申し付けられた童子が犬を追うのは当然だとしか思わないようで動かない。
姫君は全力で走る。それは翠令にも分かる。けれども、その足取りはおぼつかない。幼い頃にこの御所にいらした頃は、庭に降りることはおろか、殿上を立ち歩くことも稀だったと梨の典侍は語っていた。白狼や佳卓によれば、錯乱した時に地面を走ることもおありだそうだが……。
──狂乱のままに地を駆けるのと、この場面で走るのとでは心持ちが違うだろう。
今の姫君は分別を失っておられない。自分が手にした関契を外に持ち出さなければならないという使命を十分お分かりだ。その上で、襲い掛かって来る魔の手から逃げなくてはならない。
恐怖と焦りは、心だけでなく身体にも負担となるものだ。東国への歩き慣れない山道の旅で翠令も痛感した。
──もう、姫君の脚は上がっていない
姫君が懸命に脚を前に繰り出そうとしていることはよく分かる。けれど、その逸るお気持ちほどの速さが出ない。男がそんな姫君に残忍な笑みを浮かべながら追いつこうとしている。
男が自分の腕を前に上げたのは、もう少しで姫君の身体を捉えられると思っているからだろう。
翠令は本気で弓を構えた。門の外、馬を操る白狼が怒鳴る。
「翠令! 射る気か?」
「ああ!」
「なんだと⁈」
白狼の声は言外に「出来るのか?」と問うていた。
彼からは、閉じた扉の中の様子が見えない。だが、それでも、姫君があの男に追われている状況だと白狼も分かっている。今まで練習以外に矢を射たことがない翠令が、にもかかわらず、弓矢を使わなければならないということは、それだけ姫君に危険が迫っているということだ。
──つまりは、追う男と追われる姫君の距離はごくわずか。