七十八 翠令、帰京の支度をする

文字数 4,993文字

 その日以降、その命令にそぐわぬ甘い言葉を佳卓(かたく)が口にすることはなくなった。

 一方で、佳卓が真心こめて翠令の身を案じてくれているのもよく分かる。
 翠令の枕許に次から次へと様々な薬を並べてくれるのはもちろん、滋養のある獣の肉を自ら狩りで仕留めて来るほどだ。

 食事の際には必ず傍に座り、翠令の上官の近衛大将であるというのに、甲斐甲斐しく翠令の世話を焼く。

「上手いか? 雉肉も飯もお代わりはまだある。食べるかね?」

 翠令は苦笑いをかみ殺して「お願いします」と頼む。食欲旺盛な様子を見せなければ、佳卓が大袈裟なほど心配してしまうからだ。

 この地で取れる食物は美味で、翠令の食事量は増えていく。そして、自分でも体力が回復してきたと感じる。

「ご覧のとおり、だいぶ身体も本調子を取り戻しております。そろそろ出立しても良いのではないかと思います。あまり遅くなっては……」

 佳卓は目を瞑って息を吐いた。

「……では……十日ほど後というあたりで手配を進めよう」

 佳卓は周到に旅路の支度を整えていく。あちこちに文を書いて早馬で届けさせたし、国司の女(むすめ)が親類を訪ねるという体裁を装って数人の供もつけるように取り計らってくれた。

 翠令は拍子抜けする思いで佳卓に尋ねる。

「国司の女……普通の女君も東国と京の間を旅するのですか?」

「父親が地方の国司になったりしたら、その赴任先について行く場合もあるからね。だが、外を歩き慣れない良家の子女は乗り物を使う。もう少し身分が低ければ徒歩(かち)ということもあるが、それでも足を鍛えてからだ」

 佳卓は呆れた顔を見せた。

「翠令は海育ちで坂道すらろくに歩いた経験もない。それなのにいきなり京から東国まで歩くとは……本当に無茶をする」

「でも、こちらから京に向かう道では、佳卓様が馬を使えるように取り計らって下さいましたし、かなり楽になるでしょう」

「しかし……負担は負担だ」

「私は、確かに膂力は男の武人に劣りますし、坂道に慣れていませんでした。されど、これでも武人の端くれ。並みの女君よりは体力はございます」

 佳卓は「だがね……」と言いかけて、口を噤んだ。

「そうだね……。確かに熱が引いてからの翠令の体力の回復は早い。日ごろの鍛錬の賜物だね」

「佳卓様が薬や肉を下さいましたし。なにくれと世話を焼いてくださったからです」

「そうかね……。それが功を奏したのなら良かった。これからも出立まで間に休養と栄養を十分に取ってくれ」

 佳卓は翠令の身体の心配をするだけでなく、自身が立てた策についても何度も見直しを試みていた。ただ、やはり大枠は変わらない。

「佳卓様の策で実行するのみだと思いますが……」

「うん……。だが……」

「私のことならただ伝言を預かって京に向かうだけのことです。私などよりも、竹の宮の姫君の方のご負担の方が大きい……。むしろ姫君が心配です」

 佳卓がここで思案気に視線を落とした。

「竹の宮の姫君はこの策に乗って下さるだろうか……。ここで翠令と考えてみても仕方ないことではあるが……」

「……」

再び彼が翠令に向けた目には複雑な色がある。

「もしご同意いただけなければ、翠令に姫君を説得してもらうことになる。これも翠令に負担でないかと思う……自分が安全な立場にいるのに他人に危ない真似をさせるのは、心苦しいものだからね」

 それは、暗に佳卓自身を指してもいるのだろう。翠令に特別な任務を背負わせ、単身京の都に旅をさせることが心苦しいのだ。

 だが……。翠令は答えた。

「姫君はお引き受けになると思います」

「ほう?」

「お聞きになった当初は驚かれるでしょう。当初は躊躇われるかもしれません」

 佳卓の策は本当に奇策だ。そして竹の宮の姫君の存在が鍵となる。深窓の姫君、ましてややんごとなき女宮にかようなことをさせるとは誰も思いつくまい。
 姫君の責任は重く、あまりにも奇抜な行動を成し遂げなくてはならない。「自分には到底出来ない」とお思いになられても当然のことではある。

 しかしながら、あの姫君は受諾されると思うのだ。お目にかかったのは一度きりだが、具体的に会話を交わしてそう思う。それは翠令の中で確信に近かった。

「姫君は……ご自身のためだけでなく、白狼のためであり、そして錦濤の姫宮の御為、さらには民のための朝廷を整えるという目的があれば、きっと自らを奮い立たせて挑まれるでしょう」

「……」

「引き受けない理由がご自分の弱さにしかないなど、あの方のお気持ちが許さない──あの方は気位の高い皇女でいらっしゃいます。ご自身の怯懦など必ず退けようとなさるはず……」

「誇り……か……」

 佳卓もしばらく床を見つめてから頷いた。

「うん。白狼が気概のある女君と評価していたからね。白狼が言うのだから確かだろう……」

 白狼の名が出て、佳卓は軽く握った拳を顎に当てる。

「白狼には恨まれるだろうな……。想い人の女君をこうも危険な目に合わせるなどと……。翠令、白狼に会ったらよくよく謝っておいてくれ」

「はい……」

「大切な人が危険を冒しているのに助けてやれないのは……。とても歯痒く、苦しい」

「分かります……」

 自分も姫君に申し訳なく思う。後宮の奥深く、姫君はたった一人で行動を成し遂げなくてはならない。それも、今までどんな女君もしたことのないようなことを……。それを依頼する翠令も姫君に対し、自分に出来ないことを要求することが心苦しい。

 白狼も同じように、いや相手が心から愛している女君だからこそ身を切るように辛いだろう。佳卓の策を聞いたところで白狼にも直接の手出しできず、見守るしかないのだから。

 翠令は俯いた。翠令は自分に向けられる佳卓の気持ちをただの感傷だと切って捨てたが、彼の苦しみは、自分や白狼の抱える辛さと同じものなのだ。

 大局的に見れば佳卓と翠令が恋人として睦みあいたいという気持ちなど些末事だと今でも思う。ただ、どんな大事であろうと、それに携わる一人一人には葛藤や覚悟、苦しみなどが生じているものなのに。自分は彼の心を無碍に扱い、随分と思いやりのないことを言ってしまった……。。

 いよいよ明朝が出立となった夜。

 隣に枕を並べていた佳卓がポツリと翠令に話しかけた。

「少しだけ……貴女の恋人として話をしていいかね?」

 翠令は素直に「はい」と応じた。佳卓はきっと言いたいことの多くを吞み込んできたのだろう。

「お願いだから必ず無事で私の許に戻ってきてくれ。この東国で過ごした何日かが最後などと私には耐えられない……」

「……」

「私は私が嫌いだ。鬼神の如しと過分な評価を頂きながら、出来ることより出来ないことの方が多い不甲斐ない人間だ」

「なれど、こたびの奇計奇策は佳卓様でなければ思いつかないでしょう……」

「思いついただけだ。そして、私はただ自分の思い付きを口に出しただけにすぎない。実行するのは翠令や竹の宮の姫君であって私ではない」

 佳卓は片肘をついて横向きに翠令に身を向けた。

「女君に負担をかけるのは、男として忸怩たるものがある。翠令と竹の宮の姫君だけじゃない。錦濤の姫宮にも後々影響するだろう……」

「姫宮もですか?」

「翠令が高熱で死にかけてまで東国に使者として赴き、そして竹の宮の姫君が前代未聞の行動を取って下さる。続いて私が兵を率いて東国から都に上る。犠牲は最小限にするつもりだが、全く血が流れないわけにはいくまい」

「確かに姫宮は悲しまれるでしょう……」

 騎射を見た時、弓は人を殺める道具なのだと聞いて姫宮はかなり怯えていらっしゃった。

「それもこれも錦濤の姫宮こそ東宮に相応しいと、多くの人が考えるからだ。姫宮はそれだけの期待を背負うことになる。恩知らずで無神経な方ならいざ知らず、姫宮は思いやりある方だ。姫宮にとっては我らの期待は重圧となり、終生、何らかの負い目をお感じになるだろう」

 それはおいたわしいこと……と翠令は言いかけて止めた。

「いいえ……。姫宮は……いずれ大人にならねばならないことは良くお分かりです。佳卓様についても『子どもには分からないだろうって考える大人は嫌。佳卓は期待してくれている』とおっしゃっておられた……姫宮は……ご自分の器量に見合った働きをこれから世のためになす運命なのだと、そのお覚悟はお持ちだと思います」

 大学寮へのお忍びの外出で朱雀門をご覧になった時、その巨大さが帝位の重さを示しているとお感じになられた方だ。ご自身のお立場は理解されている。

「ああ、そうだったね……」

「竹の宮の姫君も、これを成し遂げれば随分と自信をつけられると思います。白狼を守り、姫宮を守り、正しい朝廷を守って民を守る。もう弱々しい存在ではなく、皇女としての役割を果たしたことを誇りにお思いになるでしょう」

 私とて……翠令は続けた。

「佳卓様から策を得ることができました。御所を女装して脱出し、竹の宮の姫君や佳卓様の兄上の期待を背に東国まで旅をし、そして使者として役に立つことができて、とても誇らしいと感じています」

「だが……」

「佳卓様には佳卓様の役割があります。東国から兵を集めるのは、佳卓様個人がこれまで築いてきた信頼関係に基づくものです。佳卓様でなければできません」

「……」

「皆が自分に出来る役割を分担するのです。策を立てて兵を揃えるのは佳卓様、関契を持ち出すのは竹の宮の姫君、この両者の使者に立つのがこの翠令。後の世を担うのは姫宮。白狼にも、竹の宮の姫君の今後の療養を支える役割がある。みなそれぞれの役割を果たして生きており、そこに生きる甲斐があります。佳卓様が他の人間からそれを取り上げてまで何もかもを引き受けることはありません」

「取り上げるというか……」

 翠令は冗談めいた口調をつくった。

「特に白狼です。竹の宮の姫君ほどの美女を恋人にするのはかなりの役得ですが、ひょっとして佳卓様も白狼にとって代わりたいですか?」

「なんだって?」

「私のような無骨な女より、姫君のような嫋やかな美女の方が気にかかるものですか?」

「何を言う」

「あのような佳人ではありませんが、佳卓様は私で我慢なさってください」

 佳卓は腕を伸ばして翠令の髪を一房手に取り、口づける。

「私にとって女君は翠令だけだよ。だから……今貴女の傍に行っても許してくれるかね?」

「ええ……」

 佳卓は翠令と同じかけ布に入り、翠令に腕を回して首筋に口づける。

「貴女が好きだ……」

 翠令も彼の髪の中に指を差し入れて抱きしめた。

「好きです……」

「貴女を失うことになってしまったら……私はこんな策を立てた私自身をきっと許せない。今まで以上に自分を嫌い、そして呪うだろう」

 翠令はぐっと指先に力を入れる。

「そんなこと……そんなことは私がさせません!」

「翠令……」

「要は京で佳卓様の策を成功させればいいのでしょう? 私は私の役割を果たしますし、姫君もそうなさる。佳卓様は安心してご自分の役割に専念なさっていて下さい」

「女君達の気力と体力と、何より胆力に縋るしかない。こんな無力な近衛大将を許して欲しい」

「もちろんです」

 そう言うが早いか翠令は、佳卓の頭を抱き寄せ自分から佳卓に口づけた。そんな振る舞いは初めてで、佳卓が少し驚いた顔をする。

「貴方が貴方をこれ以上嫌いにならないよう、私は無事に戻って参ります」

「頼むよ……。私は……翠令、貴女に『おやすみなさいまし』と命じて貰わないと休めないんだ……」

 そう言いながら佳卓は、指で翠令の顎を軽く支えて口づけを返そうとする。後ろで括りそびれた髪が零れ、その中の端正な男の顔もまた苦しそうに歪んでいた。
 その乱れる気持ちを封じるように瞳を閉じて翠令に顔を寄せて来た佳卓だったが、ふとその動きを止めた。

「いや……今はやめておこう。この口づけは次に無事に遭えた時のために取って置く」

「……」

「今度会ったら、貴女の骨が折れるほど強く抱きしめて、息も詰まるほど本気で貴女に口づける。いいかね?」

 翠令は静かに「はい……」と答えた。そして、軽く微笑みをつくって言い添える。

「楽しみにしております」

 佳卓は男にしては細く長い指を軽く翠令の唇に当てた。その目は縋るほど切羽詰まった哀願の色が明確で、翠令は胸の詰まる思いがする。

 それでも佳卓の口から出たのはいかにも彼らしい台詞だった。

「覚えていろ。思いっきり濃厚なやつを食らわせてやるから」


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