二十七 翠令、佳卓の昔の恋を聞く(一)

文字数 3,719文字

 佳卓は軽蔑されても仕方ない話だと自覚しているようで苦い表情ではあった。しかし、だからといって説明を省きはしなかった。

「矛盾しているように聞こえるかもしれないが、とことん自己中心的で不実な男の頭の中なぞこんなものだよ。責任は負わずに、自分に心地よい夢想には浸っていたい。鄙の女は都の洗練された貴公子と恋に落ちたら、そのままずっとその男を慕って待っているものと何とはなしに思いこんでいた……馬鹿だね、全く」

「……」

 無言のまま、翠令は円偉を連想していた。鄙に出かけては「よい見物ができた」と悦に入る円偉の態度と、昔話の中の佳卓はどこか共通するものがある。都で高い地位にある人間が、遠い鄙の人々に都合の良い幻影を押し付けているという点で……。

 佳卓が抱えていた燕弓の弦をぴいんと弾いた。

「翠令を幻滅させてしまって済まないね。だが、私はこの程度の人間なのだよ」

 佳卓は美貌と能力に恵まれ、癖は強いものの器の大きな人物だと思う。ただ、当然と言えば当然だが、少年の頃から完璧な人物だったわけではなかったのだ……。

「その女君はどうされました?」

 その後も佳卓は東国に向かっている。再会する機会はあっただろう。

「その後、東国では大雨と日照りを二回繰り返した。作物の実りが悪く、朝廷から求められる税の負担が重かった。にもかかわらず先帝は税を軽くするなどちっとも考えない。それで東国の複数箇所で反乱が起きてね。その鎮圧のためにまた趙元の父が出向くことになった。今度は息子の趙元も一緒だ」

「趙元様の初陣ですか?」

「ああ、趙元の武芸の腕は当時からしっかりしていた。実力を見込まれての起用だ。ああ、私の乳兄弟の朗風も同行した。こちらは左大臣家の坊ちゃんのお守りだね。そう、そのお坊ちゃんは例の娘との逢瀬に浮かれていたものでね」

「無事にお会いになれたのですか?」

「会うには会えたが状況が大きく変わっていた。まず、彼女の家が零落していた。当時の東国には溜池も少なく灌漑設備も簡単なものしかなくてね。治水に失敗すると一気に人々の暮らしが困窮する。彼女のいた辺りは特に甚だしかった」

「……」

「そして民の支持を失った彼女の父は、家臣に背かれ弑された」

 翠令は息を呑む。

「それは随分と酷なことが起きたものですね……。娘の方は……?」

「領内で庇護を求めてさすらったが味方はおらず、山向こうの別の豪族に助けを求めた。そしてその豪族の長に妻に望まれた」

 佳卓は目を瞑って口の端を上げた。

「浅はかな都人なら、女が恋人に操を立て通すと想像するところだ……。だが、幸いなことに、彼女は自分の幸せを求めて生きていてくれた。私が都でいつまで経っても子どものままでいたのに対し、苦境にあって彼女は現実をしたたかに生きる大人になっていたのだね」

「では、今はお幸せに……」

「いや、土砂崩れや旱魃で荒れ果てた土地を逃げ回るのは大変だったようで、性質(たち)の悪い病に侵されていた。子を一人産むことはできたが、産後の肥立ちが悪くてね……。私が夫君の邸を訪れた時にはほとんど部屋で寝たきりだった」

「訪問なさったのですか?」

 翠令には招かれざる客だとしか思えないが……。

「まあ、まともな人間なら気まずくて足を運べまいが……。私には左大臣家の者だという驕りがあり、かの娘は今でも私に会いたがっているという自惚れがあったのでね」

「……」

「夫君は三十歳の手前くらいだったろうか。逞しい体で精悍な顔つきの男だった。話してみると思慮の深さもうかがえた。私に対して(へりくだ)りもしないが礼を失するわけでもなく、客人として遇してくれた。そして、私に病床の妻を見舞って欲しいと依頼した」

「妻と、そのう……過去に想いを交わした男性を会わせようとしたのですか?」

「彼も妻の病がもう癒えることがないと悟っていたようだ。彼女は少女の頃に憧れていた京風を懐かしんでいて……。妻の願いを聞いてやりたかったのだろう。もう骨と皮ほどに瘦せ衰えていたから……」

「なんの病だったのです?」

「おそらく……逃亡生活では文字通り泥水をすするような日々だったそうだから、悪い虫が体内に住み着いたのではないだろうか」

 佳卓は暗く沈んだ声で続けた。

「彼女の姿は衝撃だった。私はそれまで病人らしい病人を見たことが無かった。病人が出ても左大臣家の貴公子からは遠ざけられてしまうのが常だからね。貴人の目に入れるべきではないということでもあるし、悪霊の仕業なら憑りつかれても困るから。だから重病人を見慣れていなかった」

「……」

「それに、彼女の以前のふっくらした姿からの落差も見ていて辛かった。手は骨と筋だけになり、頬がこけて歯の形が皮膚越しに分かる口許、ぎょろりと残った瞳……それらがとても怖ろしかった」

 佳卓は燕弓を撫でた。

「彼女は病の床から燕弓を聞きたがった。それが望みならと私は精一杯弾いてあげたよ。だが……惨めだった。彼女が、じゃない。そんな瀕死の病人のために楽を奏でることしかできない非力な自分が、だ」

 それにひきかえ、と佳卓はその夫を褒めた。

「彼は理想的な領主であり夫だった。領民からも妻からも慕われているのも納得のいく人物だ。水害に会わないよう堤を築く工事を率いていたんだが、口で指図するだけでなく、自分も衣を脱いで土を担いでいた。私も手伝ってみたが一日で身体が動かなくなったよ」

 翠令の脳裏にもひょろりとした貴族の少年が息を切らしてへたり込む様子が思い浮かぶ。

「妻のためなら、評判の呪い師を自ら馬を走らせて遠い里から連れて来たり、滋養の付くための食べ物を集めたり手を尽くしていた」

 佳卓は弓を少し持ち上げた。

「獣の肉が体に良いからと狩りにも出ていてね。私も少しでも役に立ちたくて一緒に行ったが……。彼が次々獲物をしとめるのに、私は何一つ狩ることができなかった」

「騎射があれほどお上手なのに?」

「その当時が下手だったから猛練習して、今ようやく少しばかり上手くなったんだよ。翠令も鍛錬を積めば、いずれ私くらいには出来るようになるさ」

 翠令はそれには苦笑を返すだけにとどめた。

 彼は話を元に戻す。

「『自分の武芸の腕など大したことないのだ』と、このときやっと分かった。そして反乱軍との戦いで死にかけて痛感した」

「危ない目に遭われたのですか?」

「前線に立たなくても済むよう味方はお膳立てしてくれたが、敵はそんなことはお構いなしだからね。思ったより近くにいた敵に射かけられた矢が頬を掠めて……それだけで背筋が凍る思いがして動きを止めてしまった。そこを歩兵に斬りかかられて、腿の辺りをやられてね。一緒に戦陣に出ていた、彼女の夫君が手勢と共に駆けつけてくれたので助かったが……」

「……」

「私は気を失ってしまい、次に目を覚ましたのも夫君の邸宅内だった。備蓄していた薬草で私の傷を手当てしてくれていたんだ。いやあ、趙元と朗風には心配をかけた」

 佳卓はほろ苦い顔をする。

「趙元には『京での鍛錬で慢心しているからだ。周囲が手加減していたのも分かっていなかったのか』と枕許で怒鳴られたし、朗風には『乳兄弟が死んだらと思うと身を切られるように辛い』とさめざめと泣かれた」

「あの……日頃温厚な趙元様が怒鳴って、朗風様が泣いたんですか?」

 翠令の知る彼らの為人からはかなり意外な話だ。

「想像できないかい? まあ、この時からずっと私は『趙元に怒鳴られるまい、朗風を泣かせまい』と頑張ってきたのでね」

「ええ、今の趙元様は佳卓様を尊崇しているとまでおっしゃっていました」

「そうかい。それは良いことを聞いた。努力した甲斐があった」

「その……女君のご夫君は今どうされているのですか?」

「元気だよ。東国に赴いた際には出来るだけ彼を訪ねるようにしている。子どもたちも大きくなってきたな」

「子ども

? あれからその女君は下のお子さんも出産されたのですか?」

 佳卓は静かに顔を曇らせた。

「いや……。後添いだよ。彼女は程なく亡くなってしまったから」

「……申し訳ありません」

「いや、ちょうど彼女が危篤になった時のことを話すところだった。同じ戦陣の、半月後のことだったか。夫君の元に彼女の容体が悪いと知らせが入った。しかし、私のような頼りない若造を置いて戦陣を離れられないと彼は思っていたらしい」

 佳卓は一つ大きな呼吸をした。

「だから、私は趙元と朗風に誠心誠意言葉を尽くして頼み込んだ。『夫君を妻のもとに帰してやって欲しい』と。だが彼を手放すのは非常に危険だった。地の利も相手の戦法も知り尽くした男なしで戦うのに趙元も朗風も反対した。それも当然だ。私だけでなく彼らを含む全員を死の淵に立たせかねない無理な話であったからね。そこをどうあっても、と頼み込んだ」

「それは叶ったのですか? 夫君は女君の元に駆けつけることができたのですか?」

「ああ。夫君は寡黙でも実のある男で、私だけでなく趙元も朗風も好感を抱いていたからね。誰もが愛妻の許に返してやりたいと思っていた」

 それもそうであろうが、佳卓も熱心に説き伏せたのだろう。しかし……頼りになる地元出身の武将を欠いた状態で戦に臨むのは、かなり危険な賭けであったに違いない。

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