四 翠令、清涼殿に上がりそこねる

文字数 5,224文字

 姫宮の一行は、近衛大将佳卓(かたく)の手勢に守られながら京の都に到着した。

 壮麗な羅城門の辺りに新たに装束を整えた近衛たちが待ち構えており、山崎の津から歩いて埃まみれの武人達と交代する。そして姫宮もここで牛車を乗り換えなさった。車輪にまで蒔絵の施された豪奢な糸毛車だ。

 先頭を歩く佳卓が何か号令をかけて、いよいよ姫宮達は朱雀大路を宮城に向けて北上する。

 春のぼやけた陽光の中、鮮やかに彩り豊かな近衛達が整然と隊列を組んで歩いていく様は壮観だ。彼らに前後を守られた格調高い車も車輪を回しながら前へ進む。あちこちの金の装飾が、ぎしぎしと揺れるたびに周りの光を集めてはきらりきらりと跳ね返し、眩しいほどに華麗な行列だった。

 けれども、先程から姫宮の車の後ろを歩いている翠令は苦笑を禁じ得ない。

 ――当の姫宮はいつも通りでいらっしゃることだ

 窓がない糸毛車。その後方の簾がもぞもぞと動く。好奇心旺盛な姫宮が隙間からなんとかして外をご覧になろうとしてらっしゃるに違いない。

 翠令は姫宮を微笑ましく思う一方で、初めて見る都の光景にため息をつく。

 ――姫宮は、この光景を面白いとお感じだろうか……?

 内裏に向かう朱雀大路は呆気ないほど殺風景だ。大路は広いものと翠令も承知しているが、こうもだだっぴろいと道というより広場にいるような感じがする。

 その両端には単調な築地塀が延々と続くばかりだ。都では朱雀大路に面して戸口を開けてはならないことになっており、門というものがない。

 見物の人々は大勢いる。ただ、こちらを珍しそうに眺めている以外に何もしないでいる人々の姿にあまり生活感はない。ここで、どのような人々がどのように暮らしているのか、その息遣いを感じることができない。

 大路の両端に柳の木が植えられているのが目につく。その萌え出でた新緑とそよ風になびくさまは多少目を楽しませてくれる。けれども、それらがポツンポツンと等間隔で佇み並木をなしていることに気づいた翠令は、ふうと溜息をついた。この街が人工的に整えられたものであることを、念押しされた気がしたからだった。

 羅城門の外では田畑の畦道に菜の花が野放図に咲いていた。その風景の方が、よほど春らしい華やぎがあっただろう。

 ――これから姫宮はここでお暮しになるのか……。

 翠令は心配になった。あの、街全体が商人たちの活気と喧騒に満ちていた錦濤(きんとう)とはあまりにも雰囲気が違う。

 姫宮の行列は朱塗りの巨大な朱雀門を抜けて大内裏に入って行く。見渡す限りの甍の波は降り注ぐ陽光を静かに吸い込むだけで、錦濤港の波のような光のきらめきも動きもない。
 姫宮の行列に向かってじっと礼をとる人々もまた、厳めしい装束に身を包んだ人形が並んでいるかのようだ。
 何もかもが翠令の目にはよそよそしく見えてしまう。

 内裏に入る手前でいったん列が止まった。ここから先、姫宮がお乗りになるのは輦車(てぐるま)となる。

 先頭から佳卓が歩み寄り、牛車から降りられた姫宮の許に膝をついて申し上げた。

「帝の仰せにございます。姫宮はこのまま帝の御座所、清涼殿にお出でなさいますよう」

 姫宮はきょとんと佳卓を見つめて質問なさる。

「……今から? ええと……今日は私がこれから住むところに行くんじゃなかったかしら?」

 姫宮は後宮の昭陽舎(しょうようしゃ)を東宮御所としてお住まいになる。今日は直接そこに入り、帝とお会いするのは後日のことになっていたはずだった。

「帝は体調に波がおありですが、今日はご気分が良いとか。前々から是非にお会いしたいとお望みでしたから、今すぐにでもお会いになりたいのでしょう」

「……」

 いかに姫宮が物怖じしないご性格とは言え、帝のお召しと伺うとさすがに緊張した顔で黙ってしまわれる。

 佳卓が微笑んだ。

「非公式なものです。あまり構える必要はございません」

 佳卓は立ち上がると、今度は姫宮の傍の翠令を見た。

「翠令殿は少し女らしくした方がいいね」

 翠令は内心むかっとしつつ、ぶっきらぼうに答える。

「女の身といえども私は武人でございます」

 自分より身分の低い翠令に口答えされた形になるが、近衛大将は特段気を悪くした風もなくさらりと受け流す。

「貴女の強みは女君であることだよ。姫宮の傍に居たいなら……」

 佳卓は話を続けようとしたが、ここで、近衛舎人の一人が佳卓に駆け寄ってきて何かを耳打ちした。一通り聞き終えた彼は眉間に皺を寄せる。何か火急の用事ができたらしい。

「話の途中で済まないね。どうも山崎で捕らえた賊のことで、私が呼ばれているようだ。あの者については色んな役所に話を通さなければならなくてね。急ぐゆえ、私はここで失礼する」

「……」

 彼は翠令の返事も待たずに立ち去ってしまった。

 佳卓に代わり、山崎津で彼の側にいた男が先導役を務め、姫宮は帝のおわす清涼殿に到着した。

 姫宮がその殿上にお進みになる。付き添いの乳母もまた恐縮しながらそれに続く。
 だが、翠令も当然のようについて行こうとしたとき、そこに控えていた官服の男が驚いてそれを咎めた。

「これ! お前までが殿上にあがるなど……。お前はただの従者であろう? お前の身分では地から床に昇ってはならぬ」

 乳母が「へっ?」と奇妙な声を出した。

「身分とおっしゃるなら私は……? 私とてたいした身分があるわけじゃあございませんが……」

 官人は当惑した顔をした。

「貴女はお側に仕える女房だから構わぬが……。いや、その従者も女なのは知っている。姫宮が錦濤で女の武人を召し抱えられていらっしゃることは有名だ。だがお前は女らしくない。女房ではなく従者であるなら外で控えているべきだろう」

 佳卓の「女らしくした方がいい」という忠告の意味はこれか……と翠令は思い至る。

 姫宮が官人におっしゃった。

「翠令はいつも私と一緒に居るわ。殿上にもついてきて欲しいの」

 しかし官人も頑として譲らない。

「ただの従者を御所の殿上に昇らせるわけには参りませぬ」

「でも……」

 男の口調が抑揚のない、冷ややかなものに変わる。

「錦濤のような鄙ではともかく、ここは禁裏でございますれば」

 これ以上揉めていると姫宮が無作法と思われてしまう。そう思った翠令は、自分から身を引くことにした。

「分かり申した。私は武人ゆえ地の上にとどまりましょう。だが、せめて側近くにて伺候したい」

 官人は渋い顔で少し思案し、「ならば庭にて侍るが良い」と許可を出した。

 庭に先回りした翠令は地に膝をついて清涼殿を見上げた。清涼殿は檜皮葺の堂々たる御殿だが、その屋根の描く曲線から優美な印象を受ける。

 帝の住まいは、建物まで気品のあることだと翠令が眺めているうちに、姫宮も母屋にお入りになられたらしい。御簾の中から貴人達の会話が漏れ出てくる。

 中でも姫宮のお声は高くて澄んでいらっしゃるので、庭の翠令にもところどころ聞き取れる。

「私は帝の従弟の子どもになるんですね?」「まあ……そう言っていただけると嬉しいです!」「それは……大丈夫でいらっしゃるの?」などなどと、いつも通りの明るいお声に翠令は安堵する。

 帝のお声は聞き取れないが、和やかな雰囲気は伝わってくる。
 ごくたまに、低く太い男の声が混じるが、誰か大人の貴族でも同席しているのだろう。

 姫宮の「そうなさって! ぜひ!」というひときわ弾んだお声が響く。そして大人の男の「では、私が見て参りましょう」と言う声が聞こえた。

 母屋から人の気配が(ひさし)まで近寄ってくる。

 翠令が膝をついていた場所の近くの御簾がめくられ、壮年の頃の落ち着いた風貌の男が現れた。翠令をちらりと見てその存在を確かめると、そのまま御簾を高く掲げ再び屋内に首をめぐらせる。

 ぱたぱたと足音を立て、姫宮が奥から御簾をかいくぐり廂を抜け、簀子縁(すのこえん)にまで走り寄って来られた。

「翠令! 帝が会いたいっておっしゃってるわ!」

 翠令の頭は一瞬白くなる。錦濤の商家生まれの自分が帝の拝謁を賜るなど、畏れ多くて今まで考えたこともない。

 暗い建物の陰から、華奢な体格の男君が廂に姿を現した。ほとんど少年とも言ってよいほど若い方でいらした。ほっそりとした顔立ちは良く言えば大人しやかで、悪く言えば生気が乏しい。
 いや、帝のお顔など直視しては無礼にあたる。翠令は慌てて地面に平伏した。

 簀子縁の上から、男君にしてはやや細めのお声が降ってくる。ご自身も弱々しい方であられるが、それでも、より弱い者を庇う色を含ませておいでだ。

「美しい女君ではないか。女君が地面に顔をつけているのはかわいそうだ」

「顔をお上げ」とのお言葉に翠令が顔を上げると、腰を下ろした帝の隣に姫宮もちゃっかりとお座りになる。持ち前の明るいご気性ですっかり打ち解けてしまわれたらしい。

「翠令は私の守刀なんです。殿上に上げても構いませんか」

「ええ、東宮の好きになさい」

 その言葉を受けて姫宮が翠令に目をお向けになる。その視線に「やったあ!」という声が聞こえてきそうな気がした。

 帝は姫宮に対してしっとりとお話された。

「私の父帝のせいで東宮には大変な苦労をさせてしまった。貴女の父上にもお詫びしたい」

 帝は後方に控えていた先ほどの壮年の男にちらりと視線を向けてから続けられる。

「父帝は私のことは放ったらかしだったからね。この円偉(えんい)に書物を講じてもらって私は大きくなった。西の大国の燕の書物には、天子の守るべき道が説かれている。それに照らし合わせると……わが父ながら、先の帝のなさりようはあまりにも非道であった……」

 帝は再度「済まなかったね」と隣に座る姫宮を見つめて心の籠った声をお掛けになった。

「せめて私の御代では徳ある天子として振る舞い、貴女に次代の帝をお任せしたい」

 あら、と姫宮は小首をかしげる。

「帝はお若くていらっしゃるわ。ずっとお元気で帝でいらして下さい」

「いや、私は体が丈夫ではない。また、あのような父を持つ者として玉座にあるのはどこか心苦しいのだよ。貴女がもう少し大きくなられたら位を譲って、世のために祈りを捧げる日々を送りたい……」

 そう語る年若い帝は、その年齢で既に人生に疲れてしまった貌をしていらした。

「……」

 十歳の少女に「世捨て人になりたい」という願いなど理解できるはずもなく、姫宮は戸惑った顔で黙ってしまわれる。帝も「詮のないことを言ったね」と苦笑された。

 話題を変えるように、帝は姫宮にお尋ねになった。

「東宮、貴女は勉学がお好きでいらっしゃるか?」

 この問いには姫宮が即答なさる。

「はい!」

「それは良い。燕では優れた学者が天道や徳、仁政についての論を重ねている。その蓄積は書籍となって海を渡り、この国にももたらされている。ここにいる円偉は非常にこれらに詳しい。彼からよく学ぶといい」

 帝の背後に座していた男が深く頭を下げた。改めて見ると、なるほど威厳のある理知的な風貌だ。

 翠令は武人なので佳卓の名を聞くことが多いが、その佳卓と並ぶ優れた方がいるとは聞いている。「文官にその人あり」と謳われ、武人と文人、それぞれの分野で傑出したこの二人が双璧をなして朝廷を支えているという。

 帝がおっしゃる。

「円偉は右大臣家の者でね」

「あら、そうなのですか」

 彼に視線を向けた姫宮へ、円偉が申し上げる。

「さようではございますが、私は嫡流と程遠い親戚に過ぎません」

 帝がさらにお続けになった。

「大学寮にも普通に学生として入ったのだったね。だが、円偉は燕語に巧みで、どんな難解な書籍をも読みこなせる抜きんでた学才の持ち主だった。前代未聞の成績を上げたゆえ、右大臣が乞うようにして自分の猶子としたのだから、円偉もいずれ次の右大臣を務めるものと私は期待しているよ」

 円偉は「恐れ入ります」と帝に深々と首を垂れた。

 その様を見た帝がさらに人柄を賞賛する。

「円偉は人格も円満でね。学才と人柄両方を備えているから、誰も円偉の立身出世に異論を唱えない。武人の佳卓と並んで、病弱で頼りない私のもとに、頼もしい臣下が揃ってくれて有難く思っているよ。東宮についても良き支えとなるだろう」

 姫宮がちょこんと円偉に会釈なさった。主の姫宮に合わせて翠令も庭から一礼する。

 整った顔に温厚そうな笑みを浮かべて円偉が礼を返す。確かに、帝のおっしゃるとおり円満な方なのだろうと翠令も思う。頭脳明晰な人物はえてして性格も尖りがちだが、円偉はそうではならしい。

 ふう、と翠令は小さなため息を吐いた。あの佳卓様とは随分と違う。佳卓が掴みどころなく鋭利な刃のような人物であるのとは対照的と言っていい。佳卓は武官であるからああいう性格でも仕方ないのかもしれないが……。

 佳卓と円偉。二人の傑物。
 このように並び称されていては、二人はさぞ互いを意識し、そして敵愾心を持っているのではないか――なんとなく翠令はそう思い込んでいた。

 しかし、そんな翠令にとってかなり意外なことを円偉は語り始めた。

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