三十二 翠令、白狼の噂を聞く(一)

文字数 6,149文字

 人々が立ち去った後、姫宮は真っ先に翠令を近くにお呼びになった。

「ごめんなさい、翠令。私のせいでとても叱られてしまうのね。ごめんなさい」

 翠令は出来るだけ明るい声を出した。

「大丈夫でございますとも。佳卓様は立場上、強い口調でおっしゃらねばならなかっただけです。処分につきましても何かお考えがございましょう」

「でも、謹慎だなんて……。翠令が私の傍にいなくなると……心細いわ……」

「姫宮……」

 それはそうだった。今さっき、この京の朝廷が姫宮に決して温かくはないと思い知らされたばかりだ。こんな時にいつもそばにいる翠令を手放すのはたいそうご不安に違いない。翠令とてこういうときこそお傍にいて安心して頂き、そして明るい気持ちを取り戻していただきたいと願うものを……。

 翠令は夕刻に左近衛府を訪れた。部屋の衝立の向こう、佳卓はいつも通り執務机で書類を顔の前に持ち上げて眺めていた。

「やあ、翠令」

 隙間時間に眺めていただけらしいその書類を、佳卓ははらりと机に軽く放った。右肘を卓につき、指先を軽くを顎に添えて彼は真正面に立つ翠令を見上げる。

 翠令はその机の前で項垂れた。

「申し訳ありません……」

「まあね……今回は翠令のその直情径行な所が悪く出たね」

 あんなことがあったというのに、そしてその時の佳卓は麾下を叱責する上官そのものであったのに、今の佳卓は常日頃のどこか掴みどころのない様子で淡々と答える。

 隣から朗風の声がした。

「またやったんですねえ、翠令は」

 朗風と並んで右大将趙元も立っていた。

「山崎津で佳卓様に刀を突きつけて、次は白狼の件で左近衛に怒鳴り込んで、今日は朝臣たちの合議に乗り込んで喧嘩を売ろうとしたんだって? 本当に翠令は血気盛んだなあ」

「……あの……? どうしてお二人ともここに?」

 趙元が少し眉を(ひそ)めた。

「我々の用件は別件だ。少し気になることがあって、佳卓様に会いに来たんだ」

 朗風も言い添える。

「私の方もその件で……」

「……?」

 朗風が面白そうに言う。

「まあ、こちらの話は一通り済みましてね。で、その後は今日の翠令の話を佳卓様から聞いてたんですよ。本当に翠令は度胸があるというか……。ほら……」

 朗風が視線を連子窓(れんじまど)の外に向けた。

「翠令の蛮勇にびっくりして空まで曇ってきましたよ。一雨来るかもしれませんね」

 確かに夕方が近づくにつれ、雲が垂れ込めるようになった。日中のうだるような暑気を払うように涼風が立ち、それは室内にもするりと入り込んで来る。この気温の急激な下降は確かに夕立の前兆かもしれない。

 趙元が苦笑を浮かべる。

「涼しくなったところで、翠令も頭を冷やすことだ」

「はあ……」

 卓に向かって座る佳卓が翠令に声を掛けた。

「そうだね。当面の間、翠令には冷静になるのに専念してもらおうか」

「……それは!」

 佳卓は男にしては細くて長い指を頬に添わせたまま、こともなげに言い捨てる。

「まあ、翠令は一月の謹慎期間中はおとなしくしておくことだね」

「その謹慎ですが!」

 翠令は勢い込んで前のめりで佳卓の机に両手をついた。

「姫宮はとても動揺なされておいでです。このような時こそ私がお傍にいて差し上げたい。姫宮が心細くていらっしゃるのを知っていて、私一人でどう過ごせとおっしゃるのですか!」

「部屋で大人しくしていればいいじゃないか。それが謹慎なのだから」

「な……」

 佳卓に正面から話をしても無駄だ。では切り口を変えよう。

「そもそも私はどこで謹慎することになるのでしょうか? 私は普段から昭陽舎(しょうようしゃ)の姫宮の側近くで寝起きしておりますのに……」

「だから、そこに居ればいいじゃないか」

「は?」

 佳卓はしてやったりという笑みを浮かべる。

「昭陽舎の自分の局でこれまでどおり寝起きをおし。同じ建物に居るんだから、そりゃたまたま姫宮と顔を合わせることもあるかもしれないがね」

 つまりは、翠令の謹慎は有名無実なものに過ぎないということだ。

「佳卓様!」

 翠令は感謝の言葉を続けようとしたが、照れ臭いのか何なのか、佳卓はその隙を与えない。

「それとも何かね? 翠令は私の知らない間に通う男君でもできたかね? 男君によっては女君を自邸に住まわせることもあるが、翠令はその男と暮らしていたりするのかね?」

「まさか……」

「朗風によれば恋文を何人かから受け取ったそうじゃないか」

「は……? ええ、まあ……。何故朗風様がそんなことを……」

 朗風が笑う。

「私は部下の面倒見が良いんですよ。で。よく一緒に街の飲み屋で酒を飲んでるんです。だから情報は自然と集まるんですよ? 翠令のような美人の同僚が出来て我こそはと文を出した奴が……ええと……あいつと、それからあいつと……」

 そう言いながら朗風は指を立てて数え始める。

「……」

 確かにその者達から文は貰ったが……。

 佳卓が真顔で翠令に指を突きつけた。

「今はまだ翠令は誰にも返事をしていないそうだね。もし誰かに返事をする気なら私たちに相談するように。翠令に相応しい男かどうか調べてやるから」

「はあ……」

 貴方以外に誰とも添う気はない、とは翠令には言えないのだった。

 趙元が肩を竦める。

「佳卓様が認める男なんてそうそういないでしょうに……」

 佳卓が今度は腕を組んで椅子の背に凭れ、ふんっと鼻息を立てる。

「それでも翠令の相手はそれなりの男でなければ、私は納得しない」

「何故佳卓様が納得する必要が……」

 そう言いかけた翠令を朗風が遮った。

「そうですよねえ。まあ、翠令の相手は我々が吟味すればいいですし、それは先の話です。それよりも問題なのは白狼ですよ」

 翠令は意外な名前に思わず聞き返す。

「白狼?」

「そうなんですよ、あいつ、竹の宮と……あ……」

 佳卓が片手を上げていた。

「私が説明する。今はまだ噂だけだ」

 翠令は佳卓に問うた。

「白狼がどうかしたのですか?」

 佳卓は机に肘をつき片手の拳に顎を当てた。

「竹の宮の姫君と情を通じている──そう噂されている」

「は?」

 いったい何度、翠令は佳卓に「は?」と問い返したことだろう。また何か悪い冗談か何かなのだろうか。

「お戯れをおっしゃって……」

「私が戯れている訳じゃない。というか、私にも事情が分からない。私に知りえることはそのような噂があるということだけだ。朗風は酒場で飲んでいた部下から聞いたそうだな?」

「ええ。翠令みたいに後宮に住んでる武人なんていません。近衛府や衛門府で働く武人は地方から出て来て諸司廚町を宿舎としています。そこでみんな顔なじみになるんですよ。で、伝え聞いたところによると知り合いの知り合いの恋仲の女の姉が竹の宮で女房勤めをしているそうで……」

「はあ……」

「そこが出どころの噂では、白狼が姫君を誑かしたことになってるんです」

 趙元も口を開いた。

「私の耳に入った話も似たようなものだ。やはりこの情報も出どころは竹の宮の女房だそうで……。内容は『白狼と姫君が夜な夜な抱き合っていらっしゃる』というものだ。それを聞いたある貴族が私の親戚でな。それで私に注進に及んだんだ。私は白狼の直属の上司だから噂が本当なら私にも累が及ぶと思ったんだろう」

 佳卓が息を吐いた。

「つまり、衛門督(えもんのかみ)と右大将のそれぞれに別の経路で耳に入るほど噂は広まっているということだ」

 翠令は首を傾げざるを得ない。

「白狼と……竹の宮の姫君が……ですか?」

「白狼と竹の宮の身分差を考えると、確かに人の耳を惹きつける醜聞だ。趙元の縁者も懸念したように上官の監督不行き届きも問われることになるかもしれない」

「……」

 元野盗の白狼と、比類なき高貴な姫君。この二人で何が起こるかなど全く想像がつかないし、それがどんな波紋を広げるのかも翠令には考えが及ばない。

 だが、朗風も趙元も、そして佳卓も皆、渋い顔をして考え込んでいる。

「こんな噂が立ったのが今の時機というのが最悪だ。貴族の間にまで噂が出回っているとなると、考えなくてはならないことが一つ増える」

「一つ増える?」

「おそらくこの話は円偉殿の耳にも入ってしまう」

 円偉──。

 佳卓がふっと首を上げて窓の外を見上げた。つられて翠令も同じ空を見る。曇天の色はますます濃くなり、今にも雨粒が空から零れてきそうだった。

 視線を皆に戻した佳卓はこめかみを指先で押さえる。

「今日の昭陽舎の合議では、円偉殿は相当気分を害しているだろう。御年十歳の姫宮の言動にあまり目くじらを立てたくないが、あれは……まずい」

「……」

「円偉殿は普段は温厚な方だが……。どんな人間にもこれだけは言われたくないということがある。『円偉が民に無関心だ』という姫宮のお言葉は、円偉殿にとって残酷だろう」

「……」

「子どもというのは無垢だ。大きな失敗をしたこともない。だから、他人にもそうであれと求める。だが、それは傲慢だということでもある」

 自分のことなら翠令も大人しく聞いていよう。しかし、姫宮のことであれば引き下がることはできない。

「確かに姫宮は幼いゆえに無神経ともとれる言葉をお口になさることもあります。また、大人のような駆け引きもお出来にならず、ご主張を押し通そうとするあまり引き際を誤ってしまうこともございます。されど、そのような子どもゆえの振る舞いくらい受け流せませんか? 円偉様も大人げがない」

 佳卓は即答した。

「翠令が『子ども相手に大人げない』と言うなら、向こうは『子供のくせに生意気だ』と言うだろうね」

「……」

 佳卓は机に肘をついて指を組み、そして翠令を見上げる。

「姫宮は御年十歳に過ぎないが、子どもという立場に甘えていられるお立場ではない。いたわしいとは思うが ……」

「しかし!」

 翠令は反論する。

「姫宮がどうであるか以前に、そもそも事実がそうなのですから円偉様もご反省なさるべきです」

「そ……」

 佳卓が何か言おうとするのに、翠令は被せた。

「円偉様は天子の徳など抽象的なものに夢中で、現実の地方の民に関心が無いと私も思います」

「翠令……」

「あの紀行文、私も感想は姫宮と同じです。円偉様は自分の好悪を述べるのには饒舌なのに、実際の民の暮らしには無頓着。地形やと歴史、特産物など、その地域をその地域たらしめている事実の記述はほとんどありません。読んでいて不快だとこの私も思いました」

 ただの武人ふぜいの個人的な見解などまともに取り合ってもらえないかもしれない。だが、地方に生まれたこの翠令という民は、円偉という人間を鼻もちならないと感じているのだ。

 左大臣家の貴公子は翠令の言い分に対して「分かった」と丁寧に頷いた。

「翠令が何に怒っているか理解しているつもりだ。姫宮のご感想も正しい。私も東国で統治の実務に当たっていたからね。正智が大学寮の学生にああも軽んじられるのも不当だと思ってる。私だって何も円偉殿を完全無欠だと思っている訳じゃない」

「……」

「円偉殿は良くも悪くも夢想家なんだ。現実より書物の中の理想を中心に考える。現実を無視しているような独善的なところは確かにおありだとは思う」

 ただね……と佳卓は続ける。

「為政者には、現実の利害の調整に終始するだけでなく、人間の善や正義というものを深く探求することも必要だ。大陸の先進国の燕では先人たちがそれらの思索を深め、積み重ねてきた。それらを学んで見識を深めていくことも重要なことだ」

「ですが!」

「私などは現実の利害関係を調整することがわりと得意だ。円偉殿はその反対と言える。関心の持ちようや得意不得意はそれぞれだ。実務的な分野に興味があって、そう言った仕事に長けた者はその方面で活躍すればいいし、思索を深めて大所高所から物を考えるのが得意な者はその分野で帝をお助けすればいい。大事なことは──つまり、朝廷が民にとって良い政をするのに必要なことは──多様な個性の臣下を上手く使いこなすということだ」

「……」

 朝廷のあるべき姿についという壮大な話題は、地方の商家に生まれ育っただけの翠令の思考の範疇を超えてしまう。

「完全無欠な人間はいない。誰でも長所と短所はある。帝となって朝廷を率いるには多様な個性を持った臣下たちを上手く使わねばならない。清濁併せ吞む器量が必要だ。姫宮はもう少し大人になられるべきであろう。まあ、年数が経てはきちんとご成長なさると思うが」

 翠令は首を振った。

「姫宮が大人になったからといって解決するとは思いません!」

 この翠令の反論は佳卓にも意外だったようで、顔を上げると眉根を寄せた。

「何?」

「今日の姫宮が何を言われたのかお忘れですか! 規模の大きな市場さえあれば特産品に高値が付くという事実は事実です。姫宮は事実を口にされていた。ところが、円偉様達が姫宮を嘲笑するのに持ち出してきたのは、大人の女性なら誰でも抱える月のものだったのですよ?」

「……」

「大人の女性なら当然の身体のしくみを理由に、お言葉の内容を否定される。こんな調子では、姫宮がいくら大人になられても、姫宮を侮る気持ちが円偉たちにある限り姫宮は軽くあしらわれてしまいます!」

 佳卓は息を吐いた。

「確かに月のもの云々は酷かった……。あれは、あんなことを口に出した側が悪い」

 ただ……と佳卓は腕を組んで考え込んだ。

「正確に言えば、そんな話題をし始めたのは、円偉殿に(おもね)る別の者達だ。円偉殿本人は口にされていない。円偉殿ご自身にあのような発想はないと……そう思いたいところだ。私の希望的観測に過ぎないかもしれないが……」

 確かに、佳卓と双璧と賞賛される人物までがああも品性に欠けた言動をとるなどと、佳卓自身もあまり考えたくないことではあるだろう。

 趙元が翠令に頷いて見せる。

「女君と意見を違えたからと言って、月のもののせいで女君の心が濁っているせいだと話をすり替えるのは私も卑怯だと思う」

 朗風も「下品ですよねえ!」」と言い添えた。

「まあ、翠令が怒ってその場に乗り込みたくなる気持ちは分かりますよ」

「ただ……そこなんだが……」

 趙元が顎に手を当てた。机に向かう佳卓も肘を卓について両手を組む。

「そうやって翠令が踏み込もうとしたところから、話が佳卓様と翠令と姫君とで繋がっているという方向に転がったと聞いている……」

「まずいですね……。白狼の噂と時期が重なってしまっては……」

 翠令は事情が分かるようで分からない。

「あの……白狼の噂が今日のこととどう関係するんですか……?」

 佳卓が腕を組んだままあっさりと言い切った。

「本来なら関係はない」

 しかし、朗風が含みを持たせる。

「本来……でしたら……ね?」

 怪訝そうな顔をする翠令に趙元が説明してくれた。

「仮に噂が本当でも、普通なら白狼の任を解いて直属の上司の私が始末書の一つでも書けば済む話ではある。まあ、私の縁者が心配したように多少出世に響くかもしれんが」

 佳卓が首を振った。

「趙元はこれまで東国の平定に実績がある。これくらいで揺らぐ評価じゃない。私がそう主張するし、円偉殿とて同意してくれるだろう、そこは」

「ただ……」と朗風がため息をつく。

「ただ、今日、昭陽舎で円偉様と姫宮が対立されて、それを佳卓様がその場を収めたという出来事が起こりましたからね……」

 翠令は首を傾げるよりない。

「あの……?」
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