第10話:ステファニーを家族に紹介

文字数 1,657文字

 この話が終わると夜遅くなり床についた。翌日10時半頃、朋美家族が帰った。翌週の日曜、ステファニーと会った時、1985年1月15日、実家に来て家族に紹介するというと喜んでくれた。当日、悦郎は、朝8時過ぎステファニーの家に迎えに行き9時頃に実家に到着。母に、ステファニーを紹介すると母は、顔を赤くして緊張して英語じゃべれないよ言った。

 すると、ステファニーが、私、日本で生まれて、日本語の方が英語より上手と言うと、母は、この外人さん日本語しゃべったよと驚いた。しばらくすると朋美が実家に到着してステファニーと初対面の挨拶した。朋美が、ステファニーに、なんで、私の、お兄ちゃんを好きになったと聞いた。すると、だって素敵な人ですからと、あっけらかんと言った。

 その話を聞き、朋美が、口をあんぐりと開けて、思わず信じられないと話した。そして、今年の6月16日、日曜、10時半からステファニーの教会で結婚式をする。その後、近くのホテルて12時から披露宴を挙げる予定で近日中に招待状を送るつもりですと話した。朋美が新婚旅行はと聞くと、北海道、函館、小樽、札幌へ3泊4日で出かけるつもりと告げた。

 得意料理はと聞かれクリーム・シチュー、手作りのピザ、カレー、ステーキ、ビーフシチュー、鶏の唐揚げ、とんかつと言った。子供は、どの位欲しいと聞くと、それは、神様、次第と言った。でも2,3人は、欲しいわと言った。仕事はと聞かれ、現在は、牧師の父の手伝い位で、特に、働いていないと語った。

 悦郎さんも、僕が、働くから、君は、好きな事をしていなさいと話していると言うと、うらやましいなと言った。朋美は、兄の悦郎に、彼女の料理、食べた事あるかと聞くと、もちろんと言い、絶品だよと言った。やがて2月17になり早咲きの桜を見に天気の良い日の昼食後、沼津を抜けて、伊豆半島のまん中の道を南下した。

 そして浄蓮の滝、天城わさびの里を右に見て、天城トンネルを抜け、13時間20分で伊豆急の河津駅についた。その後、河津川を北上し右岸の河津桜の並木道を30分、ハイキングを楽しんだ。その後、近くの茶屋で、一休みして、15時に、駐車場へ行き、来た道を北上して、17時前に沼津の家に帰った。

 4月にも熱海温泉に峯崎夫妻へ2泊で出かけた。やがて6月16日、ステファニーと峯崎悦郎の結婚式当日を迎えた。10時、着替えステファニーの実家の教会で結婚式の儀式を参列者16人で行った。その後、沼津のホテルの披露宴会場に大勢の仲間が集まり司会者が結婚式を終えてきたばかりのステファニーと峯崎悦郎が入ってくると上手に迎え、話をして2人を紹介。

 その後、峯崎夫妻が各テーブルのキャンドルに明かりをともして回ると会場からおおきな拍手が鳴り響いた。そして祝福の余興、歌が披露された。それから儀式通り両親への言葉と両親から若い2人への言葉が披露されて披露宴が終了。若い人達は、二次会会場に移動した。峯崎夫妻も着替え二次会会場へと向かった。

 その頃、スティファニーの両親と悦郎両親が、カフェで話をしながら、ご苦労さん会を開き、珈琲を飲んでいた。その時、ティファニーの父が、可愛かった頃の娘の話をし始めると目に涙が浮かべ、御両親が、しきりにハンカチで涙を拭った。特に、母が、横浜・根岸の進駐軍の官舎での生活を思い出し、外人専用クラブの食堂で洗い物をした事を思い出した。

 すると、悦郎の母、峯崎智子さんが、戦後の貧しい食糧事情でひもじい思いをした時の切なさを思い出し、目を潤ませた。次に、私達も、亡き夫と結婚した当時、夫が、沼津の雇われ漁師で、魚がたくさん捕れるシーズンは良いが、それ以外のシーズンは、収入がなくなるのでトラック運転手も始めた。

 それによって、何とか食べる物も手に入るようになったが、20年前、1965年の冬、東名高速道路の富士市で、玉突き事故にあって、前と後の大型トラックに挟まれて、突然亡くなった。それからは、保険金を、悦郎が、上手に運用して、食いつないだと話した。
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