第17話:S銀行の貸し剥がしに嫌気がさす

文字数 1,616文字

 今まで、沼津ライオンズクラブからのゴルフや飲み会の誘いがあったが、徳久先生の死後、現金なもので、お誘いがパタッとなくなった。商工会議所の方でも同様、行事があってもお誘いが極端に少なくなった。峯崎悦郎にとっては、かえってありがたい。しかし、人は勝ち馬には、乗りたがるが、勝ち馬がいなくなれば冷淡なものでゴルフのお誘いも全くなくなった。

 1989年8月10日の暑い日、S銀行の次長が勤務中に急に気分が悪いと言い急いで峯崎悦郎が、救急車を手配して病院に運ばれたが脳溢血で急死した。その結果9月1日付けで峯崎が次長に格上げとなる人事が発表された。それにより計算だけではなく若手社員の相談係になった。そのため以前の様に定時に帰ることはなくなり飲み会も増えて帰りが遅くなった。

 また、人事面、人間関係のトラブル処理でストレスがたまり家に帰ると直ぐ寝てしまい、以前の様に家族サービスの旅行が減った。それでも12月の土日、修善寺温泉に家族4人で出かけ、ゆっくりしてきた。しかしビールを飲むと直ぐに寝てしまった。それを見て、奥さんも母も出世すると大変なのねと労をねぎらった。その代わり長男の和也が元気いっぱいだった。

 その後、1990年を迎えた。1990年代から銀行業務は厳しくなって融資に慎重になり以前の様に簡単に融資しなくなった。1990 年代に入ると不良債権問題の長期化やグローバリゼーションの進展、米国に対するIT革命の遅れなどにより日本経済が長期不況に陥る中で金融危機はかつてない程、深刻になった。そして日本の金融システムの限界が見えて来た。

 更に貯蓄から投資へという傾向が主流となり銀行貯金から株式、債券投資に移行し銀行業務も全体的に縮小傾向で あり沼津でも県外から入った銀行の支店の閉鎖も見られた。そこで銀行でも何か新たな投資商品の開発が見込まれた。そして1990年2月に株価が暴落。それに比例して、土地価格、東京を中心とした首都圏の土地下落は、ひどく、また、長く続いた。

 そのため土地評価額の下落により担保価値が下がり一部では融資の貸し剥がしが起こった位で、新規、融資の審査が、非常に厳しくなった。これには、地元の銀行、融資に優しいと評判だったS銀行も例外ではない。S銀行の新規融資が、減れば、地元の信用金庫、信用組合に大口融資先も変更となる事例が見られた。これを見て、峯崎は、やるせない感じを持った。

 そんな憂鬱な1990年が去り1991年を迎えた。1991年、土地価格の下落が止まらず急降下。銀行は、担保価値の急下落に対応するために以前融資した大口融資先に返済を急がせる案件が急増。その度、謝りに行くのが、峯崎の仕事となり仕事が嫌になった。不景気で、融資の返済を迫れば、それでなくても頭が痛い商店主が、怒りを爆発させるケースが頻発。

 中でも一番嫌だったのが中小企業に対しての融資の早期返済を強要させる、いわゆる「貸し剥がし」だった。峯崎の思い出に一番残った案件は、ある町工場の閉鎖事件だ。そのM機械工業は、堅実経営で黒字を維持し家族経営の工場で細々と30年間も生き延びていた会社。その出来事は、S銀行の採算の融資の取り立てに伺った時に起こった。

 峯崎が、挨拶後、M機械工業の86歳の社長が、
「銀行が不景気で負債を抱えるのが嫌だから黒字の小企業を脅かして、借金を取り立てるとは、ヤクザと一緒じゃないかと、いつも温厚な顔が、般若のような形相に変わった」
「銀行って厚顔無恥だと吐き捨てるように言った」
「その次、M機械工業を訪問した時、工場の機械が撤去され、まるで倉庫の様になっていた」

「峯崎が、社長に面会をお願いすると奥さんが、社長に会わない方が、良いよと話した」
「あまり強引に訪問すると殴られるよと教えた」
「工場の機械全部売って借金は返すから安心しなと言い去って行った」
「数日後、その言葉通り、M機械工業の借金が、全額、返済された」
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