第14話:徳久先生の死と葬儀

文字数 1,563文字

 その後、沼津商工会議所でも沼津ライオンズクラブでも徳久先生の容態について会う度に聞かれるので軽い脳血管障害で入院静養中とだけ答えていた。しかし、もう3ヶ月して、この話だけでは、信じてもらえなくなってきた。そこで高齢のため静養して体力の回復に励んでいますと答えた。しかし、先月の帰り際、徳久先生の目が、生気に、あふれていたのが気になった。

 そのため1988年2月19日に療養所に電話すると大丈夫ですよと言われた。しかし、その翌日の2月20日、14時、療養所から電話が入り急変して修善寺の大学病院に運ばれたと連絡が入った。急いで、急用と言い商工会議所を出て15時前、大学病院に到着すると昏睡状態ですと言われた。

 担当した看護婦が病室を回ったとき声をかけても返答がないので先生を呼ぶと意識が低下していて、直ぐ、大学病院に運ばれ救急処置中と言われた。30分位して救急の医者が出て来て、残念ながら、ご臨終ですと言った。脳梗塞で食べた物を喉につまらせて亡くなった様だ。仕方なく沼津商工会議所の副会頭の武田さんに電話を入れ亡くなった事を告げると驚いていた。

 急いで、そちらへ行こうかと言うので、それには及びませんと答えた。病院での手続きを終えて遺体を少しの間、預かって下さいと言うと明後日中に引き取りに来てと言われ了解し帰った。その後、沼津商工会議所へ行き副会頭の武田さんに善後策を相談すると武田さんが、埋葬してくれる、お寺を探すと言い、君は、葬儀社を探し日程と連絡を頼むと言われ了解した。

 数軒の葬儀社に電話して双葉葬儀社で引き受けると言われた。そこで葬儀できる斎場を捜すように依頼。その後30分して双葉葬儀社から電話で沼津斎場が2月28日、10時から空いてると言われ予約した。双葉葬儀社の霊柩車で修善寺の順天堂大学病院に遺体を引き取りに行き双葉葬儀社に2月28日まで遺体を預かって欲しいと告げた。

 葬儀のパンフレットをもらい、葬儀をどれにするか、電話連絡して欲しいと言われた。その後、葬儀の話を沼津商工会議所の副会頭の武田さんに商工会関係で連絡すべき人を調べておいて欲しいと話すと了解してくれた。その後、沼津ライオンズクラブの下川会長に関係者で葬儀の参列者を調べて欲しいと言われ、快諾してくれた。

 2月22日、参加予定者が67人と決まり双葉葬儀社へ打ち合わせに行った。その間に沼津商工会議所とライオンズクラブの事務員が手分けして葬儀の案内状を書いて送った。葬儀社で葬儀の費用300万円と見積りが提出された。その話を沼津商工会議所の副会頭の武田さんにすると商工会で葬儀費用を出すと約束してくれた。

 やがて2月28日、沼津斎場で10時から徳久商工会議所会頭の葬儀が開かれ、9時過ぎに続々と集まってきた。参加者が多いので受付を2人と案内係2人を商工会議所の人に依頼。10時からお坊さんの読経が始まり、その後、焼香が4人ずつ同時に行なった。すると焼香だけで帰る人も多く、亡き徳久先生の人望の厚かった事が、今さらながら良くわかった。

 焼香だけで帰った人が50人以上にのぼり、沼津市長、静岡県知事の名代で来た人や衆議院、参議院、県会、市会議員の名前も多かった。荼毘にふされている80分間で昼食を食べながら徳久先生の在りし日の思い出が話された。その後、骨壺に入れる儀式には、肉親がいないので商工会議所の副会頭の武田さんと峯崎悦郎が2人で手分けして行った。

 その後、寺のはからいで、高台で沼津の海が一望できる景色の素晴らしい墓地に遺骨が埋葬された。墓地までに着いてく人が20人もいて9人乗りのワゴン車を手配して埋葬へと向かった。空は、晴れ渡り、徳久先生の生前の行いを示しているかのように峯崎悦郎には見え、思わず、ご苦労様でしたと、心の中でつぶやいた。
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