第4話:バブル経済の勉強と朋美の結婚へ

文字数 1,653文字

 すると数ヶ所の訂正と追加資料をつけるように言われ卒業論文を受けてくれた。やがて1975年、いよいよ悦郎の卒業の年となった。就職先は、家から近いS銀行、沼津支店に決め同じ大学の3人と共に受験し内定通知をもらい2月に採用試験を受けて合格。その後、悦郎の計算の正確さとソロバンの腕を買われて内勤で入出金管理の仕事に就いた。

 その当時銀行の給料は、他の業種に比べて高く、高卒で年収240万円で、悦郎は、大卒の年収340万円に特別管理手当100万円を加えて440万円と高かった。仕事の終了時間は、入出金があえば19時には、家に帰れた。その他、この当時、ワリコー、ワリトーなど数多くの高利回り再建、預金、一時払い養老保険もあり、悦郎は、上手に運用していった。

 やがて1975年も悦郎は、沼津支店の出納計算の責任者として検算の日々が続いた。そんなある日、出納計算の検算すると、16万円不足となり、その翌週も18万円が不足となった。その時、宮崎支店長が、女子行員のS子を呼んで、1時間ほど話をして、彼女が金を盗んでいたことが判明した。

 何でも、付き合い始めた彼の金遣いが荒く、金をせびられるようになって、仕方なく犯行に及んだと自供した。その頃から悦郎は、毎年100万円を預金し始めた。この頃、銀行の支店長の一番の役割は、部下の掌握、つまり、部下の行動、言動、様子を見て、少しでも、おかしな事があれば、面接して問い詰めるというのが一番の仕事だった。

 そのため支店長は自分での事務仕事はせず、上得意の方の訪問、以外は、銀行員の行動監視に、あたっていた。この頃、悦郎は、1000万を目標に金を貯めた。そして貯めた金で中古のカローラを購入。休みの日には、母と妹を連れて、熱海、伊東、下田、箱根、富士五湖などをドライブした。やがて1976年となった。

 この年の4月に、妹の朋美が、悦郎と同じ銀行に勤める滝沢静夫とつき合っているので紹介したいと言い、4月29日、峯崎家を訪問。彼は、東海大学経済学部を卒業して入社し、悦郎の1年下だった。つまり朋美と同じ年で、小田原の建築屋の次男坊。そして、今年中に結婚したいと説明して10月頃を予定していると伝えた。

 金縁のメガネとかけて、エリート・サラリーマンという感じ。そして結婚したら小田原の実家の敷地の一角に家を建てる計画だと話した。これを聞いて、母は、喜んだが、そのうち朋美の花嫁姿を亡き、夫の夏彦さんに見せたかったと言い涙を流した。彼は、特技が音楽と言い、朋美のギターを渡すと、何曲か、そのギターの腕前を披露した。

 どうも、このギターが上手なので付き合い始めたらしいと悦郎は、ピンと来た。その他、車とドライブが好きで、車は、スカイライン2000GTに乗っていると話した。それらを考えあわせると、実家が、かなり裕福だと想像できた。しかし、悦郎は、彼と、あまり話をせずに、儀礼的な挨拶だけを済ませた。

 しかし、滝沢君が、峯崎先輩は、そろばんの名人、経理責任者で、給料は係長と変わらないとほめた。しかし、何となく、ヨイショしてるような気がして、この晩、悦郎は、滝沢に、話しかける事はなかった。21時頃に、失礼しますと言い、スカイラインの金属的な排気音を立てて、
家を出て言った。

その後、1976年10月10日、日曜、小田原駅近くのホテルで滝沢静夫君と峯崎朋美の結婚式が行われ、50人が出席して、洋式の結婚式を挙げた。翌日、博多、岡山、神戸へ新婚旅行に出かけて行った。この頃、銀行で、大型コンピューターが導入され始め、悦郎は、そのコンピューターに強い興味を持っていた。

 1977年早々、悦郎は、日本電気の半導体事業部が1976年8月3日に発売したマイコン・システム開発のためのトレーニングキットTK-80「μCOM80」を購入。これは、高価な端末装置を必要としない点が、当時のアマチュア・コンピュータマニアに好評を博した。これに興味を持ち沼津から時間かけて秋葉原へ行き実物を見て買いたいと思った。
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