第30話:経済と政治不信と世界での紛争

文字数 1,521文字

 1998年になっても日本経済は、下げ足を早め、ひどくなっていった。日本経済は、戦後最悪の経済状態に陥った。経済成長は戦後最大のマイナスを記録。企業のリストラ、倒産から失業率は最悪となり雇用不安が強まった。物価下落が企業収益の悪化を招き不況へと連鎖するデフレスパイラルに落ち込む危険性が叫ばれ、「平成大不況」という言葉さえささやかれた。

 4月に改正外為法が施行され、金融機関による投資信託の直接販売の解禁など日本版ビッグバン「金融制度改革」が本格化し、銀行、証券の垣根や国境を越えた合従連衡が進んだ。1998年11月には証券取引法の改正によりインターネット証券会社の新規参入が認められた。

 同じ時期には独占禁止法改正による金融持株会社の設置解禁も行われ1999年のみずほフィナンシャルグループ設立に至った。銀行による普通社債による資金調達、信託子会社を通じた業務の自由化も認められた。株式媒介委託手数料の自由化。証券会社の免許制から原則登録制への移行。証券子会社・信託銀行子会社の業務範囲の制限撤廃。

 親子間の金銭債権の信託に係る規制「50%ルール」を撤廃。系列投信委託会社からの証券投資信託受託に関する規制「25%%ルール」を撤廃。株式売買委託手数料の完全自由化、これは個人投資家にとっては、実にありがたい。日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が破たん、公的管理下に置かれた。

 1998年の日本経済で最も注目を集めたのは、日本長期信用銀行の経営問題。住友信託銀行との合併交渉、公的資金投入の是非をめぐる与野党対立、債務超過認定を経て、10月に金融再生法に基づく特別公的管理「一時国有化」適用で決着。12月には同じ長期信用銀行の一角、日本債権信用銀行も特別公的管理に移行。

 大蔵省接待汚職発覚、蔵相、事務次官が辞任。大蔵省と日銀の現役職員が接待などの見返りに、検査情報を漏らした一連の汚職事件が相次ぎ表面化した。逮捕者は計5人にのぼり蔵相、大蔵事務次官、日銀総裁、副総裁が辞任に追い込まれ金融行政への信頼は失墜。監督官庁が、このていたらくでは、日本経済の将来が不安視されるのも無理もない事であった。

 また、相次ぐ金融機関の倒産で金融システム安定化関連2法成立、銀行への公的資金投入が積極に行われた。金融システム再生に向け、借り手を保護しながら破たん銀行を処理する金融再生法と公的資金による資本注入で経営基盤を強化する早期健全化法が成立。両法の成立により金融安定化のための公的資金枠はそれまでの30兆円から60兆円に達した。

 しかし、これは穴の開いた水道管をふさぐだけで新品の水道管に替える事にはならなかった。海外では、イラクでの国連大量破壊兵器廃棄特別委員会による査察をめぐる対立で国連安保理はイラクに査察の無条件受け入れを求めた。米国は1月、イラクに対し、単独でも軍事行動に踏み切る意向を示し、一触即発の危機となった。

 しかし、2月にイラクを訪問したアナン国連事務総長が査察受け入れの同意を取り付け、危機回避に成功。だが、その後も国連制裁の早期解除を求めるイラクが査察拒否を繰り返したため、米英軍は12月、4日間にわたってイラクに攻撃を加えた。ケニアのナイロビとタンザニアのダルエルサラームで8月7日、米大使館を狙った連続爆弾事件が起きた。

 それにより少なくとも224人が死亡、5500人以上が負傷。米政府はサウジアラビア出身の富豪、ウサマ・ビンラディン容疑者を首謀者と断定。このイラクとアルカーイダの関連するテロ組織による攻撃と、そのテロ組織に対しての米英を中心とした多国籍軍の攻撃が激化して1900年代の末期の世界女王生は混沌としてきた。
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