第21話:タイ米輸入と松本サリン事件

文字数 1,447文字

 株の雑誌を読んだり時間を作っては、N証券に顔を出した。以前から世話になっていた担当者が、2月末で定年で退職し代わりに道下節男さんが担当となり名刺をくれた。体を壊しはったと聞きましたが、ごきげんいかがですかと、大阪弁で聞いてくれた。そこで、少しずつ、運動を始めて体力の回復をめざしてますと答えた。


 1993年頃、バブル崩壊による本格的不況時代の到来となった。1980年代は、大卒者の就職は、売り手市場で、企業が、あの手この手で人材を集め学生を旅行に招待するなんて当たり前に行われていた。ところが1993年以降、大学を卒業したけれど待てど暮らせど企業が、就職の勧誘に来ない。おかしいな、何故、来ないんだと大手企業、数社に履歴書を送った。

 すると、数日後、全てから返事が届いた。そこには、それぞれ違った表現だが、同じ様な事が書いてあった。本年度は諸事情により新規卒業生の採用は見合わせる事になりました。その後、悦郎の知り合いの子供達が比較的有名な大学を卒業したが就職活動に失敗。しかたなく塾講師という名のフリーターになったと言う知らせを聞いた。そんな就職の厳しい時代が始まった。

 ちょうど同じ頃、世の中には企業の倒産、銀行員の逮捕、証券会社の不祥事「損失補填など」などの記事が新聞に多数、見られる様になった。そんな事で、あまりぶらぶらしているのも性に合わないと感じた。峯崎悦郎は、ステファニーと2人で投資口座を開き、沼津の公営の会議室を借りて経済研究会と銘打って投資教室を開始した。

 通っていた公営のスポーツジム、温水プールなどにも1993年4月1日、広告を貼らせてもらった。すると家に20件を超える電話がかかって来た。そのうち半分以上が女性で4割が退職した男性だった。息子の和也が小学校へ通い始めたが、父が買い与えた、おもちゃをじっくり、観察するように眺めているのが面白かった。

 その後、父が和也と2人だけで、東京秋葉原に行くようになった。すると、和也は、ステレオの音楽を聴いて楽しんで、さらにマイコン売り場が好きでゲームを見て夢中になった。どうなってるのと頻繁に聞くようになった。特に、マッキントッシュのキッドピックスに興味を持ち長い間、遊んでいた。帰りに秋葉原のラーメン屋に入るのが楽しみの様だった。

 それからというもの、おもちゃで遊ばなくなった程だ。今年は、雨の多い年で、あまり暑くならなくて雨ばかりで湿気が多かった。8月には全国、特に関西から九州地方にかけて数多くの強い台風が上陸して大きな被害を残した。そのため稲作が大打撃を受け、近年、まれに見る不作で、農家は、借金を返せないと悩んでいると言うニュースが、頻繁に流された。

 このため日本中で、未曽有のコメ不足になり備蓄米を取り崩しても足らなくなり、やむを得ず、海外から米を輸入。しかし、他国でも、それ程余裕のある国はなく親日国のタイが米を売ってくれた。しかし、その品質は、日本の新米とは月とスッポンで独特の臭いがして食べる気にならなかった。そのため富裕層は、うどん、そば、スパゲッティー、パンなどを主食にした。

 しかし、経済的に豊かでない人々は、タイ米で雑炊を作ったり焼きめしを作ったりして臭いが気にならない様、工夫して食べた。しかし残って冷えたタイ米は、臭くて、ボソボソで、とても食べられない。そこで香りと臭いの強いスープで煮込んで食べるしかなかった。それでも限界があり、袋の中に入ったままで、捨てられている多くのタイ米が、見られた。
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