第5話:PC8001と滝沢家で新居を購入

文字数 1,724文字

 TK-80が発売から3年後、1979年9月、遂に、NECから本初の個人向けコンピューターPC8001が新発売された。本体価格16万8千円でキーボードと本体が一体化され必要最低限、使えるがコンパクトカセット「データーレコーダ」、CRT「画像装置」をつけると30万円を越える。

 そこで、まだ高いと感じたが、1980年1月2日、実物が見たくなり2時間かけ、秋葉原にPC8001の実物を見に行った。大型電気店の店で説明受けると最低限必要であるプリンタ、コンパクトカセット「データーレコーダ」、CRT「画像装置」インタフェースを備える。ただし拡張スロットはなく、FDD「フロッピーディスク」等、その他機器の増設は別売。

 その増設ボックスPC-8011、PC-8012が必要。全システムで70万円と言われた。この価格では、高すぎてサラリーマンには買えない。プリンター、ディスプレイ、記憶装置、合計、50万円以下にならないと普及しないと考えた。悦郎自身も欲しいが、その価格まで下がるまで待とうと考えた。しかし、PC8001には、興味があった。

 それが、唯一置いてある沼津の大型電機屋に行って簡単なBASIC講習会や装置の使い方を興味深く聞いた。その後、変わった事もなく1980年3月、朋美から妊娠して1980年9月12日に出産予定だと実家に電話が入った。この話を聞き母は大喜び。やがて9月12日になり無事に男の子を出産したと連絡が入った。

 そこで電車で小田原の産婦人科病院に行き、子供と面会、既に、一郎と名付けられた。朋美が、結婚して間もなく旦那さんの実家の敷地に木造の家を建てた。そこに家族3人で住むに事になると話した。やがて1981年。冬は、家の中で過ごし2月中旬の土曜、一足早く、河津桜を見に、車で母と2人で出かけた。実に鮮やかなピンク色の桜の花が印象的だった。

 その後、1983年4月に父の死亡時の保険金、母と悦郎の2500万円が10年経ち4000万円になった。それで沼津に家を建てようと母に相談すると任せるから良い家を建てておくれと言われた。その後、沼津市内の土地を探し回り、5月、沼津から車で10分の山側に築10年、建坪30坪の家の物件が3500万円で売りが出ているのを見つけた。

 土地は広く、建ぺい率50%で容積率150%の土地で、もう1軒、建てられ程の広さだと感じた。母も現地に行き高台で景色も良く、駅まで下り坂を10分足らずで、沼津駅まで行けると喜んだ。その後、5月の連休明けに契約をむずび、母と悦郎の父からの保険金4千万円から2千万円を頭金にして購入。

 残り1500万円を全て悦郎がローンを組んだ18年で月10万円均等払いとした。母は、全ての資金管理と運用は、全て悦郎に任せた。5月20日、母と悦郎が、トラックを借りて家財道具、全て、新居に運び込んで母との2人で暮らし始めた。新しい家から銀行まで自転車で10分で通えた。1983年6月11土曜日、滝沢一家3人が車で新居を訪問。

 挨拶後、引越祝いに菓子折と、ご祝儀10万円を包んで持ってきた。日当たり、見晴らしも良く、沼津駅からも遠くないし良い所ですねと言った。家の中を見て、まだ新しく、うらやましいと感想を述べた。娘の朋美が、また遊びに来るから1部屋空けといてねと笑いながら言った。広めの3LDKだから家族で遊びに来てと、母がうれしそうに答えた。

 それでは。お言葉に甘えて、頻繁に来ますと言った。この晩は、旨い魚を買って、祝杯をあげ、昔話に花が咲き、夜22時頃まで話して、床についた。翌日、昼前に、滝沢君と朋美はスカイライン2000GTの爆音と共に去って行った。7月になり朋美から実家の母に7月9日、10日の土日、泊まり込みで行っても良いかしらと電話が入り、母が、待ってるわと答えた。

 7月9日、午前10時頃、滝沢家の3人がやってきた。すると母が、何か美味しいものを買ってこないとねと言い、滝沢君の運転で母と朋美が、スーパーの魚屋に旨い魚を買いに出かけた。11時半頃に帰って来て、母が味噌汁を作り、昼食は、新鮮な刺身をたらふく食べた。3歳の長男の一郎は、元気いっぱいで、庭を駆け回っていた。
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