第11話:ステファニーと朋美が妊娠と出産

文字数 1,693文字

 そんな話をしてると、15時なり智子さんとステファニーの両親が、ホテルを出て自宅に帰った。その翌日から、ステファニーと悦郎は、北海道に新婚旅行へ行く計画で、札幌、函館に2泊の4泊5日の旅へ出かけて行った。帰って来てから7月、8月猛暑の時期となり家の中でクーラーをかけて生活した。

 やがて11月、悦郎の車で智子さんとステファニーの3人で箱根、芦ノ湖畔のホテルに泊まり、高原の紅葉や仙石原のすすき野を散策。その後、足早に年の瀬を迎え1986年が明けた。正月、朋美夫妻と息子の一郎君が訪ねて来た。悦郎の母が、和風おせち料理を作りステファニーはローストビーフ、ビーフシチュー、鳥の丸焼きと洋食を作り豪勢な正月料理となった。

 朋美夫妻が、ビーフシチュー、ローストビーフが、旨いと喜んで食べた。鳥の丸焼きも母の智子さんの大好物で、たくさんいただいた。その後、初詣でに行き、悦郎は子宝に恵まれる事と、ファミリーの安全を祈願していた。その後、1986年2月、ステファニーが妊娠が、わかり、出産予定日が1986年8月26日と言われた。

 その後、3月、朋美も妊娠したとわかり、出産予定日が1986年9月23日と、おめでたが続いた。そして、1986年は、あまり移動できず、ステファニーと朋美の様子をうかがっていた。やがて、6月、梅雨になると、ステファニーも朋美もお腹が大きくなり、動くのが、辛そうに見えた。7月過ぎ、8月になると、お腹大きくなった。

 その後、ステファニーが、産婦人科病院に入院して3300グラムの男の子を産んだ。その後、名前を峯崎和也と名付けた。9月下旬、朋美も産婦人科病院に入院し、3000グラムの女の子を産み、滝沢裕美と名付けた。ステファニーは、自分の実家に帰って、悦郎は仕事を終えると、毎晩のように、彼女の実家の教会の家を訪ねた。

 一方、朋美は、滝沢家で一郎と旦那さんと4人で生活して、義理の母に面倒を見てもらった。そして育児に忙しい日々が、あっという間に、月日がたち、1986年が終わり1987年を迎えた。この年は、悦郎と母が、小田原の滝沢家に新年の挨拶に出かけた。悦郎は、ステファニーの家にも挨拶に出かけ、忙しい年始だった。

 徳久先生が、悦郎に子供ができたと、聞きつけ、立派な鯉のぼりと兜を送ってくれた。悦郎は、徳久先生の推薦で、1987年4月、沼津ライオンズクラブの新メンバーに選ばれた。その後、多くの人脈ができて、飲み会など出席する機会が増えてS銀行の上客になってくれるように忙しく駆け回った。

 5月、今後、ゴルフが、できないと困るからと言われ、沼津商工会議所の若手にゴルフに誘われ、最初は、ゴルフ練習場で、アイアンの練習を開始して、ウッド、ドライバーの練習につき合ってくれた。もともと悦郎は、運動神経が良く半年でスコアが100を切り一人前のゴルファーになって来た。そのお話が沼津ライオンズクラブのコンペに参加するように言われた。

 そのため土日も出かける日が増え、ステファニーの事は、彼女の両親に任せっきりになった。そこで商工会議所と沼津ライオンズクラブに子供が小さいのでゴルフのコンペの参加は、年4回までしかできないと宣言。そんな1987年9月30日、早朝8時半に証券会社から日本電気・NECの株価が2400円の気配値が出ているので売った方が良いのではと提案された。

 同意し、全株、2万株を成行売りを指示。すると税引き後利益5300万円となった。そこで、悦郎が住宅ローンの1500万円を全額支払い残金が3800万円となった。その頃、給料から貯めた預金が1000万円を越えた。悦郎は、仕事も投資も順調であったが、恩師の徳久先生の体を少しずつ、病魔が蝕んでいた。

 1987年11月29日、徳久先生の77歳「喜寿」の祝いを悦郎が企画して川奈ホテル洋風宴会場を予約した。参加者は、商工会議所で35人と沼津ライオンズクラブ35人で総勢70人を集めた。それを、徳久先生に知らせずにいて、誕生日の3日前に知らせると喜んでくれた。当日は、悦郎が、徳久先生をクラウンの後部座席に乗せて出かけた。
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