第39話 弘雅と完行
文字数 3,414文字
下野の国衙。下野守・藤原弘雅と前下野守・大中臣完行が、人払いをし、顔を突き合わせて密談している。
常陸を占領し謀叛に踏み切った平将門が、坂東の独立と坂東各国の受領の追放を宣言し、次の目標として下野を定めて、出陣の準備をしているという報せを受けてのことだ。
「いずれ、朝廷より坂東各国に、将門追捕の詔勅が届くであろうが、各国の連携も出来ていない今、この下野を攻められたら、対処のしようが無い。
如何にしたら良かろう。 ……戦わなければ、我等の出世の道が絶たれる。出来る限りの兵を集め、何とか食い止めながら、武蔵、上野からの援軍を待つべきであろうかのう」
眉間に皺を寄せ、下野守・弘雅が悩ましげに尋ねる。
「う~ん。容易ならざる事態で御座いますな」
前下野守・完行も深刻な表情を見せ腕組みをした。
三年前の承平六年(九百三十六年)六月、将門が良兼、貞盛らを追い詰めて下野の国衙を包囲した際、下野守として対応した男だ。
任期が明けて、下野守の職を藤原弘雅に引き継いだのだが、引き継ぎ手続きが終わっていなかった為、まだ下野に滞在していた。
正直、運が悪いと思った。下野を離れてさえいれば、何の責任も無い立場と成っていたはずだった。完行が小狡い男であったなら、弘雅が何と思おうと、引き継ぎの手続きを急かせて『自分には関係無い』と、さっさと都に向けて旅立ってしまっていたろう。任期が明けた以上,、ここに居さえしなければ責任を問われることは無いはずだから。
しかし、完行はそんな男では無かった。承平六年の騒ぎの時も、将門を恐れること無く、言うべきことは言って将門に囲みを解かせている。
大中臣氏は、藤原と同じく中臣氏の出である。文武天皇の頃、藤原不比等の直系以外は,藤原姓から中臣姓に戻り,神事に供奉することとされた。しかし、その後、中臣意美麻呂の七男・清麻呂の代になって政界に復帰し、神護景雲三年(七百六十九年)に中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓し、光仁朝に至って、右大臣にまで昇進した。
完行の父・安則も、神祇伯の時、伊勢権守を兼任し、従四位上にまで上っている。
完行は幼い頃より神祇の修行をさせられたが、その道には進まず行政官僚の道を選び、朝廷に出仕して丹後守を勤めた後、下野守に転じていた。
「急いで集められる限りの兵を集めることにしよう。力を貸して頂けるか?」
弘雅が完行に体を近付けるようにして言った。
「無駄なことはやめた方が良い」
完行は素っ気なく応じた。
「無駄と申されるか」
弘雅は反論するように返す。
「如何にも…… この下野は実質、藤原秀郷に牛耳られておる。秀郷抜きにして兵など集めることは出来ぬ。この国衙の中にも、秀郷の息の掛かった者がどれ程おるか分からぬのじゃ」
下野の事情を把握している完行が、新任の弘雅に忠告する。
「秀郷も謀反人同然と聞いておるが……」
弘雅は、都を出る時に聞かされていた情報に付いて確認した。
「同然ではあるかも知れぬが、追討の官符を出された身ではあっても、謀反人では無い。不思議なことに、未だに、れっきとした下野少掾なのじゃ」
完行はそう言って苦笑いをした。
「良う分からぬ話じゃな。ならば、秀郷に兵を集めさせては?」
と弘雅が聞く。勿論本気では無く、完行の発言を繰り返しただけだ。
「朝廷の意向を受けて、今まで歴代の下野守が、どれ程、秀郷を目の敵にして来たか、ご存知無い訳でも有るまい。今更、頼めた義理では無いわ」
「…… う~む。無理か……」
と言って顎の辺りを撫でている弘雅に、
「それに、秀郷が将門側に着かんとも限らぬ」
と完行が追い討ちを掛けた。
「正に、前門の虎、後門の狼じゃな。どうすれば良い?」
と聞く弘雅に、完行は、
「将門に降るしかあるまい」
と、またも素っ気なく完行が言った。
「何を言われる! そんなことをすれば、下野守としての面子が立たぬではないか、完行殿、そうであろう」
弘雅には、完行の言葉が、離任した者の無責任な発言としか取れなかった。
「弘雅殿は、命と面子、どちらを選ばれるのか? 例え、秀郷のことが無くとも、二千や三千の兵では将門には勝てません。三年前、上総介・平良兼がこの下野の国衙に逃げ込んで来た時も、こたびの、常陸介・藤原維幾も、三千の兵を擁しながら、あっさりと将門に打ち破られておるのですぞ。もはや、将門に勝てるのは、古の名将・坂将軍(坂上田村麻呂)くらいしかおらんのではないかな。降霊の神事でも行いましょうかな。これでも、神事を司る家の出であるからな」
完行は本気とも冗談とも取れるような口調で、そう言った。ところが弘雅は、
「出来るのか? 田村麻呂将軍の霊を降ろすことが……」
と、大真面目に聞いて来た。
「いや、出来ぬ。神祇の道に進むつもりなど全く無かったので、余り熱心に修行をしておらぬのじゃ。まあ…… 猫の霊くらいなら降ろせるかも知れぬがな」
と、完行ははぐらかすしか無かった。
「こんな時に、その様な戯言を良うも言うておられるものじゃな」
弘雅はムッとして言った。
「いや、済まぬ。しかし、良うお考えなされ。まず、戦わずして逃げれば、首尾良く都に辿り着けたとしても、国守の職を放棄して逃げたとして、処罰は免れまい。かと言って、戦っても勝てる見込みは無い。ならば、降るしか無いではないか」
弘雅とて完行の言うのは道理だと思うのだが、我が身がどうなるのかを案じない訳には行かない。
「戦いもせんで降るのでは、逃げるのと大差無い」
と言ってみる。
「それはそうだが、弘雅殿。今迄、命を懸けて戦ったことが御座いますのかな?」
完行はそう聞いて来た。
「いや、それは無い……」
と言葉に詰まる。
「確かに将門は、受領を追放すると言っており、殺すとは言っていない。そして、今までの戦いに於いても、源護の子息三人を除いて、将を殺したことは無い。ま、平国香に付いては、火に巻かれて死んでおるが、将門に斬られた分けでは無い。将門は今迄、捕らえた将を殺したことは無いのだ。
だがそれは、身内同士の私闘だったからと言えるかも知れぬ。謀叛人と成った今も、そうだとは言えぬ。確かに、刃向かった者を殺さぬと言い切ることは出来ない。将門自身にそのつもりは無くとも、配下の者達に殺されるかも知れぬ。戦とは、その場の成り行きで何が起きるか分からぬものじゃ。三年前も、将門が引き上げるまでは、息苦しいまでの緊張の連続であった。正に、生きた心地がせぬとは、あのような状態を言うのであろうな。適当に戦って、頃合いを見て降伏した方が、恰好が付くなどと甘いことはお考えにならぬが良い。一旦戦ったら、どのような成り行きになるかは分からん。命あっての物種じゃぞ」
完行にそう説明されると、弘雅も、それ以上戦う事を主張する気力がなくなってしまった。
「ふ~ん。出世より命か…… 確かに死んでしもうては出世も出来ぬな。当面出世から見放されたとしても、生きていれば、いつか挽回の機会を得ることが出来るやも知れぬということか……」
と、納得した。
「将門と膝を突き合わせて話したことのある麿の言うことをお聞きなされ。あの男、降った者に無体な真似はせぬ」
完行の言葉を聞きながら、弘雅は思い出した。
「そうだ! 思い出したぞ。命は、三年前には、将門の行為がやむを得ぬことであった旨、国庁の記録に残し、先だっては、武蔵での将門の行為が謀叛では無いとの証を朝廷に対して送っている。言わば、将門に幾つもの貸が有る訳だ。刃向かいさえしなければ、将門が命を粗略に扱うことは出来ぬと言うことか」
行き詰まっていた将門対策に一筋の光明が見えたと思った。
「将門がそのように思っているかどうかは、分からん」
弘雅の都合の良い解釈に、完行が釘を差した。
「…… 命は、麿が解由状さえ書けば、今、直ぐにでも堂々と都へ旅立てる身。将門に口添えして貰う訳にも行かぬな……」
弘雅はわざとらしく困った表情を作って、そう言った。
「麿ひとり逃げるつもりは御座らぬよ。こう成ったら一蓮托生。地獄の底まで付き合い申そう」
完行にそう言われて、弘雅は破顔した。
「ま、真で御座るか。いやそうしてくれるなら心強い。完行殿、恩に着る」
「将門に降るのが良いと申した手前、知らぬ顔も出来無ぬ」
完行は、そう言って笑った。初めは戦うなどと言っていたものの、実は弘雅が怯えているのを、完行は見て取っていた。
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