第40話 下野占領
文字数 2,221文字
十二月の寒風が、上気した将門の頬にはむしろ心地良く感じられた。都での欝々とした日々も、胃の腑 が痛むような身内との闘いの日々も、この日の為に有ったのかと思う。煩いも悔しさも身の奥から燃え上がって来る熱気と坂東の寒風に晒されて霧散して行く。もはや、恐れという気持ちは微塵も無い。己が決めた道を唯ひたすら駆け抜けるのみだ。
命への拘 りを捨てたことで、生きていると言う実感が沸き上がって来た。膨れ上がった将門軍は、怒涛の如く下野 を駆け抜けて行く。それを遮 る軍と言えるものは、その影すら無い。
暫く行くと、右の二の腕に布を縛り付けて、道端に控えている男の姿が目に止まった。将門が右手を上げて隊列を止める。男は礼をして将門の近くに歩み寄った。
「安蘇郡 (現・佐野市及び桐生市、日光市の一部を含む地域)に動きはありません」
男は声を張って馬上の将門に報告をする。藤原秀郷 の動きを探らせる為に、予 め放って置いた細作 である。元浮浪人の中から、各地を流れ歩き、地理及び各地の事情に詳しい者を選んで、将門は最近、細作 として使っている。右の二の腕に布を巻いているのは、報告が有る場合の目印である。
「そうか、ご苦労。戻って引き続き探れ」
と将門が命じた。
「はっ」
と返事して、男が下がる。
「進め!」
将門の号令と共に、軍は再び動き出す。
不安と恐れの表情を浮かべて田畑から見守る民達の姿を横目で見ながら、将門軍は東山道 を駆けて下野 の国府に至った。
国衙 の少し手前に差し掛かった時将門は、右手を挙げて又軍を止めた。
門が開け放たれ、人っ子ひとり居ない舘 の前だ。秀郷の国府の舘である。
「秀郷め、又も逃げおりましたな」
御厨 三郎・将頼 が言った。
「この舘 に踏み込むことを禁ずる。三郎、見張りを立てよ。兵を一歩も入れてはならぬ」
そう下知 する将門に、
「えっ?何故 ですか? 『どうぞ、何でもお持ち下さい』と言っているようなものでは御座いませんか」
と将賴 が問い返す。
「だからだ。それに三郎、今後、麿の命 は一度で聞くように致せ。いちいち問い返せば動きが遅くなり、咄嗟 の場合対処が遅れる。他の者達への示しも付かぬ」
と将門は厳しく言った。
「はっ。分かりました」
将賴 は素直にそれに従った。
将門は、秀郷の舘 に見張りを残し、国衙 に軍を進めた。国衙 の門も開け放たれている。見張りの兵の姿も見えない。
「何だこれは? 最低でも、門を閉じての押し問答くらいは予想しておったのだが」
思わずそう漏らした。
「お舘 の威勢に恐れを為 して、抗 わぬ姿勢を示しているので御座いましょう」
興世王 がそう言った。
「兵を一人も損じずに済むのは良いが、何か薄気味が悪いのう」
「調べよ!」
多治経明 が命じると、五騎が駆け出して行った。
二騎は左右に別れて双方向から、国衙 の塀沿いに回り込んで行き、残りの三騎は、中に入って敷地内を駆け巡る。
「伏せ兵らしき姿は有りません」
「屋根、建物の陰に潜んで弓を構える者もおりません」
戻って来ると、それぞれ、そう報告した。
手前に軍をとどめ、将頼 、興世王 、玄茂 と十数名の郎党のみを従えて、将門は下野 の国衙 に入った。
国庁の入り口の前に、正装に威儀を正した二人の男が立っている。下野守 ・藤原弘雅 と前下野守 大中臣完行 だ。
十歩ほど二人に近付いた所で歩みを止め、将門は馬上から二人を見た。
弘雅 は紫の布に包んだものを頭上に掲げ、少し下がって完行 が、二人共少し腰を屈 めて下を向き、将門の方へ歩み寄って来た。
馬前に至ると二人とも地面に膝を突く。そして、神を崇めるが如く、地に付くほどに深々と三度頭を下げ、
「下野の印鎰 に御座います。どうぞお納め下さい」
と弘雅 が大声で述べた。下馬した玄茂 が受け取り、将門に差し出す。
将門は無言で紫の布に包まれた印鎰 を確認し、興世王 に渡した。
「顔を上げられよ」
そう言った将門と、顔を上げた完行 の目が会った。既に転出して、居ないと思っていた男だ。悪い印象は持っていない。
『そうか。完行 殿が説得してくれたのか。お陰で無駄な血を流さずに済んだ』
そう思って、感謝の念すら抱いた。本来なら、酒でも酌み交わしながら語り合いたいところだ。だが相手は、任が明けているとは言え、追放すると宣言した受領 の一人。皆の手前、そういう訳にも行かない。
「この将門、坂東を支配し政 を行うことに意を決した。従って、この坂東の物、米一粒たりとも都に持ち去ることは許さぬ。そして、その為に都より遣わされた受領 共を、全 て都に追い帰すこととした。立ち去れ!」
と宣した。
弘雅 と完行 は無言でもう一度頭を下げ、立ち上がって、一度庁舎の方を振り返った。
恐る恐る様子を見ていた従者 達や女子供が、庁舎の中からぞろぞろと出て来る。
将門の兵達が見守る中、追われた一行は国衙 の門を潜り、顔を伏せるようにして、とぼとぼと歩き始めた。ついこの間、馬や輿 に乗り、供揃 えをして煌 びやかに下野 入りしたばかりの弘雅 と女 らは、寒風の中、惨 めに徒歩で下野 を後にすることになった。女達は袖で涙を拭う。
ふいに馬を返して門を出た将門が、
「完行 殿!」
と声を掛けた。振り返った完行 が馬上の将門を見上げる。そのまま少しの間、将門は完行 を見詰めていた。そして、
「気を付けて行かれよ」
とひと言だけ言った。それだけで完行 には、今は口に出来ない将門の想いが分かった。
完行 が黙って頭を下げ、それに答えるように、将門も馬上から僅かに頭を下げた。
命への
暫く行くと、右の二の腕に布を縛り付けて、道端に控えている男の姿が目に止まった。将門が右手を上げて隊列を止める。男は礼をして将門の近くに歩み寄った。
「
男は声を張って馬上の将門に報告をする。
「そうか、ご苦労。戻って引き続き探れ」
と将門が命じた。
「はっ」
と返事して、男が下がる。
「進め!」
将門の号令と共に、軍は再び動き出す。
不安と恐れの表情を浮かべて田畑から見守る民達の姿を横目で見ながら、将門軍は
門が開け放たれ、人っ子ひとり居ない
「秀郷め、又も逃げおりましたな」
「この
そう
「えっ?
と
「だからだ。それに三郎、今後、麿の
と将門は厳しく言った。
「はっ。分かりました」
将門は、秀郷の
「何だこれは? 最低でも、門を閉じての押し問答くらいは予想しておったのだが」
思わずそう漏らした。
「お
「兵を一人も損じずに済むのは良いが、何か薄気味が悪いのう」
「調べよ!」
二騎は左右に別れて双方向から、
「伏せ兵らしき姿は有りません」
「屋根、建物の陰に潜んで弓を構える者もおりません」
戻って来ると、それぞれ、そう報告した。
手前に軍をとどめ、
国庁の入り口の前に、正装に威儀を正した二人の男が立っている。
十歩ほど二人に近付いた所で歩みを止め、将門は馬上から二人を見た。
馬前に至ると二人とも地面に膝を突く。そして、神を崇めるが如く、地に付くほどに深々と三度頭を下げ、
「下野の
と
将門は無言で紫の布に包まれた
「顔を上げられよ」
そう言った将門と、顔を上げた
『そうか。
そう思って、感謝の念すら抱いた。本来なら、酒でも酌み交わしながら語り合いたいところだ。だが相手は、任が明けているとは言え、追放すると宣言した
「この将門、坂東を支配し
と宣した。
恐る恐る様子を見ていた
将門の兵達が見守る中、追われた一行は
ふいに馬を返して門を出た将門が、
「
と声を掛けた。振り返った
「気を付けて行かれよ」
とひと言だけ言った。それだけで