第23話 将門復活

文字数 5,630文字

 五月十一日、ほぼ己の言い分が通ったことに満足し、小次郎は帰郷した。しかし、不都合なことがひとつ起こっていた。脚気(かっけ)を発症していたのだ。
 (のち)に天下の謀叛人(むほんにん)として京人(みやこびと)に恐れられることになる小次郎だが、この時の上洛では、実質、罪を着ることが無かったばかりで無く、大歓迎を受けていた。
 向うところ敵無し、小次郎の不敗神話が形成されつつ有り、その噂は既に京の都にも届いていたのである。
 あちこちの公家に呼ばれては馳走(ちそう)になり『兵名を畿内に振い、面目京中に施し』意気揚揚と故郷に引き揚げて来たのである。
 全く受け入れられること無く、失意のうちに坂東に戻った頃のことを想うと雲泥の差が有った。
 小次郎は、心に突き刺さっていた(とげ)が抜け落ち、傷が(いや)されるのを感じた。だが、都は、やはり小次郎に取っては鬼門だったのだ。
 坂東に居て、玄米や雑穀も食している限り(かか)ることの無い(やまい)に侵されてしまった。もちろん、当時その因果関係が解明されていた訳では無いので、なぜ(かか)ったのか、小次郎自身には分からない。只、ついていないと思うのみだ。
 そんな訳で、馬に乗ることもままならなくなってしまった小次郎は、早く治さなければと思うのみで、兵を訓練する余裕も無くなっていたし、良兼(よしかね)らの動きを監視することも怠っていた。
 そんな中、恨みを(つの)らせ、着々と準備を進めていた良兼(よしかね)が、八月六日、再び戦いを仕掛けて来た。その少し前に、さすがに気付きはしたが、兵を集める暇も無くなっていた。
 前の戦いで懲りたのか、良兼軍は、衣川(きぬがわ)の上流を回るような面倒なことはせず、小貝川(こかいがわ)子飼(こが)いの渡しで渡り低湿地を進んで、豊田郡(とよだごおり)の本拠に正面から攻め寄せて来た。
 策は図に当たった。高望王(たかもちおう)良将(よしもち)の木像を先頭にして進んで来る連合軍に、小次郎の郎党達は明らかに動揺を示し、攻撃することが出来ない。その上、必ず陣頭指揮を取り、真っ先に突っ込んで行くはずの小次郎の姿がそこに無い為、兵達の意気も当然上がっていない。
 それは、貞盛にも感じられた。
『勝てる!』
 貞盛はそう確信した。時を掛けて訓練した成果も有るのか、相手の動揺を目にした兵達にも落ち着きが見て取れる。
「射よ!」
の号令と共に、良兼(よしかね)軍の矢が降り注ぐが、小次郎方は射返せない。
 小次郎が先頭に居て、
『ええい、退()くな~っ! たかが木像。不敬には当たらん。構わず射よ!』
とでも、兵を励ましていたら、或いは流れは変わったかも知れない。小次郎のカリスマ性は、既にその域に達していた。しかし、軍の先頭に小次郎の姿は無い。
「掛かれ~っ!」
 良兼の号令と共に、兵達は一斉に突撃を開始した。そしてなんと、あの将門軍が(もろ)くも崩れ去ったのだ。
 良兼(よしかね)軍は、豊田郡(とよだごおり)来栖院(くるすいん)常羽(いくは)御厩(みまや)(現・茨城県結城郡八千代町大間木~尾崎)始め、百姓(ひゃくせい)伴類(ばんるい)の家を焼いて廻った。
 この辺りには、下総国(しもうさのくに)大結牧(おおゆいまき)や小次朗が作らせた製鉄施設が有り、これは、小次郎の戦力を壊滅させる為の徹底的な焦土作戦となった。

 小次郎の焼き打ちを受けた途端に凋落してしまった源護(みなもとのまもる)に付いては何度か触れている。しかし、小次郎は、この時に於いても非凡であったのだ。
 八月十七日には、倍の兵力を集め、下大方郷(しもおおかたごおり)堀越渡(ほりこしのわたし)(現・茨城県つくば市大方)で良兼(よしかね)を待ち伏せた。
 だが、脚気(かっけ)が治っていなかった小次郎は、カリスマ的に軍を統率することが出来ず、再び敗れ去り、伴類(ばんるい)は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
 勢い付く良兼は、小次郎の本拠地である豊田郡(とよだごおり)を焼いて廻った。取り入れ間近な農作物も焼き払った。豊田郡は壊滅的な打撃を受けた。
 小次郎は、妻子を幸島郡(さしまごおり)葦津江(あしづえ)(ほとり)に舟に乗せて隠し、(みずか)らは山を背にした場所に潜んでいた。
 誰しもが『これで将門も終わり』と思うような絶望的な状況である。
 良兼(よしかね)勢は、翌八月十八日、小次郎に見せ付けるかのように、幸島郡(さしまごおり)の道を上総(かずさ)に向けて凱旋して行った。

 小次郎に取っての悪夢は更に続く。良兼(よしかね)側に兼ねて内通していた者の手引きで、()が生け捕りにされてしまい、二十日に上総(かずさ)へ護送されて行ったのだ。
 良兼(よしかね)の娘であるから殺される心配は無かったが、小次郎の怒りは頂点に達した。
 小次郎の()は、幸いにも、良兼(よしかね)の息子達。異母兄弟である公雅(きんまさ)公連(きんつら)の力を借りて脱出し、九月十日に豊田に送り届けられた。
 公雅(きんまさ)公連(きんつら)の兄弟は父を裏切った訳では無い。ただ、幼い頃から面倒を見て貰った腹違いの姉に同情していただけだ。さすがに自分達で姉を小次郎の(もと)に送り届ける訳には行かず、食客(しょっかく)藤原玄明(ふじわらのはるあき)に頼んだ。玄明(はるあき)は、乱行に寄って、常陸介(ひたちのすけ)との折り合いが悪くなり、常陸(ひたち)に身の置きどころが無くなって、上総(かずさ)に避難し、たまたま良兼(よしかね)(もと)に身を寄せていたのだ。
「分った。やりましょう。麿も、将門という男の(つら)、一度見てみたいと思うておったところだ」
 そう言って快く引き受けてくれた。
「済まぬ。この恩、生涯忘れぬぞ!」
 公雅(きんまさ)は深く頭を下げたが、良兼(よしかね)への義理に拘るような男では無い。謝礼次第で引き受けるに違いないとの読みが見事に当ったことに満足していた。

 ()を届けた時、小次郎は目に涙を(にじ)ませて玄明(はるあき)の手をきつく握った。
 粗食を余儀無くされたことが幸いして、脚気(かっけ)の症状がだいぶ軽減した小次郎は力を取り戻し、散っていた兵達が小次郎の(もと)に再び集まり始めた。これは、驚嘆すべきことである。
 つまり、将門軍の強さは、全て小次郎の個人的資質に由来しているということなのだ。例え(すべ)てを失ったとしても、小次郎が健在である限り、奇跡は再び起こると皆が信じていればこそ、集まって来た。そこが、途端に没落してしまった源護(みなもとのまもる)との決定的な違いなのだ。

 千八百の兵を集めた小次郎。良兼(よしかね)常陸国(ひたちのくに)真壁郡(まかべごおり)羽鳥(はとり)(やかた)に出向いたという情報を得て再起の軍を(おこ)したのは、()を取り戻してから十日も()たない九月十九日のことである。

 小次郎が再起したという情報を得て、良兼は筑波山の東に有る弓袋山(ゆぶくろやま)の南に陣を敷いて待ち構えた。季節は収穫期、稲を泥に踏み込みながらの戦いとなった。小次郎有利な展開となったが、良兼(よしかね)を追い詰めることまでは出来なかった。
 再び小次郎に風が吹き始めた。承平(じょうへい)七年(九百三十七年)十一月五日。良兼(よしかね)らに追捕(ついぶ)官符が下ったのだ。 
 先程も述べた通り、(これ)(すなわ)ち忠平の意向である。様子を見ていた忠平が、小次郎が再起したのを知って、後押(あとお)しの手を打ったものだ。
 上総介(かずさのすけ)の任に()りながら、私的遺恨を晴らそうと兵を集め、他国の国府に侵入したばかりで無く、官牧(かんぼく)である常羽(いくはの)御厨(みくりや)を焼き払ったことの罪を重く見ていた。
 追捕(ついぶ)の対象は、良兼(よしかね)、その子・公雅(きんまさ)公連(きんつら)源護(みなもとのまもる)並びに貞盛(さだもり)秦清文(はたのきよふみ)となっており、近隣諸国の国司に対して、小次郎をして良兼(よしかね)らを追捕(ついぶ)させるので協力せよ、との官符である。
 ところが、そんな追捕官符一枚で慌てふためいて協力する程、坂東の在庁国司達は素直では無い。じっと様子を見ているだけで、一向に動こうとしないのだ。
 忠平をしても、坂東の経営は難しい。だからこそ、忠平は一本気な小次郎に目を着けたのだ。
 十二月になって、危機感を募らせた良兼(よしかね)が動いた。小次郎に(つか)え、農事の(かたわ)ら、農夫を使って小次郎が築いた石井営所(いわいのえいしょ)(現・茨城県坂東市岩井千六百三の一)で荷運びの仕事をしていた駆使(くし)丈部(はせつかべの)子春丸という男が居た。下総国(しもうさのくに)豊田郡(とよだごおり)岡崎村(現・茨城県結城郡八千代町尾崎)に私宅を持ちながら、石田荘(いしだのしょう)の田屋に通っていたと言うから、駆使(くし)とは言っても底辺に生きる者では無い。女が居たのだろう。
 良兼(よしかね)は、女を使ってこの子春丸に罠を仕掛け、脅した。そうして置いて、相手が十分に恐怖心に駆られているのを確認した上で、
「言うことを聞けば、許すばかりでなく褒美も与えよう」 
と誘ったのだ。
 練絹(ねりぎぬ)一疋(いっぴき)を与え『内応すれば、乗馬の郎党に取り立ててやる』と約束した。子春丸は良兼(よしかね)の策に(はま)った。

 この頃、小次郎の本拠は豊田(とよだ)(現・茨城県常総市豊田(向石下))であるが、鎌輪(かまわ)(現・茨城県下妻市鬼怒)、石井(いわい)にも営所を持っていた。この時、小次郎は石井営所に移っていた。
 良兼(よしかね)は、農夫ひとりを子春丸に与えた。実は、良兼の密偵である。
 翌朝、子春丸は農夫を連れ、炭を(にな)って石井(いわい)営所に行った。作業は泊まり込みになる場合が多い。一日二日宿泊しているうちに、農夫に化けた密偵に、武器の置場、小次郎の寝所、東西の馬場、南北の出入口を(ことごと)く見せた。
 この上無い情報を得た良兼(よしかね)は、十二月十四日の夕方、石井(いわい)営所に向けて、一騎当千の兵八十騎ばかりを率いて侵攻した。
 亥刻(いのこく)(午後十時)頃、結城郡(ゆうきごおり)方城寺(ほうじょうじ)の辺りに至る。
 良謙(よしかね)は、最後の段取りの確認を兼ねて、ここで休憩を取ることにした。

 藤五と呼ばれる小次郎の郎等が居る。藤原五郎(なにがし)と言うのが本名なのだろうが、縮めて『藤五』と呼ばれているのだ。藤五は良将(よしもち)時代からの郎等で、陸奥(むつ)にも行っていた猛者(もさ)である。
 兼ねてから患っていた伯父が危篤に陥ったと言う知らせを受けて駆け付けたが、その伯父が息を引き取った為、葬儀の相談などをしていて帰りが夜になってしまった。
 方城寺(ほうじょうじ)の辺りに差し掛かった時、チラチラと灯りが見える。用心しながら少し近付いて見ると、大勢の武者が(たむろ)っている。馬が小さく(いなな)く声、(よろい)の擦れる音。人の話し声も耳に入って来た。
『これは、只事では無い』
 藤五は下馬し、松明(たいまつ)の火を消し、馬を引いて一団に近付いて行く。薄雲が掛かってはいるが、満月に近い月が出ているし、勝手知った道。松明(たいまつ)を消しても(さわ)りは無かった。
 間も無く、一団が動き出した。三つほど(とも)っていた松明(たいまつ)の火が次々と移され、火を持った武者逹が乗馬して行く。
「良いか。此度(こたび)こそは、必ず小次郎を討ち取る。良いな、続け」
 圧し殺した声ではあるが、静寂の中で響いた。
 じっと(ひそ)んでいた藤五も乗馬し、列に近付いて最後尾に着く。甲冑(かっちゅう)姿の武者逹の中に、直垂(ひたたれ)姿の男が一人。誰かが振り向けば直ぐに気付かれる。だが、誰もが間も無く始まる命を懸けての戦いに意識を集中させており、藤五に気付く者は元より、振り向く者さえ居ない。無言の一団は(しゅくしゅく)々と進んで行く。

 鵝鴨(かも)の橋を渡ったところで藤五は列を離れ、林を抜ける近道に入つて、駆け出した。
「注進! 夜襲、夜襲だ!」
 藤五は、そう叫びながら石井(いわい)の営所に飛び込んで行く。
 とっくに就寝していた小次郎と郎等逹が、間も無く飛び出して来た。その数、(わず)か九人。藤五を入れても十人である。
「敵は騎馬武者多数。お逃げ下さい。一刻も早く」
 藤五がそう訴える。
「待て! 馬に鞍を置くなど手間取っておれば、逃げ切れぬ。皆、有るだけの矢を持って屋根に登れ。引き付けて、松明(たいまつ)の火を狙って射まくるのだ。良いな!」
「おう」
と返事をすると、皆一旦中に戻り、(えびら)に入った矢束を積み上げ、先に屋根に登った者が下ろす縄に結びつける。そうやって引き上げた矢束を脇に置き、皆が弓を持って待ち構えた。

 間も無くチラチラと松明(たいまつ)の火が見え始め、(ひづめ)の音が徐々に近付いて来た。
 一隊を敷地内に呼び込んでから射始めた方が効率は良くなるが、松明(たいまつ)を投げ込んで、焼き討ちを掛けて来るかも知れない。
『門前で一度隊を止めて、号令を掛けるはず。その時を置いて外に無い』
 小次郎は、そう考えた。

 門前に至り、右手を挙げて、良謙(よしかね)が隊列を止めた。その時、小次郎の声が響いた。
「今だ! ()よ!」
 松明(たいまつ)を持った者を含めて、七、八人が射落(いおと)とされる。驚いた良謙が振り向く。
 だが、それだけでは終わらない。
 屋根の上の小次郎逹は、次から次に矢を放って行く。『太刀打ちに移った時、これだけの人数を相当数減らして置かなければ、とても勝てない』そう思っているから、()(かく)必死になって、次から次へと射続ける。射落とされる者が、十人、二十人と増えて行く。

 野本の戦いの時もそうであったが、奇襲を掛けようとした者が逆に奇襲を受けたのだ。混乱はより激しくなる。
「ええぃ。一旦退()け」
 良謙(よしかね)が、撤退を命ずるのは、これで何度目だろうか。馬首を返して撤退に掛かる。

 屋根から下りた小次郎逹は、乗り手を失った馬を捕まえて、追撃に掛かる。
 やはり、小次郎は強かった。逃げ出した良兼(よしかね)軍を追撃し、良兼の上兵・多治(たじの)良利(よしとし)を始め多くの武者を射殺(いころ)した。良兼(よしかね)軍は、結局八十人中三十余人を殺され、他は逃げ散った。

 相手は襲う場所の詳細な情報を、事前に手に入れた上で急襲して来たににも関わらず、小次郎逹は、八十名の乗馬の精兵を(わず)か十名ほどで撃退してしまったのだ。有り得ない結末だった。  

 またひとつ、小次郎の不敗神話が増えた。(やまい)を患っていた小次郎が負けたことは、仕方無いことと思われるようになっていた。

 いずれの戦いにも、貞盛(さだもり)は良正と共に参戦していた。今回の戦いは、今迄の戦いとは違い、雑兵(ぞうひょう)を指揮しての戦いでは無く、それぞれの郎党と与力の土豪らの騎馬武者のみで襲撃を掛けたのである。さすがに高齢の(まもる)には外れて貰った。
 結果は、急報を受けて待ち構えていた、小次郎を含むたった十人ほどの武者に打ち負かされてしまったのだ。
 高望王(たかもちおう)の木像を掲げる策が当たって勝ったのも(つか)()、小次郎を討ち漏らしたが為に弓袋山(ゆぶくろやま)で反撃され、また今回は、下調べをし、策を駆使して小次郎を急襲したにも関わらず惨敗した。貞盛は希望を失った。そして承平(じょうへい)八年(九百三十八年)『やはり、(みやこ)に戻ろう』と心に決めたのである。

 その頃小次郎は、高望王(たかもちおう)と父・良将(よしもち)の木像を掲げたのは、貞盛(さだもり)の進言によるものだったと言う噂を耳にした。敵軍に加わってはいたが、小次郎は貞盛(さだもり)に対する信頼を完全に捨てていた訳では無かった。敵が和睦を求めて来た場合には、交渉相手として貞盛(さだもり)を指名しようとさえ思っていたのだ。
 しかし、父の木像が貞盛(さだもり)の進言によって掲げられたとの噂を聞いた途端、信頼感は消滅し、激しい怒りへと変わったのである。

 貞盛が都へ向かったことを知った小次郎は、すぐさま、百騎を従え、追撃を開始した。
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