第19話 良兼出陣
文字数 3,500文字
今や父・国香 に代わって氏 の長者 、即ち一族の長 たる立場に在 る良兼 なら、当然一族の利益を優先するだろうとの読みが見事に外れた。
己には人を説き伏せる才が有るとの過信から、つい言い過ぎてしまったことが、貞盛 を苦境に追い詰めて行くこととなった。しぶしぶ挙兵に同意した貞盛だったが、やるからには勝たねばならない。戦 では、兵力ばかりでは無く、敵の心を読みその裏を掻 くことで勝利が得られる場合も多い。
『一騎打ちなら兎 も角 、ひとの心を読むことに於いて、小次郎に退 けを取るはずが無い』
そう思って良正を加えた軍議の席で、貞盛 は良兼 に策を献じようとした。
「兵は多いに越したことは御座いませんが、特に雑兵 などは、心の持ちように因って、強兵にも弱兵にも成り得ます。我等に義が有ることを、ひとりひとりに至るまで信じていれば強兵となりましょう」
貞盛はそう説 こうとした。
「ふふ。貞盛、誰に物申しておるのか? そのようなこと、今更、そのほうに言われるまでも無く、麿も良正も疾 うに承知しておるわ。
出陣に際しては、我等に義が有ることを説 き、氏 の長者たる吾に背 いて、我等の立場を危うくしている将門を討って、祖・高望王 の残されたものを守らねばならぬことを、良っく言って聞かせるわ。
そのようなこと心配せず、黙って麿の下知 に従っておれば良い」
良兼 にそう遮られてしまった。
「そうじゃ、貞盛、そなたは戦 に慣れておらぬ。ここは、兄上にお任せするが良い」
と良正も被 せて来た。
『形として、もっと誰の目にもはっきりと分かるようにしなければなりません』
と言いたかったが、良兼 は、国香 の後を受けて、自らが氏 の長者たるべきことを示そうという強い欲望に駆られていた。貞盛の提言に、もはや耳を貸そうとはしない。良正とて、良兼の力を借りて敗戦の雪辱を晴らしたい一心である。貞盛の言い分など、臆病者の寝言としか聞こえない。
軍議は専 ら良兼 主導で進められ、貞盛 が口を出す余地は無くなっていた。
「良正」
と良兼が呼び掛ける。
「はっ」
と緊張した表情で良正が返事する。
「小次郎め、たまたま勝ちを拾ったことで図に乗っておる。兵も集まっていると聞くが、我等が力を合わせて掛かればどれほどのことも無い。吾には策も有る。任せておけ」
良兼 は自信たっぷりに、そう言い切った。
「はっ。お力添え頂き、忝 なく思っております」
と良正は低頭する。
「うん。後は黙って麿の下知 に従っておれば良い。国許 に立ち戻って、早急に軍備を整える。その方らも抜かり無く準備して、我が下知 を待つが良い」
と二人に言ってから、良兼は、改めて貞盛を見据えた。そして、
「貞盛、良いな。亡き兄上の名を汚すような所業は許さぬぞ」
と釘を差した。
「ご案じ無く。やると決めたからには,勝つ為に全力を尽くします」
もう、そうするしか無いと腹を決めた貞盛の口からも力強い言葉が出た。
「うん。その心忘れるで無い」
良兼 が満足気に頷 いた。
良兼が兵を集めているという情報を、小次郎は早くから掴んでいた。
「そなたの父上と戦うことになるかも知れぬ」
夜具の用意をしている君香に、小次郎がボソッと言った。君香は手を止めて、少し空 を見詰めていた。やがて、小次郎を見る。
「水守 の伯父と争った時から、覚悟はしておりました。父を説得して止 めさせることも出来ず、申し訳無く思うております」
君香は、そう言って頭を下げた。
「父上の意に背 いて麿 の妻 となってくれたのだ。そなたにその役を求めたりはせぬ。
実は、太郎(貞盛)と連絡を取っており、そなたの父を止めてくれることに少しは期待しておったのだが、どうやら取り込まれてしまったようだ。
使いもぱったりと来なくなり、こちらの密使も石田に近付けなくなった。そこへもって来て、上総 で、かなり大規模に農夫を徴発しているという報 せが入って来た。水守 の伯父が泣き付いたのであろうが、出来れば避けたかった」
小次郎は、そう言って小さく息を吐いた。
「最早 麿はこの家 の者、お舘 の妻 に御座います。麿へのお気遣いの為、後手を踏まれること無き様 お願い致します」
「以前からの揉 め事とは、此度 は訳が違う。そなたの父か麿の、何 れかが死ぬ事になるかも知れぬ」
「お舘 のご無事を祈るのみに御座います」
小次郎は少し目を閉じ、その後、歩み寄って君香の肩を抱いた。
四年前から、小次郎は、積極的に浮浪人たちを取り込み、新田開発などに投入して来たが、荒々しい者逹を選んで戦闘訓練もしていた。四年の間に稔りを齎 す田畑も少しづつ増えて来た。略奪に頼らなくとも食料を補給することは出来る。
その上、源護 の勢力を壊滅に追い込んで以来、手土産 持参で将門と誼 を通じようとする土豪逹が急に増え、良正を破った後には更に増えた。
また、流れ込んで来る浮浪人逹も、農夫ではなく、その殆どが荒くれ者に変わって来ていたが、将門の名を恐れ、勝手な振る舞いをする者も殆どいない。
些細な揉 め事の仲裁を頼まれる機会も増え、小次郎の仲裁と聞いただけで、その多くが解決に至り、礼物 も入るようになった。一言 で言えば、小次郎の勢力は飛躍的に拡大し、戦力も増していた。
最早 小次郎は、都で出世も出来ず戻って来た無冠の若造などではなく、力の有る有力者の一人となっている。
そんな事実を冷静に把握することもせず、情念だけで戦いを挑んだ良正が敗れたのは、謂 わば必然と言える。
「他人の揉め事は仲裁出来ても、己 のものは未だ解決に至らぬ。だらしの無いことよのう」
小次郎は、良くそんなことを言って、郎等逹を笑わせていた。
翌、承平 六年(九百三十六年)六月二十六日、良兼は三千の大軍を集めて挙兵した。
将門の当時の本拠地は下総国 ・豊田郡 ・鎌輪 (現・下妻市)であり、良兼 の舘 は、上総国 ・武射郡 (現・千葉県山武郡)に有った。
普通ならば、良兼 は南又は東から、良正と貞盛 の連合軍が北から、将門の本拠地・鎌輪 を攻めて、挟み撃ちにする作戦になるだろう。しかし、何故か本格的な戦いは、遙か北、下野 との国境 近くで始まるのだ。
良兼 は、常陸国 ・真壁郡 の羽鳥 (現・茨城県桜川市真壁町羽鳥)にも領地を有しており、舘も持っていた。
筑波山の北になるこの辺りは、源護 と平真樹 が鎬 を削っていた地域に隣接しており、護 の凋落 後は、正に濡れ手に泡といった感じで真樹 に侵される心配が有った。
真樹 に圧力を掛けようとしたのか、或いは、良正、貞盛 の連合軍が真樹 に背後を衝 かれることを恐れたのか、良兼 は北上したのである。
或いは又、威風堂々の行軍をすることで、周りの土豪達に『上総介 殿が乗り出して来たからには、将門に着いても勝ち目は無い』と思わせるのが狙いだったのか、それは、分からない。
まずは北上して、下総 の香取(現・千葉県香取市)に進軍した。ここから西北に進めば、将門の本拠地・豊田郡 に至るのだが、大軍は西には進まず、『香取 の湖 』を渡り常陸国 ・信太郡 (現・茨城県稲敷郡)に至った。
『香取 の湖 』とは、当時の常陸国 南部から下総国 北部に渡って存在した巨大な湖のことである。
現在の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を含んでなお余り有る大きさを持った湖沼 で、海のように広がっていたのだ。湖、沼、川が入り組んで繋がっているような形状で、円形や楕円形では無い。
水守 か石田に集結して、護 、良正、貞盛 らと合流し、平真樹に対する手配 りをした上で、一挙に南下して将門を討つ心積もりだったのだろう。
軍は桜川沿いに水守 に向かった。ところが、そんな行軍に恐れを成したり、指を銜 えて見ていたりするような小次郎では無かった。
将門は、僅か百騎ほどで、良兼 の軍に奇襲を掛けたのだ。
広い街道では無い。狭い田舎道に長く延びた隊列の中程 を分断するように駆け抜けて、また、風のように去ってしまった。
十七人を殺し、五十名ほどの者に深傷 、浅傷 を負わせた。
軍全体から見れば些細な損害である。しかし、兵達に恐怖心を植え付ける為には十分な攻撃であった。何しろ軍とは言っても、狩り出されて碌 に訓練も受けずに連れ出された農夫達が殆どなのだ。奇襲を受けた途端に混乱が広がり、僅 か百騎の将門軍を包囲することも追撃することも出来なかった。
小次郎が去った後、その恐怖心は隊の前後にじわじわと伝染して行き、今まで胸を張って行進していた大軍が、まるで落ち武者のように、きょろきょろと周りを気にして足早に歩こうとする、その為、前を行く兵にぶつかってしまう者が続出する有様となった。
早く将門の領地近くから離れたかったのだろう。隊列は乱れに乱れながら北に向かった。
己には人を説き伏せる才が有るとの過信から、つい言い過ぎてしまったことが、
『一騎打ちなら
そう思って良正を加えた軍議の席で、
「兵は多いに越したことは御座いませんが、特に
貞盛はそう
「ふふ。貞盛、誰に物申しておるのか? そのようなこと、今更、そのほうに言われるまでも無く、麿も良正も
出陣に際しては、我等に義が有ることを
そのようなこと心配せず、黙って麿の
「そうじゃ、貞盛、そなたは
と良正も
『形として、もっと誰の目にもはっきりと分かるようにしなければなりません』
と言いたかったが、
軍議は
「良正」
と良兼が呼び掛ける。
「はっ」
と緊張した表情で良正が返事する。
「小次郎め、たまたま勝ちを拾ったことで図に乗っておる。兵も集まっていると聞くが、我等が力を合わせて掛かればどれほどのことも無い。吾には策も有る。任せておけ」
「はっ。お力添え頂き、
と良正は低頭する。
「うん。後は黙って麿の
と二人に言ってから、良兼は、改めて貞盛を見据えた。そして、
「貞盛、良いな。亡き兄上の名を汚すような所業は許さぬぞ」
と釘を差した。
「ご案じ無く。やると決めたからには,勝つ為に全力を尽くします」
もう、そうするしか無いと腹を決めた貞盛の口からも力強い言葉が出た。
「うん。その心忘れるで無い」
良兼が兵を集めているという情報を、小次郎は早くから掴んでいた。
「そなたの父上と戦うことになるかも知れぬ」
夜具の用意をしている君香に、小次郎がボソッと言った。君香は手を止めて、少し
「
君香は、そう言って頭を下げた。
「父上の意に
実は、太郎(貞盛)と連絡を取っており、そなたの父を止めてくれることに少しは期待しておったのだが、どうやら取り込まれてしまったようだ。
使いもぱったりと来なくなり、こちらの密使も石田に近付けなくなった。そこへもって来て、
小次郎は、そう言って小さく息を吐いた。
「
「以前からの
「お
小次郎は少し目を閉じ、その後、歩み寄って君香の肩を抱いた。
四年前から、小次郎は、積極的に浮浪人たちを取り込み、新田開発などに投入して来たが、荒々しい者逹を選んで戦闘訓練もしていた。四年の間に稔りを
その上、
また、流れ込んで来る浮浪人逹も、農夫ではなく、その殆どが荒くれ者に変わって来ていたが、将門の名を恐れ、勝手な振る舞いをする者も殆どいない。
些細な
そんな事実を冷静に把握することもせず、情念だけで戦いを挑んだ良正が敗れたのは、
「他人の揉め事は仲裁出来ても、
小次郎は、良くそんなことを言って、郎等逹を笑わせていた。
翌、
将門の当時の本拠地は
普通ならば、
筑波山の北になるこの辺りは、
或いは又、威風堂々の行軍をすることで、周りの土豪達に『
まずは北上して、
『
現在の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を含んでなお余り有る大きさを持った
軍は桜川沿いに
将門は、僅か百騎ほどで、
広い街道では無い。狭い田舎道に長く延びた隊列の
十七人を殺し、五十名ほどの者に
軍全体から見れば些細な損害である。しかし、兵達に恐怖心を植え付ける為には十分な攻撃であった。何しろ軍とは言っても、狩り出されて
小次郎が去った後、その恐怖心は隊の前後にじわじわと伝染して行き、今まで胸を張って行進していた大軍が、まるで落ち武者のように、きょろきょろと周りを気にして足早に歩こうとする、その為、前を行く兵にぶつかってしまう者が続出する有様となった。
早く将門の領地近くから離れたかったのだろう。隊列は乱れに乱れながら北に向かった。