第45話 天命 2

文字数 5,726文字

 翌日、介の藤原尚範(ふじわらのひさのり)を既に追放し、印鎰(いんやく)を押収したことを告げると、籠っていた者達はあっさりと(くだ)った。
 国衙(こくが)を接収した将門は、入れる限りの者達を国衙(こくが)に入れ、改めて、多くの者達の前で、神託を再現した。
 痙攣状態の巫女が「(ちん)(くらい)蔭子(おんし)・平将門に授ける。その位記(いき)(位階を授けるときに与える文書)は、左大臣・正二位(しょうにい)菅原朝臣(すがわらあそん)の霊が捧げる処である。右の八幡大菩薩は、八万の軍を(もよう)して(ちん)(くらい)を授かるであろう。今、(ただ)ちに、三十二相楽(さんじゅうにそうがく)(かな)でて、速やかにお迎え申し上げよ」
と告げ位記(いき)(かざ)す。

 将門は位記を頭上に(うやうや)しく捧げ持って拝礼し、興世王(おきよおう)玄茂(はるもち)らが称号を奏上。将門を名付けて『新皇(しんのう)』と称した。
 驚愕と興奮が、居並ぶ者達の間に伝播して行く。どよめきが鎮まるのを待って、将門が語り始めた。
「我等は既に反乱軍では無い。天命に因り世の乱れを正す、新たなる皇軍である。我等は八幡大菩薩の御加護を受ける身。運悪く肉体を失う者も、その霊魂は浄土へと導かれるであろう。天命を信じ、持てる力の全てを尽くし、働くが良い」
 将門が語り終えると、一拍置いて、
「お~!」
と言う雄叫(おたけ)びが上がり、再びどよめきが広がって行く。
 (ちな)みに八幡神は、日本土着の神祇(じんぎ)信仰と仏教信仰が混淆(こんこう)し、一つの信仰体系として再構成された神仏習合の形態を取り、神でありながら菩薩でもある。それが、この時代に於ける八幡神の共通認識であったと思われる。

 どよめきの静まるのを待って、除目(じもく)が行われた。以下が読み上げられる。
 下野守(しもつけのかみ) 平将頼(たいらのまさより)将門舎弟(まさかどしゃてい)
 上野守(こうづけのかみ) 多治経明(たじのつねあき)常羽御廐別当(とこはみくりやのべっとう)
 常陸介(ひたちのすけ) 藤原玄茂(ふじわらのはるもち)常陸掾(ひたちのじょう)
 上総介(かずさのすけ) 興世王(おきよおう)武蔵権守(むさしのごんのかみ)
 安房守(あわのかみ) 文屋好立(ふんやのよしたつ)(上兵)
 相模守(さがみのかみ) 平将文(たいらのまさぶみ)将門舎弟(まさかどしゃてい)) 
 伊豆守(いずのかみ) 平将武(たいらのまさたけ)将門舎弟(まさかどしゃてい)
 下総守(しもうさのかみ) 平将為(たいらのまさため)将門舎弟(まさかどしゃてい)

 前夜の打ち合わせに於いて、興世王(おきよおう)は、経験が有るとの理由で、当初、武蔵守(むさしのかみ)を望んだ。だが、将門は、武蔵守に付いては腹案を持っていた。秀郷(ひでさと)を待っていたのである。下野守(しもつけのかみ)とするのは、秀郷(ひでさと)の力を更に増すことになるので危険と思った。そこで武蔵守をと思ったのだが、(いま)だ参陣していない秀郷(ひでさと)を指名すれば、物議を(かも)すことになる。その為、武蔵守に付いては、敢えて空席とした。しつこく聞いて来る者が有れば、当面自分が兼務すると言い(つくろ)うつもりでいたが、仮にも(みかど)を称した為か、問い詰めて来る者はいなかった。それに、興世王(おきよおう)を武蔵守にはしたく無かったのだ。
 武芝(たけしば)との間で和議が成ったとは言っても、民は興世王(おきよおう)の所業を忘れてはいない。上手く行く訳が無いと思った。
 興世王(おきよおう)にしてみれば、武蔵守を拝して、貞連(さだつら)を追放することが出来たらどんなに気分が良いだろうかと思ったが、皆の手前、今の将門に表立って強く要求することは出来ない。作り上げようとしている権威に自ら水を差すことになるからだ。
 もうひとつ、皆の意見を抑えて、将門が己の考えを通した部分がある。都の朝廷に(なら)って親王任国の長官を『介』としたことだ。
 これに付いては、異論も多く有ったはずだが、やはり、表立って反対する者は居なかった。
 しかし将門は、結果としてひとつの例外を作ってしまった。当初、四郎・将平(まさひら)上野介(こうづけのすけ)とするつもりだった。しかし、夜半より将平(まさひら)の所在が掴めなくなっている。除目(じもく)に際してやむを得ず、上に上野守(こうづけのかみ)として多治経明(たじのつねあき)を据えた。将平(まさひら)が出て来れば、そのまま上野介(かずさのすけ)とし、多治経明(たじのつねあき)は異動させるつもりであった。最初の構想では、経明(つねあき)蔵人頭(くろうどのとう)として手元に置くつもりでいたのだが、将平(まさひら)の失踪を受けて急遽上野守(こうづけのかみ)としたのだ。だから、飽くまで繋ぎの処置で、太守(たいしゅ)である親王の権益を侵すつもりなど毛頭無かった。

 その将平(まさひら)は、八幡宮から戻った日の晩、密かに伊和員経(いわのかずつね)と会っていた。
員経(かずつね)。良う言うてくれた。お聞き届け頂くことは出来なかったが、兄上のことを思うてのそのほうの諫言、麿から礼を申す。そのほうこそ、兄上の真の忠臣じゃ」
「勿体無いお言葉、感じ入ります。しかし、お心が分かっていれば、もっと早く将平(まさひら)様にご相談申し上げるべきでした。(やつがれ)如きが申し上げるべきでは無いと堪えておりましたが、間違っておりました。遅過ぎました」
 員経(かずつね)は悔やんでいた。
「いや、罪は麿に有る。(いくさ)に明け暮れるようになってから、兄上と話すことが少なくなっていた。もっと話すべきであったのだ。兄上をあのように導いたのは、やはりあの男か?」
 員経(かずつね)が黙って頷く。
「麿は、これ以上兄上に着いて行くことは出来ぬ。(たもと)を分かつことにする。どうする? 麿に着いて来るか?」
 員経(かずつね)は首を横に振った。
「いえ、例えどのようなことに成ろうとも麿は、命尽きるまでお(やかた)様の(そば)におるつもりで御座います」
 将平(まさひら)に、そう決心を伝える。
「そうか。ならば、他人(ひと)に見られぬうちに戻れ。兄上のこと、頼み置く。お考え承服出来ぬとは言え、麿とて兄上のご無事を願う心に変わりは無い。大事を耳にすれば、そなた宛に使いを送る。その時は、兄上の耳に入れてくれ」
(かしこ)まりました」

 甲斐(かい)信濃(しなの)の国府と連携を取り、将門と対抗することを模索していた百済王(くだらのこにきしの)貞連(さだつら)が、上野(こうづけ)陥落と将門が除目(じもく)を行ったことを耳にし、遂に逃亡した。
 将門の側近に興世王(おきよおう)が居ることを考えると、己が興世王(おきよおう)にした仕打ちを省みれば、他の国司達のように追放だけで済むとは思えなかった。興世王(おきよおう)は執拗に貞連(さだつら)を殺す事を求めるに違いない。そう考えた。

 以後、坂東の情勢は、信濃(しなの)からのみ、都に(もたら)されることになる。伊豆守(いずのかみ)相模守(さがみのかみ)は、常陸(ひたち)での将門の蜂起を知った後、早々と逃亡している。常陸(ひたち)とは離れているが、以前より、将門の弟で良将(よしもち)の六男である将武(まさたけ)が伊豆、相模(さがみ)に勢力を広げていた為、危機感を抱いたのだ。
 安房守(あわのかみ)は、上野(こうづけ)陥落後、海路、伊勢に向けて逃亡。貞連(さだつら)の後任の上総介(かずさのすけ)は、まだ赴任していなかった。

 その頃、都は大騒ぎになっていた。庶民の間では、将門が数万の大軍を率いて明日にでも都に攻め上って来るかのような噂が飛び交っていた。そして、その噂が貴族達をも怯えさせる。
 私闘を戦っていた頃、上洛し、都で持て囃された将門の噂を皆覚えている。実際には負け戦も有ったが、噂としては無敵の猛将である。その将門が謀叛を起こしたとなれば、明日にでも都が火の海になるのではないかと皆恐れるのだ。

 遠く離れた都での噂は、将門の実態とは掛け離れたものになっている。確かに将門は強かった。それは、源扶(みなもとのたすく)らに常陸(ひたち)の野本で待ち伏せされた時の戦闘や、八十人もの騎馬武者に石井(いわい)の営所を急襲された時、僅か十人ほどの人数を率いて打ち破っていることを見ても明らかだ。ただ、軍を率いての戦闘となると、将門が強かったと言うより、いずれも、呆れるほど相手が弱かったと言わざるを得ない。
 どの物語を読んで見ても、ここに登場するような、弱くてだらしない軍が登場することは無いだろう。情けないとさえ思える程だ。
 何度も述べている通り、平安初期に国軍が廃止されて以来、それまで、定期的に行われていた農民兵の軍事訓練は全く行われなくなって久しい。そう言ういわゆる一般人が、志願した訳でも無いのに、碌な訓練も無しに、突然戦闘に狩り出される。自分の身に置き換えてみれば、その恐怖心たるや想像出来る。
 時代や(いくさ)に関する考え方は相当違うにしても、命の危機に際しての人の反応に、そんなに大きな違いは無いと思う。普通の人が、敵を殺し、命の危険を顧みず戦えるように成るには、相当な教育と訓練の繰り返しが必要なのだ。その目的で行われるのが軍事訓練であるのだが、それが全く無かったし、農民兵達には目的も無い。ただ、己の身に起きた不運を嘆くばかりである。だから、ちょっとしたことで逃げるのは当然なのだ。
 国軍を廃止する代りに、少数精鋭を標榜して設けられたはずの健児(こんでい)にしても、時代を経るに連れ形骸化し、張り子の虎となっている。寄せ集めの土豪達に忠誠心などは無く、一旦不利と見れば、迷うこと無く逃げ去ってしまう。そして、こんな連中で構成される軍を指揮する受領はと言えば、軍人では無く文官なのである。戦闘経験、指揮経験も殆ど無い。初めから、まともな(いくさ)など出来る訳が無いのだ。もはや軍とさえ言えない。そう言う意味で、実際のところ、秀郷(ひでさと)らと戦うまでの将門の指揮能力に付いては未知数と言っても良かった。

 将門謀叛の噂が飛び交うと、それ迄も悪かった都の治安は更に悪化した。盗賊団が昼間から我がもの顔で洛中を闊歩し、荒らし回る。火付けも頻発し、いつ御所(ごしょ)が焼けるかも知れないと言う有様だ。公卿(くぎょう)達の中にも、財宝を密かに運び出し、どこぞに隠そうとする者が表れる。その数、ひとりやふたりでは無い。
 そんな折、信濃(しなの)の国司より、将門が下野(しもつけ)上野(こうづけ)を制し、国司を追放して印鎰(いんやく)を奪ったばかりで無く、新皇(しんのう)と称し除目(じもく)を行ったらしいということが報告される。
 忠平に取っては、将門謀叛の報せ以上の衝撃であった。朝廷の権威を根底から揺さぶり兼ねない。その上、藤原純友(ふじわらのすみとも)の部下の藤原文元(ふじわらのもとふみ)備前介(びぜんのすけ)藤原子高(ふじわらのたねたか)播磨介(はりまのすけ)島田惟幹(しまだのこれもと)摂津国(せっつのくに)須岐駅(すきのえき)(現・兵庫県芦屋市付近)で襲撃し、純友(すみとも)も謀叛に踏み切ったとの報せも入って来る。
 何を優先するべきか。忠平は究極の判断を迫られていた。
 都には、官位を得られずに欝々とした日々を送っている、主に五位相当の地方豪族の子弟が数多く居ることを、忠平は承知していた。本来なら、蔭位(おんい)(*2)として得られるはずの官位、官職を得られず、公卿(くぎょう)達に無償で奉仕しているのは、それより他に出世の道が全く無いからに他ならない。それを、将門は骨の髄まで承知している。
 もし将門が都に向けて進撃を開始し、その途上でそれらの者達の親である土豪に、息子達に官位・官職を授けると言って取り込んで行ったら、全国の(つわもの)共が雪崩を打ったように将門の(もと)に集まるということも起こりうるのだ。
 さすがに忠平は、庶民や多くの公家(くげ)達のように、将門が明日にも攻め上って来るなどとは思わない。だが、長期的に見れば、将門の謀叛が成功する可能性が、決して小さいものでは無いことを予見していた。そして、将門を討つことが何を置いても最優先の急務であると決心したのだ。
 何としても純友(すみとも)を懐柔し、和議に持ち込むこと。もはや崩壊してしまった坂東諸国の国府軍に代えて、速かに将門追討軍を送ること。民心の安定を図る為、諸国の神社・仏閣に将門調伏の祈祷を命じること。将門の謀叛が現実化してしまった今、誣告(ぶこく)の罪で受牢している源経基(みなもとのつねもと)を、ただちに解き放ち、その名誉を回復した上、褒章を与えること。
 忠平は、それらの施策を次々に打ち出し、太政官(だじょうかん)をして驚くほどの速さで実行させて行った。
 ただちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、天慶(てんぎょう)三年(九百四十年)一月九日には、源経基(みなもとのつねもと)が賞されて従五位下(じゅごいのげ)に叙された。
 一月十九日には参議・藤原忠文(ふじわらのただふみ)が征東大将軍に任じられ、追討軍を募りながら坂東に向かう為、帰宅することも無く、陣定(じんさだめ)の席からそのまま京を出立した。
 征東大将軍の人選に付いては、野宰相と呼ばれ弓馬を良くした小野篁(おののたかむら)の孫で、自身も右近衛少将(うこんえのしょうしょう)を務めたことの有る正五位下(しょうごいのげ)小野好古(おののよしふる)を送るべきという意見が出たが、忠平は、六十八歳になる正四位下(しょうしいのげ)・藤原忠文で良いと指示し、そのように決しさせた。
 余談だが、好古(よしふる)は歌人・小野東風(おののとうふう)の兄でもある。
 公卿(くぎょう)達は、高齢の忠文(ただふみ)では心許(こころもと)無いと案じ、忠平の意向を(いぶか)ったが、やむ無く太政大臣(だじょうだいじん)の意向に従った。
 講和が成ったとは言え、都が軍事的空白地帯と成れば、純友(すみとも)がいつ再び反乱するかも分からない。忠平の考えとしては、数少ない軍事に秀でた者達は都に残して置きたかったのだ。そして、成り行きに寄っては将門に付く可能性も有る土豪達を、いち早く追討軍に取り込んでしまおうという事なのだ。

 朝廷の威光の(もと)に兵を招集する為には軍事的な才能よりも、正四位下(しょうしいのげ)・参議兼右衛門督(うえもんのかみ)という肩書が物を言う。実際の戦闘指揮は、誰よりも将門を知る平貞盛(たいらのさだもり)に執らせれば良いと師輔(もろすけ)の進言により決めており、忠文(ただふみ)にもそう伝えてある。実態的に忠文(ただふみ)は、最初から名目上の将軍であったのだ。
 忠平は、既に貞盛(さだもり)に与えてある『将門召喚状』に代えて追討の官符を発行し、潜伏している貞盛(さだもり)を探し出して手渡す為の急使を坂東に送った。

 土豪達を追討軍に取り込み、又は反将門勢力とする為に、忠平は、更に画期的(かっきてき)な一手を打った。
『その身分に関わらず、将門を討った者は五位に叙す』と全国に告知したのである。形振(なりふり)構わない強引な手段である。土豪達の出世欲を()いたのである。それほど忠平は、将門の乱に危機感を持っていたと言うことになる。
 五位と言えば国守(くにのかみ)に相当する官位だ。そして、五位以上が貴族と称されるわけだから、どこの馬の骨とも知れない土豪でも、将門を討った者はいきなり貴族にすると言うのだ。
 結果として低い身分から大功を賞せられ貴族に上った者は少数居るが、初めからこんな約束をするのは前代未聞である。
 その家柄に寄って代々貴族階級を引き継いで来た者達に取って、到底容認出来ることでは無いはずだ。現代の官僚でも、階層としての既得権益を侵されるかも知れないとなったら、大同団結して徹底的に抵抗するだろう。
 現代に例えるなら、高卒のノンキャリア平職員でも、いきなり局長級、或いは県知事に登用すると言われたような衝撃だったに違いない。忠平は持てる権力でそれも抑え込んだ。公卿(くぎょう)達も、いかに太政大臣(だじょうだいじん)の意向とは言え、平時なら到底容認出来ないことであるにも拘わらず、将門に対する恐怖心から結果的に、これを承服した。しかし、忠平のこの思い切った政策が功を奏し、土豪達の多くを反将門勢力とすることに成功するのだ。


参考:
上野(こうづけ)は、常陸(ひたち)上総(かずさ)と共に親王任国の一つであるので。受領(ずりょう)(実際に現地に赴任する国司)の最高位は、(かみ)ではなく、(すけ)である。

(*2)【蔭位(おんい)
『父祖のお蔭 (かげ) で賜る位の意』
律令制で、親王以下五位以上の者の子と、三位以上の者の孫とが、二十一歳になると自動的に従五位下から従八位下の位階を授けられること。
結果として、藤原北家など、一部の家柄の者が、朝廷での高位を世襲する事になる。
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