16.  第一回衝突/逃走

文字数 3,509文字

 カスミがミツキの身体を乗っ取ったまま、朝が訪れた。

 アオイの自宅では、アオイが荷造りを急いでいた。元々いつでも持ち出せるだけの私物しかないから、それをスーツケースに詰め込むだけだ。
 ケースを閉じようとして、机の上の紙片に気づく。イズミから出題されて満点近くできた英語のテストだ。丸めてゴミ箱に捨てようとした手が止まる。フッと鼻から息を吐き、クシャクシャの解答用紙をスーツケースの隅に押し込んだ。

「準備はできたか?」幸田がドアの向こうから尋ねる。
「いいよ、いつでも出られる」
「『M』から指定された奥多摩の山小屋に移動する。そこが、当座の隠れ家だ」
「わかった」と応えて、アオイは、一年間、自分の城だった部屋を見回した。CIAに見つかってしまった以上、次の隠れ家には、落ち着けないだろう。その次も、また、その次も、短期の仮住まいを覚悟しなければならない。アオイは、息をついて部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。

 アオイが幸田に続いてマンションの自室を出た時、ミツキの身体を乗っ取ったカスミは、イズミの車でアオイのマンションに向かっていた。今朝いつもより早く園に現れたイズミは、太一先生からアオイが病欠と聞かされると、カスミを引き立てるように自分のクルマに乗せた。
 駐車場に追ってき太一先生が「体調不良なのに見舞いに行くと、かえってストレスになります」と引き留めるのを振り切り、イズミは車を発進させた。

 イズミはステアリングを握りながら緊張した顔でカスミに話しかける。
「アオイに感づかれたかもしれない。逃げ出される前に仕留めるわよ。アオイは、叔父さんと名乗る男と住んでいる。そいつは私が始末するから、あなたは、アオイに集中して。いいわね」
「わかった」
カスミは、つい自分のいつもの口調で答えてしまいドキッとするが、イズミはカスミがミツキと入れ替わって言葉遣いが変わったことなど気づかないらしく、前方に視線を移して車を加速させた。
 カスミが借用しているミツキの全身にアドレナリンが巡り始めていた。お姉ちゃん、待ってて。もうすぐ、お姉ちゃんの悩みの種を除いてあげる。

 アオイは、幸田に続いてマンションを出た。幸田はアウトドア仕様のハーフコートを着て、登山用のごついリュックを背負っている。ボトムズと靴も登山仕様だ。アオイも同様に登山スタイルに着替えている。
 マンションは駐車場が足りないので、幸田はクルマを近くの月極駐車場に停めている。幸田がアオイを振り返り「走るぞ」と言った時、一台のハッチバックが大通りからマンション前の生活道路に飛び込んできた。

「幸田、あのクルマ」
 とアオイが声をかけた時には、幸田はハーフコートのポケットから、非殺傷性のプラスチック弾を込めた自働拳銃を抜いていた。
 ハッチバックが急ブレーキをかけ、車体を九〇度回転させてマンションの玄関前に停止する。
「伏せろ!」
アオイに命じ、幸田は車の正面に立つ。
 運転席と助手席のドアが同時に開く。運転席からサプレッサー付きの自動拳銃を手にした女性が、助手席からは丸腰らしき少女が現れる。

 幸田は、銃を持った女性の頭部にプラスチック弾を2発浴びせた。プラスチック弾でも、頭部を直撃すれば気絶させることができる。当たり所が悪いと死んでしまうこともあるが、この際、正当防衛だ。仕方ない。

 助手席側に銃を向けた幸田の目に、思いがけない光景が飛び込んできた。少女が路面にあおむけに倒れ、その傍らにアオイがかがみこんでいる。
「アオイ、そいつはCIAの殺し屋だ。離れろ」
 幸田は慌ててアオイと少女の間に割りこみ、右手で銃を少女の頭につきつけ、左腕でアオイを後ろに押しやった。
「田之上ミツキだな?」

 ミツキの身体は、ミツキのものに戻っていた。自分に銃を突き付けている見知らぬ男性の問いに「はい」と答えながら、いつカスミから元の自分に戻ったのだろうと不思議に思う。
 夜中にカスミに身体も意識も乗っ取られ、次に、自分に戻ったら、こうして道路にあおむけに倒れて銃を向けられている。男性の傍らでは、アオイが心配そうに見つめてくれている。
 
「アオイさん、私を一緒に連れて行ってください」
ほとんど無意識に、言葉が飛び出していた。アオイが驚いたように見えた。理由を言わなくてはと、ミツキは思う。
「私は、アオイさんと闘いたくないのです。だから、私を連れて行ってください」
今度は、しっかり意識して言っている。そうだ、私は大好きなアオイと殺し合いするなんて、まっぴらだ。そんな事を命じてくる国防総省、CIAと、オサラバしたい。

「アオイを殺しに来ておいて、何を言ってるんだ?」
ミツキに銃を向けている男性が眉をひそめる。
「幸田、ミツキは本気だ。あたしにはわかる。連れて逃げよう」
男性の後ろでアオイが助け舟を出してくれる。そうか、この男性は幸田さんと言うのか。

 アオイは止めようとする幸田の手を振り払い、ミツキの身体におおいかぶさった。
「アオイ、どけ、そいつは危険だ」
「危険なんかじゃない! あたしには、わかる。ミツキは、あたしと闘いたくないんだ!」
アオイは、ミツキを抱きしめて叫ぶ。

 幸田がアオイの身体をミツキから引きはがそうとした時、ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえ始めた。早い! なぜ、こんな早く来るんだ?
 イズミがアオイの死体を回収するために呼び寄せた『肉屋』の救急車だが、幸田は、そんなからくりは知らない。消防庁の救急車だと思い、それが来るからには、すぐに警察も来ると思う。
「アオイ、逃げるぞ。そいつから離れろ」
「嫌だ、離れない。あたしが逃げる時は、ミツキも一緒だ」

 幸田は天を仰いだ。アオイが言い出したら聞かない性質(たち)だということを、この二年間で思い知っている。
「わかった。連れて行く。私がその子を担いで走る」
「本当か?」
「ウソついてる場合か!」
幸田は、つい、怒鳴ってしまう。時間がないのだ。
 
 アオイが起き上がる。幸田は拳銃をアオイに渡す。
「襲ってくる奴は、ためらわずに撃て」
「拳銃なんかなくても、放電で倒せる」
「ダメだ。放電能力は使うな」
幸田はアオイに強く命じ、ミツキを肩に担ぎあげた。アオイは国防総省の秘密研究所で「ストレス発散のため」に射撃訓練をしていて拳銃の扱いには慣れている。
「急ぐぞ」
ミツキを肩に担いだ幸田とアオイは、幸田の車がある月極駐車場めがけて駆け出した。

 五分後、都心の混みあった幹線道路で、幸田はスピード違反で捕まるギリギリの速さでクルマを走らせていた。前方を見たまま、幸田がミツキに尋ねる。
「君の生体トラッキング・システムの有効範囲は、何キロだ。急いでその圏外に出ないといけない」
「私には、生体トラッキング・システムはついていません」
後部座席からミツキが答える。
「えっ、じゃ、あんたはCIAから追尾されないの!」
ミツキの隣でアオイが驚く。
「私は電波アレルギーだから発信器を付けられないと、レノックス博士が言っていました」
「『あいつ』がそう言ったのなら、本当だな」

「アオイ、簡単に信じるな。スマホのおかげで地上には電波が充満している。電波アレルギーで生きていられるわけがない」
ルームミラーの中で幸田の顔が曇る。
「アレルギーといっても、電波が皮膚を通さず体内細胞を直撃した時だけ起きるんです」
「そうなんだ」とアオイ。
「そうなのか?」と幸田。

「本当です。信じてください」
ミツキがすがるように言う。
「あたしは、信じる。ていうか、あたしは、元々ミツキを信じてる」
そう言うと、アオイは幸田の肩に手をかけた。
「大丈夫だ、幸田。何かあったら、あたしが、あんたを守る」

 幸田は、全身の力が抜けそうになった。
「私が、誰のために心配していると思っているんだ?」
と言い返したかったが、やめた。ピントはズレているものの、アオイが幸田を思ってくれる気持ちは伝わってくる。その気持ちに水を差すのは友情に反する。
「何にせよ、事故らない範囲で急ぐに越したことはない」
幸田が自分に言い聞かせるように言い、少し速度を緩めた。

 アオイたちは、西荻窪駅近くのコインパーキングにクルマを停め、三鷹市まで歩き、市内のコインパーキングに停めてあった車を拾った。クルマのカギは車止めの裏にガムテープで張り付けてあった。新しいクルマで、アオイたちは「M」から指定された奥多摩の山小屋を目指した。
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登場人物紹介

山科 アオイ (17歳)


アメリカ国防総省の手で、放電型生体兵器に改造された17歳の少女。

直感派でやや思慮に欠けるところがあるが、果断で、懐が深く、肚が坐っている。

山科 アオイ は自ら選んだ偽名。本名は 道明寺 さくら。


両親とドライブ中に交通事故に遭う。両親は即死。アオイは、アメリカ国防総省が日本国内の山中深くに設置した秘密研究所で生体兵器に改造される。

秘密研究所が謎の武装集団に襲撃され混乱に陥った際に脱出。組織や国家に追われる内部通報者やジャーナリストをかくまう謎のグループに守られて2年間を過ごすが、不用意に放電能力を使ったため、CIAに居場所を突き止められてしまう。

幸田 幸一郎(年齢40台前半)


冷静沈着、不愛想な理屈屋だが、あるツボを押されると篤い人情家に変身する。

幸田幸太郎は偽名。本名は不明。


組織や国家から追われる内部通報者やジャーナリストなどを守る秘密グループの一員で、アオイのガードを担当する「保護者」。英語に堪能。銃器の取り扱いに慣れ、格闘技にも優れている。

田之上ミツキ(17歳)


アメリカ国防総省の手で、ターゲットの自律神経を破壊する「脳破壊型生体兵器」に改造された17歳の少女。知性に秀で、心優しく思慮深いが、果断さに欠ける。15歳までアメリカで育った。

田之上 ミツキは、本名。


両親、妹のカスミとアメリカ大陸横断ドライブ中に交通事故にあう。両親は即死。ミツキとカスミは生体兵器に改造されるために国防総省の特殊医療センターに運ばれるが、カスミは改造手術中に死亡。ミツキだけが生き残る。

国防総省を脱走したアオイを抹殺する殺し屋に起用されたが、アオイが通うフリースクールに転入してアオイと親しくなるほどに、任務への迷いが生まれる。

田之上 カスミ(15歳)


田之上ミツキの妹。ミツキと同時に人間兵器に改造される途中で死亡するが、霊魂となってミツキにとり憑いている。知的、クールで果断。肉体を失った経験からニヒルになりがち。


普段はミツキの脳内にいてミツキと会話しているだけだが、ここぞという場面では、ミツキの身体を乗っ取ることができる。

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