27. 不幸な偶然/姉妹の力
文字数 2,418文字
山小屋に来て最初の食事は幸田が作った。それが、カスミにひどく不評で、カスミはミツキの頭の中で「まずい、まずい」とけなし続け、最後には「食事はお姉ちゃんが作れ。それが、みんなの幸せだ」と命令口調で言った。
ミツキは幸田の料理を一応「美味しいです」とほめておいたが、本心はカスミと同感だったので、カスミの指示を受け容れ、料理作りを志願した。幸田に異論はなくアオイに至っては、カスミが作った最初の食事を食べた後に「やっと、人間らしい食生活になった」と言ってのけた。
幸田が頭をかきながら、「君たちをハイキングに誘おうと思ってね。誘うからには弁当は私が作らねばと思い、こうして取り組んでいるが、ご覧のとおり、苦戦している」
「うわー、嬉しいです。ここに来てからずっと小屋にこもったきりで、ハイキングなんて、とても楽しみです。お弁当も手伝わせてください。お弁当を作るところから始めたら、気分がすごく盛り上がると思うんです」
頭の中で、カスミが「お姉ちゃん、ナイス判断だ」と言った。
「じゃ、お願いしようかな」と言って、幸田が口元をほころばせた。
一時間後、ミツキと幸田は、紅葉の名残が残る山中のハイキング道を散策していた。この季節の、しかも、平日なので、観光客と出会うことは、ほとんどないし、遠足の小中学生もいない。幸い、今日は、山から吹き下ろす寒風もなく、二人(三人)で、のんびりと自然を楽しむことができた。
ハイキング道の前方に、小さな広場のようなものが見えてきた。半径五メートルほどの円形をしていて、へりに沿って丸太を組んだベンチが四つ並んでいる、二つのベンチに人影があった。今日初めて出くわす他人に、幸田の中で緊張が高まった。隣でミツキが息を飲む音が聞こえる。
一つのベンチを占めているのはまだ若い親子連れだった。両親は三〇前後だろうか。弁当を食べていて、三歳くらいの男の子がおにぎりを食べながら、ベンチを離れて駆けまわるのを母親が困ったように眺めている。父親は超然と自分の弁当に取り組んでいる。両親のどちらもスマホをいじっていない。この親子連れはひとまず安心だ。
もう一つには、二〇代とみえるカップルが坐って、やはり、弁当を食べていたが、女性の方がスマホで弁当を写したり、自撮りしたりしている。こちらは、要警戒だ。
「私たちは、ここを抜けて、ハイキング道でお弁当にしよう」
幸田が言うと、ミツキが固い声で「ええ」と答えた。
二人(三人)が広場の入り口に差しかかった時、三歳くらいの男の子が、ちょうど広場の真ん中でおにぎりを頭の上に差し上げて、踊るような仕草を始めた。
いつもなら、こういう幼児の姿に微笑みをさそわれるミツキだが、今は、スマホをいじっているカップルが気になって顔が強張っているのが、自分でもわかる。
広場の左前方で森の下草がザザザと騒いだ。目をやると、茶色の塊がハイキング道に飛び出し、矢のように広場に向かってくる。イノシシだ。その進路上では、おにぎりを差し上げて踊っている幼児がいる。
「キャー」と母親が悲鳴を上げ、幸田が上着のポケットから銃を抜く。「お姉ちゃん!」というカスミの声で、ミツキの脳内のスイッチが入った。自分の頭がブーンとうなりを上げる。
その瞬間、イノシシが前につんのめるように倒れた。幼児との距離はほぼ一メートルまで迫っていた.
イノシシは、苦しそうにごろごろ転がっている。「お姉ちゃん、とどめ」とカスミがせかすが、ミツキはイノシシが苦しむ姿に動転して、スイッチを入れ直せない。
「お姉ちゃん、身体を借りるよ」
カスミの声がして、また、頭がうなった。イノシシがぶるっと大きく身震いして、ぴたりと動きを止めた。
隣で幸田が銃をしまった。父親が幼児に駆け寄り、抱きあげてベンチに戻る。カップルはベンチから立ち上がって、茫然とイノシシを見ていたが、女性の方が、おそるおそるスマホをイノシシに向けた。
「もしかして、ミツキ君がやったのかな?」
幸田が尋ねると、ミツキが震える声で、「私が、イノシシを止めようとしました。でも、あんな風に苦しみだしたので、私……」と答える。
「あたしが止めをさした」ミツキの中からカスミの声が聞こえてきた。
「そうか。二人で、あの子の命を救ったんだ。でかしたぞ」
幸田はミツキの肩を小さくたたいた。ミツキが泣きそうな目で幸田を見るので、幸田は「子ども一人の命を救った。君は、人としてなすべきことをした。偉かった」と微笑んで返した。
「ただ、スマホでイノシシを撮影している女性がいる。ここは、引き返した方が無難だな」
幸田の言葉にミツキがうなずき、カスミの声が「幸田、賢明な判断だぞ」とほめてくれた。いい大人の幸田に対して、こういう「上から目線」なところが、カスミはアオイに似ていると、幸田は気づいた。
幸田たちはハイキング道を引き返し、途中で弁当を食べた。
ミツキは「イノシシには悪気はなかったはずなのに、可哀そうなことをした」としきりに悔やんだが、幸田は、「イノシシにどんな事情があったか知らないが、君は、人間だ。同じ人間の子どもを助けることが優先でよかったのだ」と諭し、カスミも「お姉ちゃん、あのイノシシを殺さずにすんだらと思うのは、一種の思い上がりだ。お姉ちゃんも、あたしも、神様や仏様じゃない。ちっぽけな一人の人間だ。この世界に存在するもの全てに親切に優しくするなんて、無理だぞ」とミツキを叱った。
三人は、予定より早く山小屋に戻った。