46. 大人の知恵/少女の潔癖

文字数 3,458文字

 ミツキが去り、室内に沈黙が訪れた。アオイは、あれほど固い絆で結ばれていたはずのミツキとアオイが呆気なく自分を捨てて行ったことに、それも、自分を軽蔑しきって捨てて行ったことに愕然として、言葉もなく、畳に突っ伏していた。

 背中に温かい手が載せられ、「アオイさん、一度に色々な事が起こって、疲れたわね。少し、休んだら」と「M」が優しく話しかけてきたが、アオイは返事することもできない。
「アオイ、ココアを作ってやろう」と言って、幸田が立ち上がり台所に行った。やがて、鼻先にカップが差し出され、ココアの甘い香りが鼻腔を刺激し始めたが、アオイにはカップを手にする気力がなかった。
「どうした、アオイ? ほら、ちょっと身体を起して飲んでみろ」と言って幸田がアオイを抱き起こす。「ほら」と言って差し出されたカップから一口すすったとたんに、唇が焼けて、アオイはココアを吹き出した。

「あらあら、幸田君、カップを貸して」と「M」の声がした。誰かがココアをふうふう冷ましている音がする。多分、「M」だろう。
「ほら、アオイさん、飲みやすくなったわよ」と「M」が差し出すカップから一口すすると、止まらなくなった。激しいやり取りで喉が渇いていたし、疲れた心と身体は、甘いものを欲していた。

 コーヒーを腹に納めると、少し気持ちが落ち着いてきたような気がした。
「大丈夫?」という「M」の問いに、「はい、なんとか」と答えると同時に、眠気が襲ってきた。
「ごめんなさい。疲れたので、ちょっと……」
 最後まで言い切れずに、アオイは「M」の身体にもたれこんだ。

「M」と幸田が二人がかりで、アオイを寝袋に納めた。「M」がアオイの寝息に耳を立てる。
「大丈夫、ぐっすり寝てるわ」
「睡眠薬をちょっと多めに入れましたから」
「これから話すことをアオイさんに聞かせるわけにいかないから、仕方ないわ。それに、あれだけの事があったのだから、本当に、身も心もボロボロだったのよ。ゆっくり休ませてあげましょう」
「M」がアオイの鳥の巣のような髪を優しくなでた。

「さて」と、「M」が幸田に向き直る。
「思ってもみなかった展開になりましたね」
「ミツキさんとカスミさんは、とっても純粋。そして、驚くほど感覚が鋭い」
「私達が太一先生よりアオイの安全に気持ちが向いていることを鋭く嗅ぎつけて、絶縁状をつきつけて行きましたね」
「そう。でも、私達は、この二年間、アオイさんを守ってきたのだし、情も移っている。道義的には太一先生の安全を最優先しなければならないことは、わかっている。だけど、いざ事を起こすとなると、神でも仏でもない、ただの人間の私たちは、そう綺麗ごとではいかない。これでも、私は、太一先生の安全には十分に配慮したつもりよ」

「希望的観測に流れずに、出来る限り合理的に、太一先生の安全度を判断したと思います」
「ただ、カスミさんが言ったように推測に過ぎないといえば、そのとおり。そこにご都合主義がまったく混じっていなかったかと問い糺されると、反論に詰まる」
「M」が苦笑いを浮かべた。
「世間では、それを大人の知恵と言います」
「知恵? 今となっては、浅知恵だわ」
「M」が珍しく自嘲気味に言う。
「ミツキさんとカスミさんが先にリケルメの所に乗り込むとなると、状況が全く変わってしまう。そう仕向けてしまったのは、私なのよ。私は、しくじったのかしら?」
「M」がすがるような目を幸田に向けてきた。「M」が幸田の前でこんな表情を見せたのは初めてだ。

「しくじっていません。あなたは、合理的に判断しました。でも、私達大人の合理的な判断には、純粋な少女たちの目には「狡さ」と映るものが混じっていて、そこに彼女たちが拒絶反応を起こしただけです。ジェネレーション・ギャップです」
「ジェネレーション・ギャップ……ね。とりあえず、そういう事にしておきましょう。ここに留まってグジグジ言っている暇はないのだから」
「M」がいつもの落ち着いた表情に戻った」

「ミツキさん、カスミさん、アオイさん、太一先生、全員を無事に助け出す作戦を考えないと」
 と言ってから、「M」が心配そうな目を幸田に向けてきた。
「幸田君、調子はどう? 作戦を考えられそう?」
「正直に答えていいですか?」
「もちろん」
「どうも、頭が働きません」
「やっぱりね……実は、私も、今は、ちょっと……指揮官の私がそれではいけないのに……」

 幸田は、「M」にも休養が必要だと思った。
「あなたも、偵察に長い時間を使って、今の議論でもお疲れになったのではないですか? ここは、二、三時間、眠って頭を休めてみてはいかがでしょう? 疲れた頭で無理に考えても、ろくなアイディアは浮かばないものです」
「休む? 指揮官の私が、この大事な時に?」
「ええ。間違いのない判断を下すために休養を取るのも、指揮官の部下に対する責任です」
「一理あるわね。寝ましょう」
「M」がうなずく
 幸田がミツキの使っていた寝袋を「M」に渡すと、「M」は自分のスマホのアラームをセットして、寝袋に身体を押し込んだ。

 五分もしないうちに「M」が安らかな寝息を立て始めたのを聞いて、幸田はほっとした。自分はどうせ浅い眠りしかとれないだろうが、ともかく、あれこれ考えるのを止めて、頭を休ませよう。幸田は、寝袋の中で、一番楽な姿勢を取った。


 その頃、ミツキとカスミ(見た目はミツキだけ)は、「BMI応用医療研究所」に向かうタクシーの中にいた。
「お姉ちゃん、あたしは、これで納得してるけど、お姉ちゃんは、本当にこれで良かったのか?」
 頭の中でカスミが尋ねてきた。
「もちろん。私も納得してるわ」
「だけど、お姉ちゃんは解体されるかもしれないんだろう? あまり言いたくないけど、お姉ちゃん、怖がってたぞ」
「ええ、怖いわ。でも、それより、太一先生の安全を守るために出来る限りの事をする方が、大事」

 少し間があいて、カスミがボソッと言った。
「あたしは、『M』と幸田が嫌いだったわけじゃない」
 カスミは、幸田に「さん」をつけるのを止めて、呼び捨てに戻っていた。
「普通にイイ人だと思ったよ。いや、普通以上かな……だけど、あの人たちは、太一先生の安全を守るために出来る限りの事をしようとしなかった。太一先生は安全だと希望的観測をして、アオイを守ることの方に専念しようとしてた」

「そうね、特に、『M』さんの話の進め方は、狡かったわ」
「そうだよ。あたしは、うっかりだまされるところだった」
「でもね、あの人たちは、ずっとアオイさんを守ってきたのだから、そうなるのは仕方ないという気もする」

「シツコいけど、お姉ちゃんは、どうして、改めて、太一先生のために命を捨てる覚悟をしたの?」
「太一先生と私は、『とばっちり』を食った人間同士だから」
「えっ、どういうこと?」
「太一先生は、リケルメが私たちを手に入れたがっていることの「とばっちり」を食って誘拐された。でも、「とばっちり」と言えば、私だって、アメリカ政府のテロとの戦いの「とばっちり」で生体兵器に改造されたのよ」
「そう言えば、そうだ」
「『とばっちり』を食った太一先生のことを、同じように『とばっちり』を食った私が第一に考えないで、誰が考えるんだ? 私は、そう思ったの」

「そうか。今のお姉ちゃんの話を聴いて、あたしの中でモヤモヤしてたものが、なんか、ハッキリ見えてきたような気がする。でも、そうすると、アオイは、とんでもない。あいつだって『とばっちり』を食った立場なのに、太一先生を危険にさらしてでも、自分が助かりたいだなんて!」

「カスミがいつアオイさんを襲うかわからないのに、私たちを受け容れてくれた時は、この人はなんて底の抜けた人なんだろうと思った。そういうアオイさんが好きだった。でも、太一先生については、アオイさんは違っていた。太一先生の安全性を計算して自分の行動を決めようとしていた」
「確かに、底が抜けてるどころか、めっちゃ計算高かった。その計算が正しいって保証なんか、どこにもないのに」
「アオイさんの話は、もう、止めましょう。気分が悪くなるだけだから」

 タクシーの前方に、煌々と灯りをともして夜の空にそびえたつ聖命会総合病院本館が見えてきた。
「いよいよだわ。頼んだわよ、カスミ」
「おぉ、任せとけ、お姉ちゃん」

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登場人物紹介

山科 アオイ (17歳)


アメリカ国防総省の手で、放電型生体兵器に改造された17歳の少女。

直感派でやや思慮に欠けるところがあるが、果断で、懐が深く、肚が坐っている。

山科 アオイ は自ら選んだ偽名。本名は 道明寺 さくら。


両親とドライブ中に交通事故に遭う。両親は即死。アオイは、アメリカ国防総省が日本国内の山中深くに設置した秘密研究所で生体兵器に改造される。

秘密研究所が謎の武装集団に襲撃され混乱に陥った際に脱出。組織や国家に追われる内部通報者やジャーナリストをかくまう謎のグループに守られて2年間を過ごすが、不用意に放電能力を使ったため、CIAに居場所を突き止められてしまう。

幸田 幸一郎(年齢40台前半)


冷静沈着、不愛想な理屈屋だが、あるツボを押されると篤い人情家に変身する。

幸田幸太郎は偽名。本名は不明。


組織や国家から追われる内部通報者やジャーナリストなどを守る秘密グループの一員で、アオイのガードを担当する「保護者」。英語に堪能。銃器の取り扱いに慣れ、格闘技にも優れている。

田之上ミツキ(17歳)


アメリカ国防総省の手で、ターゲットの自律神経を破壊する「脳破壊型生体兵器」に改造された17歳の少女。知性に秀で、心優しく思慮深いが、果断さに欠ける。15歳までアメリカで育った。

田之上 ミツキは、本名。


両親、妹のカスミとアメリカ大陸横断ドライブ中に交通事故にあう。両親は即死。ミツキとカスミは生体兵器に改造されるために国防総省の特殊医療センターに運ばれるが、カスミは改造手術中に死亡。ミツキだけが生き残る。

国防総省を脱走したアオイを抹殺する殺し屋に起用されたが、アオイが通うフリースクールに転入してアオイと親しくなるほどに、任務への迷いが生まれる。

田之上 カスミ(15歳)


田之上ミツキの妹。ミツキと同時に人間兵器に改造される途中で死亡するが、霊魂となってミツキにとり憑いている。知的、クールで果断。肉体を失った経験からニヒルになりがち。


普段はミツキの脳内にいてミツキと会話しているだけだが、ここぞという場面では、ミツキの身体を乗っ取ることができる。

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