33. 拘束/平行線
文字数 2,106文字
ドアが開き、マスムラが折りたたみイスを手に入ってきた。カレンの前にイスをすえて、坐る。
「エージェント・マスムラ、どういうつもり?」
「どういうつもり? 頭脳明晰なブラックマン博士なら、私に訊かなくても、もう、わかって いるでしょう」
「裏切り者の口から直接、聞きたいわね」
「はは」
マスムラが目の周りにしわを寄せて、小さく笑った。
「あなたを手に入れるためなら金に糸目はつけないという人物がいて、私はその人物があなたを手に入れるのを手伝った。この後三十年くらい、贅沢し過ぎなければ十分暮らしていけるだけの報酬を得て、リタイアする。そういうことです」
「信じられない。あなたは、CIAに三〇年務め、ここ二〇年間は、アジア地区での非合法作戦の要になってきた人だわ。そういう人がCIAを、そして、国を裏切るなんて、信じられない」
マスムラが椅子から身を乗り出してきた。
「二〇年もアメリカのために汚れ仕事をしてきたから、アメリカを裏切る気になったのです」
「どういう意味?」
マスムラが立ち上がった。視線を天井に向けて、歩き出す。
「今の大統領になってから様変わりしましたが、アメリカは長らく世界の民主主義の擁護者を演じてきた。世界のナイーヴな人々の目には、人権問題に最も敏感な国と見えていたかもしれない」
立ち止まり、鋭い視線をカレンに向けてきた。
「だが、それは、すべて芝居だ。今の大統領が世間体を気にしなさ過ぎるだけで、アメリカの本音は、常に『アメリカ・ファースト』だった。チリで南米初の自由選挙による社会主義政権が生まれると、アメリカはチリ軍部をたきつけてクーデターを起こさせ政権を転覆させた。チリ軍部が三万人もの政権支持者を虐殺する間、見て見ぬふりをしていた」
カレンはマスムラをにらみ返した。
「チリのアジェンデ政権ね。確かに、CIAはクーデターを助けた。でも、アジェンデ政権がソ連の支援を受けていたのも事実。チリは、ソ連の手先として世界の民主主義に脅威を与えうる存在だった」
「アメリカは世界の民主主義を守ると言いながら、民主主義とも人権とも、およそ程遠い輩を支持してきた。アメリカは、南米、中南米のほぼすべての国で、軍事独裁政権が自国民を暗殺する『白色テロ』に軍事指導と武器、資金を与えていた」
マスムラの声がひときわ大きくなった。
カレンが美しい顔に軽蔑の色をあらわにした。
「CIAに三〇年もいた人間が、そんな青臭くて甘ったるい世界認識をしていたとは、驚きだわ。アメリカの敵は、世界中に潜んでいて、ほんの少しでも油断すると、9・1・1が起こる。 ビン・ラディンを野放しにしておくくらいなら、私は、躊躇なくピノチェトと手を組む」
マスムラがカレンを頭の先からつま先まで見渡した。
「まさしく、アメリカの正統的体制派、エスタブリッシュメントの発想だな。あなたのような人々が、私のような殺し屋にアメリカ政府の陰謀を追及していたジャーナリストや社会活動家を殺させた。あなたのような人々がイラク戦争を起こし、キリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立、イスラム教徒内の宗派対立という『パンドラの箱』を開けてしまった」
「あなたが言う『あなたのような人々』に三十年間食べさせてもらってきた人間の口からそういう言葉は聞きたくない」カレンが語気を強める。
マスムラが「はっ」と吐き出し、続けた。
「あなたたちエリートは、いつも、そう思っている。あの兵隊たちは、私たちが食べさせてやっている。だから、私たちのために、いつ、使いつぶしても構わない。私のような政府に雇われた兵隊についてそう思っているだけなら、まだマシだが、あなたちは国民すべてに対して、そういう優越感を持っている。あなたたちは、自分たちを国民に奉仕する存在ではなく、国民を使役する存在だと思っている」
「あなたが自分を正当化する理屈をどれだけこね回そうと、あなたが卑怯な裏切り者でしかないことに変わりはない。あの山中で、何人の仲間を死なせたか、言いなさい」
「八人ですよ。一人は生体兵器のサイード元・少佐だから、あなたの言い方だと七人と一機になりますか? 昨年一年間に、東南アジア・南アジアでCIAの非合法活動に巻き込まれて命を 落とした民間人の半分だ」
「あなたって人は!」
「ブラックマン博士、これ以上、どれだけ話し合っても平行線ですな。そうだろうと思っていました。ただ、私がどういう思いでCIAを裏切ったかを、言うだけは言っておきたかった。 私は、これで退散します。二度と会うことはないでしょう。あなたの今後については、このあとあなたを訪ねてくる人物と、じっくり話し合ってください。もっとも、話し合う余地があれば……ですがね」
マスムラが椅子をたたんで持ち上げると、部屋から出て行った。