57.ミツキ/「M」
文字数 3,559文字
リケルメの銃弾は、ひざの骨を避けて、ひざのすぐ上の内側の筋肉を引きちぎっていた。足の機能に後遺症が残らないように撃ったのだろうと、この医院の医師は言った。生体兵器改造工場での応急処置も適切だったそうだ。
それでも、ミツキの右ひざの内側には醜い傷跡が残っている。もう、スカートははけないだろう……。逃げ隠れし続ける身で、お洒落をしてみせる相手はいないが、自分の好き装いができないのは、悲しかった。
廊下の前方、階段の上がり口に「M」が姿を現した。ニッコリ微笑みかけてくる。ミツキは目礼しただけで、笑顔は返さない。
「ずいぶん歩けるようになったわね。もうすぐ、杖も要らなくなりそう」
と、「M」が、言われなくてもわかっている事を言う。
「わざわざお越しいただいて……御用は何ですか?」
「お見舞いと、連絡事項があって」
「M」が笑みを絶やさずに言う。
以前は心のこもった温かく柔らかな笑みだと感じていた「M」の笑顔が、今では、裏に何かを隠すための仮面としか見ることができなくなっていた。人質にとられていた太一先生に対して「M」と幸田が示したずる賢さが、時間が経てば経つほど許しがたく感じられた。
この汚い大人どもの助けを借りなければ、この病院で治療を受けることができなかったし、 この後の生活の目途も立たないという現実が、ミツキの気持ちを、いっそう、ささくれだたせた。悔しさで、目に涙がにじんでくる。
「M」は、うつむいてじっと唇をかみ締めているミツキを見ながら、自分がミツキの心に残した傷の深さを痛感していた。「BMI応用医療研究所」に突入する前日、「M」の前で正座し、 両手をついて決別の意を述べたミツキの覚悟の表情がまぶたの裏に浮かんだ。
道義的にはミツキが正しかった。私は合理的な推論に基づいて太一先生の生命が脅かされる危険は極めて小さいと判断した。しかし、リスクは、決してゼロではなかった。
それに対して、ミツキはリスクを限りなくゼロに近づけようとし、そのためには自分の命を差し出すことも惜しまなかった。
私の選択をこの子に納得させる論理を、私は持たない。この子が人生の時を経て、生き延びるための大人のずるさを身に着ける時がくれば、私がしたことを理解してもらえるかもしれない。
だが、田之上ミツキには、そういう時は来ないのではないかと「M」は感じていた。それだけに、この少女の将来が気がかりだった。
「連絡って、何ですか?」
ミツキが素っ気無く訊いてきた。
「ミツキさんとカスミさんの『保護者』には、幸田君についてもらうことにしました。逃亡生活ではベテランの幸田君に、逃亡生活を始めたばかりのあなた達と一緒にいてもらうのがいいと考えました」
「そうですか」と、ミツキがごく事務的に応える。
「M」が予想していたとおりの反応だった。ミツキから見たら、幸田も「M」と同じ穴のムジナだ。世話になどなりたくないが、逃亡生活のために付き合うしかない相手……としか、感じられないのだろう。
「カスミは、もう知っていますか?」
「これから、知らせます」
「いえ、最近、カスミは私から離れて遊びまわっているので、なかなかつかまらないでしょう。私のもとに戻ってきた時に、私から伝えます」
「では、お願いします」
ミツキが顔を上げ、廊下の窓から、外を見た。遠くに、雪をかぶった山々が連なって見える。
「幸田さん、カスミと三人で、人里離れた雪深い、山奥暮らしですね」
「そうね。あなた達には申し訳ないけど、太一先生のように巻き添えになる人を出さないために、仕方ない選択ね」
「いつ、ここから移動しますか?」
「山ではこれから雪が積もる一方で、移動がたいへん。雪が溶けた五月ごろになると思う。 まだ、半年先のことよ」
「M」は、その間にミツキにひざの整形手術を受けさせる件を持ち出すのは、止めた。ミツキに「M」達の存在をますます疎ましく感じさせることになりかねない。ともかく、今はそっとしておくのが一番だ。
「五月までなら、エベレストにだって登れるくらい、足腰を鍛えておきます」
と言って、ミツキが、初めて小さく笑った。
ミツキと別れた「M」は、院長室に立ち寄った。
ごま塩のゴワゴワの髪が爆発したような頭を熊のようながっしりした身体に載せた院長が席から立って、「M」をソファーに招いた。
「改めて、こんな危険な企てにつき合ってくださったことに、本当に感謝いたします」
「M」は、深々と頭を下げた。
「牧田さん、水臭いことはなしにしてよ。あんたと俺の仲だ。当たり前のことをしただけだ。 あんたが『シェルター』を出て行ったと聞いて、国防総省とドンパチやるつもりだなと、ピンときた。万一のことがあったらと思ってあんたに連絡したものの、『シェルター』に義理立てして来ないんじゃないかと心配したが、来てくれてよかった」
「ミツキさんと幸田君の傷が重くて、とても、私達では手に負えなかったので」
「彼女のほうは、機能に後遺症は残らない。整形外科も私のほうで手配した。大丈夫、口の堅い、信頼のおける男だ。腕もいい。傷跡をきれいに消してくれるよ」
「ありがとうございます」
「彼の方は、危なかった。輸血が間に合わなかったら、出血多量で死んでいたところだ。だが、裏返して言えば、あんた達の応急処置は大したもんだった。とても、素人のわざとは思えなかったよ」
実際は、「M」より、慧子の腕前のおかげだった。慧子は、生体兵器改造手術で外科医と一緒に執刀していたらしい。慧子がいなかったら、幸田の命はなかっただろう。
「ともかく、俺のほうは、『シェルター』からは、何のおとがめもなしだ。幸田さんとミツキ君には、安心してゆっくり静養するように言ってくれ。こんな古びたボロ病院で申し訳ないけどな」
と言って、院長が笑った。
院長室を後にした「M」は、昨日うっすら積もった雪がまだ残っている歩道を歩きながら、 自分達が「シェルター」にかけた迷惑を考えていた。リケルメの一味と戦闘になったことまでは、「シェルター」も承知のことだったから、良かった。
しかし、その後が悪かった。カレン・ブラックマンがエル・リケルメを捕らえてCIAに引き渡したことが、「シェルター」に危機をもたらしていた。
リケルメは、「シェルター」が保護していたジャーナリストを捕らえて、その「保護者」経由で、「M」達を脅迫してきた。そのリケルメがCIAの取調べを受ける。CIAが「シェルター」の存在を知ることになり、それがFBIその他のアメリカの政府機関にも伝わると、アメリカ政府から保護している人間全てに危険が及ぶ恐れが出てきた。
「M」は、既に「シェルター」を離れた身だったのに、「シェルター」の「世話役」達に呼び出され、リケルメとカレンを殺さなかったことを、厳しく責められた。
しかし、あの時、クルマを運転できる人間は「M」一人しかおらず、運転席を離れることは、できなかった……。というのは、「世話役」達にした公式説明で、実は、カレンの後を追わなかった本当の理由は、カスミがカレンと一緒にいたからだ。自分のずるさを厳しく指摘したカスミの前でカレンを闇討ちするなど、とうてい出来なかった。
大人の知恵とか言いながら、結局、肝心のところで、私は甘かった。
自分の甘さがアオイと慧子の上に思ってもみなかった影響を及ぼしたことも、「M」の心に暗い影を投げていた。アメリカ政府に対して強い危機感を覚えた「世話役」達は、強い戦闘力をもったアオイと国防総省の内情に詳しい慧子に目をつけた。
「M」は「世話役」達から、ミツキ達の生活を支援するのと引き換えにアオイと慧子を都内にとどめて、「シェルター」にアメリカ政府の魔手が及んだときの用心棒を務めさせるという条件を飲まされてしまったのだ。
そのことはすでに、アオイと慧子には伝えてある。二人は笑顔で引き受けてくれたが、内心はどう感じたのか?「M」の思いは複雑だった。
私は、アオイさん、ミツキさん、カスミさん、幸田君をアメリカ政府と武器商人リケルメの手から守ることには成功した。
しかし、その代償も大きかった。私は、もっとうまくやることが出来たのではないだろうか? この先も、私はこの問いを抱えたまま生きていくのだろうと、冬の冷たい空気の中で「M」は考えるのだった。