29. 山川草木悉皆成仏/寿司
文字数 4,557文字
駅から一五分近く、古びた一戸建てやアパートの間を右に曲がり、左に曲がりしてたどり着いたのは、比較的こざっぱりとした二階建てのアパートだった。
アオイが「スナック華」を出ようとしているところに、「M」のスマホに幸田から LINEの着信があり、アオイは引き留められた。
メッセージは暗号化されているらしく、「M」は手元のノートと照らし合わせて少し考えてから、ノートを見ながら返信した。
その後、アオイは「M」からミツキとカスミが幼児を襲おうとしていたイノシシを倒したこと、倒れたイノシシをスマホで撮影していた女性がいたことを告げられた。
幸田が隠れ家を変えたがっていると聞いて、アオイは「神経質過ぎないですか?」と言ったが、「M」から「CIAや国防総省のように電子的監視網を張り巡らしている敵から逃げ通すには、そういう臆病さが必要よ」と諭された。
という次第で、アオイは「M」から預かってきたカギで、新しい隠れ家に入り、幸田たちの到着を待っている。テレビは芸能人がひな壇に並んで、ペチェクチャしゃべっているバラエティを放映していたが、それに大して興味が持てなかったアオイは、ドアに、幸田と申し合わせてあったノックがすると、即座に飛び出した。
アパート廊下の弱い灯りのもとで、幸田もミツキモ一回りやせたように見えた。玄関に通すと、二人とも、服がドロドロだ。幸田のハーフコートをミツキが羽織っていて、裾が膝下まで届いていた。
「さぁ、早く入って。寒かったでしょう。自販機で温かい飲み物を買ってくるよ」とアオイが言うと、「それなら、買ってきた。君の分もある。ともかく、一休みさせてくれ」と幸田が答えた。
二人は、部屋に入ると、壁に背を持たせて、どさっと床に腰を下ろした。缶入りの温かいコーヒー口に含む。
「山道が、思ったよりきつかったです」ミツキがぽろっと言った。
「えっ、あんたたち、歩いて山を下りたの? クルマはどうしたの?」
「あの辺は、クルマが通れる道が、限られている。万一、追手がかかっていた時に鉢合わせしたくなかったから、クルマは置いて、登山道も避け、山の中を突っ切って駅まで下りた」
「うわぁ、それは、大変だったわ」とアオイが驚くと、ミツキが「私が力を使ったばかりに……」と泣きそうな声を出した。
アオイはうつむいているミツキの肩に手を置いた。
「ミツキが力を使ったのは、正しい。人間なら、幼い子どもを守りたいと思う。でも、思っても助けることができない場合もある。子どもを助ける力を備えたミツキがその場に居合わせたことを、神様だか仏様だかわからないけど、あたしたちを超えた大きな何かに感謝しよう」
「アオイの言う通りだ。ミツキ君、カスミ君、そして、アオイ、君たちは、みな、人間だ。たまたま、他人が持たない変わった力を持っているというだけだ」
「欲しくもないのに、持たされただけだ」
カスミの声がした。
「持たされた。確かに、初めはそうだったかもしれない。でも、今は、『持っている』のだ。持っていて、君たちの意志で使える』
幸田が答える。
「幸田、ちょっと待て。あたしは、放電能力を使おうと意識して使っているわけじゃない。勝手に放電してしまうんだ」
幸田がアオイの目をじっと見た。
「アオイは、人間の意志とは意識されるものだと思い込んでいないか? 私は、人間の意志が必ず意識されなければならない理由はないと思っている」
「どういうことですか?」アオイより先に、ミツキが尋ねた。この話に関心があるのだ。
幸田がミツキの目を見て答える。
「私たちは、心臓など内蔵の働きも、筋肉の働きも、意識していない。しかし、臓器も筋肉も確実に働き続けて、私たちを生かしている。それは、『生きよう』という生命の意志の現れだと私は思っている」
「生命の意志?」アオイには、今一つピンとこない。
「そうだ。君の生命の意志が、君の命を守るために、君の身体に放電させる。それは、君が意識する・しないに関わらず、起こる。君の命を守るために必要だから」
ミツキの中からカスミの声がした。
「今の幸田の話、あたしは、わかる気がする。アオイの反撃はとにかく速かった。あたしが今からアオイを攻撃するぞと思った時には、もう、電気ショックを受けていた。アオイ、あんたは、自分で意識するより速く、身を守るために放電するんだよ」
「意識するより速く……」アオイはカスミの言葉を口の中で転がしてみる。
私が意識するより速く起こす動作。それは、私という生命の意志によるのか? そう考えると、自分が何かに踊らされているように感じてい非接触放電も、自分が選択した行動として受け容れられる気がした。
「でも、あたしがイノシシに止めを刺したのは、やりすぎだったかもしれない。イノシシは、あそこにいた人間たちに驚かされて飛び出してきたのかもしれない」珍しく、迷いを含んだカスミの声が聞こえた。
「それは違う」幸田が応じた。
「原因が何であれ、人間がイノシシに殺される危険があった。同じ種の仲間を優先するのは自然なことだ。人間が人間を守るためにイノシシに死んでもらう。これは、致し方のない事だ」
「私も、幸田さんがおっしゃる通りだと思います。でも、もっと上手に動物たちと共存していくことができたらいいのにとも、思います」とミツキが言う。
幸田がミツキを優しい目で見た。
「ミツキ君の気持ちはわかる。『山川草木悉皆成仏』と言うからな」
「『サンセンソウモクシッカイイジョウブツ』って、なんだ?」アオイにとっては、初めて聞く言葉で、それが日本語なのか外国語なのかもわからない。
「仏教の言葉で、色々な解釈がある。私は『自然界に存在するものは、みな仏の意志を体現している』と理解している」
「『仏の意志』って、なんだ?」とアオイは尋ねる。
「『仏の意志』とは『宇宙創造の意志』だ」
「幸田、あんた、言葉を言い換えて余計難しくしてるぞ。もっと具体的にわかりやすく説明できないのか?」
幸田が眉の間にシワを寄せた。
「う~ん、『具体的にわかりやすく』と言われてもなぁ……」
「あたしに言わせろ」とカスミが割り込んできた。
「『自然界にあるものは、山も草木も、そして、動物もみんな兄弟姉妹』ってことだ。これなら、アオイの頭でもわかるだろう」
余計わからなくなったが、カスミにバカにされるのが癪なので、「おぉ、それでよく分かったぞ」と答えることにした。
アオイは、これは大事だと感じる事について知ったかぶりはしない。わかるまで、何度でも質問する。
しかし、知っても知らなくても大した違いのなさそうな事については、適当に流す主義だ。「サンセンソウモクなんたら」は、知らなくても済む気がした。
「幸田、見ろ。ここは、テレビがある。退屈しないぞ」アオイはわざと話題をテレビにそらした。
「私は、テレビに興味はない」と、幸田が素っ気ない答えを返してきた。
「わたし、日本の民放番組、見たいです。アメリカではNHKしか放送していないので」
アメリカにいてもネットで見逃し配信を見られるのでなないかと思うのだが、ここはミツキのフォローに素直に感謝することにする。ただ、テレビの話は、もう止めよう。
「『M』から寝袋を三つ預かってきたから、それで、みんなで川の字になって寝よう。キャンプみたいで、楽しいぞ。それから、こっちの袋は、ミツキとあたしの着替えだ。『M』がタナシロで買いそろえてくれてあった。これで、汗臭い下着とオサラバだ」
「あぁ~、良かった。山の中で着ていた服が痛んでしまったので、助かります」とミツキが心からホッとした顔になる。
厄介な荷物を運んできた甲斐があったとアオイは思った。重くはないがかさばる寝袋三つを本格的な登山用リュックに詰めてもらい、加えて、アオイとミツキの着替えを詰めた大袋も持たせてもらったから、電車での移動は楽ではなかった。
「今気づいたが、腹が減っている」幸田が唐突に言った。
「確かに、たくさん歩いて、お腹空きましたね」ミツキが言う。
「駅前に寿司屋があったな。景気つけに、寿司でも、食べるか?」
アオイは、「寿司は、満腹になる前に、口の中が、生臭くなって、食べ飽きる。中華屋もあった。あっちにしよう」と言ってから、しまったと思った。疲れてやっとここにたどり着いたミツキと幸田の好きなものを食べるのが思いやりだ。それを、自分の都合を言って。
「やっぱ、あたしも寿司がいい」と言い直そうとしたら、ミツキに「そうですね。山道でエネルギーを一杯使ったから、中華の方が元気回復できそうですね」と先回りされてしまった。あたしは空気を読まな過ぎだけど、ミツキは、読み過ぎだ。
「お姉ちゃんのウソつき!」
ミツキの身体から、カスミの声が飛び出した。
「お姉ちゃんは、本当は、お寿司が大好きだ。それなのに、アオイが中華だって言うと、すぐに調子を合わせる。イイ子ぶりっ子だ」
「カスミ君、君は、どうなんだ?」幸田がカスミに水を向けたから、アオイは驚いた。
「あたしは、中華より寿司だ」
「ごめんなさい。この子、食べ物のことになると、抑えがきかなくて」カスミが消え入りそうな声で謝る。
「では、寿司にしよう。今日のヒロインは、ミツキ君とカスミ君だからな?」
「賛成。寿司だ、寿司!」カスミが子どものような声を出し、ミツキが頬を赤らめた。
アパートを出たミツキは、元気よく歩き出す。カスミがせかしているのだろう。ミツキと少し距離があいたところで、アオイは幸田に近づき、小声で尋ねた。
「幸田、あんた、カスミと、前より近づいてないか? なんかあったのか?」
幸田がかすかに聞き取れるような声で「驚くなよ。絶対に、声を立てるな」と言った。
「カスミ君の身の上話を聴いた」
「えーっ」と声を出そうとするアオイの口を幸田の手がふさいだ。幸い、ミツキはアパートの前の狭い通りを右に曲がったところだ。
「どんな話だ?」
と、アオイが今度は声をひそめて尋ねる。
「中身は言えない。個人情報だからな」幸田がぶっきら棒に答えた。
アオイは、幸田がカスミに誠実に向き合おうとしていることに、軽い嫉妬を覚えた。
しかし、幸田がそういう誠実な人間だから、アオイ自身も、ある一つの事柄を除いては、自分の事を幸田に包み隠さず話してこられたこと、それで、大いに救われてきたことを思い出した。
カスミとアオイが良く言って停戦状態で、カスミとミツキが姉妹であってもギクシャクしたところがあることを思うと、カスミが幸田に心を開けるのは、このチーム全体にとっては良い事だ。実務的に出来上がっているアオイは、そう思って自分の些細な嫉妬心を追い払うことができた。
こうして、三+一人は、勇んで、駅前の寿司屋に向かった。
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