59.アオイ/慧子
文字数 2,347文字
「人里離れたところで自然に囲まれて暮らすのも、良かったなぁ」とつぶやくと、ダイニングキッチンのテーブルでココアを飲んでいた慧子が、
「雪深い山の中で暮らすのは、大変よ」
と、読んでいた新聞に目を向けたまま言った。
慧子は、「シェルター」に加わっても整形手術をしていなかった。「世話役」達が、用心棒を務めるには顔が売れているほうがいいだろうと、妙な理屈をつけたからだ。慧子は「顔を変えてもらったあとに使おうと、御前崎燈子という偽名も決めてあったのに」と残念がったものだ。慧子が子ども時代、父親に連れられて国内の灯台巡りをしたことを、初めて聞かされた。
「脳神経科学の研究者だった母は、私の夏休みも研究所にこもりっきりだった。大学で日本の近代史を教えていた父が時間を作って、全国各地の灯台に連れて行ってくれた」
慧子は遠くを見るような目でアオイに話してくれた。もっとも、「どうして灯台なんだ?」と訊くと「さぁ? 父も理由は言わなかったわね」という答えしか返ってこなかった。
「結局、その父は、私たちを捨てて消えてしまったけどね」とつぶやいた時の慧子の表情がアオイの目に焼き付いていた。
「アオイは、雪降ろしをしたことあるの?」
慧子が新聞から目を離さずに尋ねてきた。
「ない」
「私もないけど、雪国育ちの友達から聞いた話では、本当に重労働だそうよ。屋根から滑り落ちる危険もある。でも、やらなかったら家がつぶれて生き埋めになるかもしれない。雪国の生活は命がけだわ。ミツキさん、カスミさん、幸田さんは、苦労するでしょうね」
アオイは窓のそばを離れ、キッチンでカップにココアを注ぐと慧子の向かい側に座った。
「でも、『シェルター』の用心棒稼業も命がけじゃないか?」
慧子が新聞を置いて、アオイを見た。
「毎日が命がけというのとは違う。誰かが襲われそうになった時だけ、出張っていって身体を張ればいい。普段は、好きな本を読んだり、DVDレンタルで映画を観たりしていられる。極楽だわ」
アオイは、慧子の腑抜けた言葉に驚いた。一七歳でアメリカに渡り、アメリカ人と競って一流大学を卒業し研究に打ち込んできた人間の言葉とは、とても思えない。そこを指摘すると、慧子は、
「私は、勉強しすぎた。働きすぎた。研究に熱中しすぎて、『禁断の兵器』を生み出した。立ち止まって、考え直す必要がある」
と言った。言ってから、はっとした表情でアオイを見る。
「『禁断の兵器』――あたしとミツキのことね」
「アオイ、ごめん。そういうつもりでは……」
「ねぇ、慧子、あんたは、あたしを兵器に改造したことを悔いてるよね」
慧子がうなずく。
「人類に対しては、大いに罪の意識を感じな。でも、あたしは、あんたを恨んでないよ」
「アオイ……」
慧子がまじまじとアオイを見つめてきた。
「あたしの放電能力は、最初はあんたから押し付けられたものだった。でも、今は『あたしのもの』だ。この力があるという前提で、あたしは生きてる。今さら、この力がどこから来たかなんて、気にするつもりはない。ただ、あたしが放電能力について祈ってることが、ひとつだけある」
「それは、何?」
「使ってしまった後で、『しまった、やりすぎた』と青ざめるような使い方だけはしたくない。あたしは、危険にさらされると意識するより速く放電する。それが適切な正当防衛かどうか、 事前には判断できない。あたしは、あたしの身体が過剰防衛しないことを祈ってる」
慧子は、アオイに返す言葉がなかった。脳科学的には、人間の全ての動作がそれを行おうと意識するより前に始まっていることが立証されている。
しかし、今、そのことをアオイに話しても、アオイをより不安にさせるだけで、何の助けにも慰めにもならないだろう。
その代わりに、慧子は、こういう機会でなければ口に出来そうにない思いを伝えることにした。
「アオイ、万一、あなたが放電能力を使い損なうことがあったら、その罪は私が一緒に背負う。あなたには迷惑だろうけど、私はあなたの母親のつもりでいる。そんな私に、あなたの罪を分かち合うことを許してちょうだい」
アオイは、嬉しかった。しかし、普段の慧子らしからぬ感情のこもった言葉に、気持ちが引いた。いや、照れた。
「慧子、それ、重い。重すぎるって。そういうの、あたし達の間では、止めよう」
言ってしまってから、自分がひどく慧子を傷つけたのではないかと不安になった。慧子の顔をじっとうかがう。
慧子は、一瞬、棒を飲んだような顔になったが、すぐ唇の端に笑みを浮かべた。
「ちょっと、臭かった?」
「臭かった。息が詰まったぞ」
「そうか、アオイを窒息させかけたか」
慧子が顔全体で微笑んだ。
不意に、アオイの目の中に温かいものがあふれてきた。泣くな、アオイ。慧子のせっかくの 言葉をつっぱねておいて、ここで泣くのか? それは、ないだろう。泣くな、アオイ!
しかし、こらえていた涙は、一気に顔を伝って流れ落ち始めた。
「私はココアをお代わりしてくるけど、アオイもいる?」
慧子に訊かれてうなずくと、涙がテーブルにこぼれた。
「じゃあ」と慧子が立ち上がると、アオイはこらえきれなくなって、テーブルに突っ伏し、声を上げて泣き始めた。
慧子は、泣いているアオイの前にココアのカップをそっと置き、ベランダに出た。空気は身を切るように冷たかったが、風のない穏やかな冬の日だった。
【おわり】