35. 沈む幸田/「X」の目論見
文字数 4,076文字
ミツキが皆の弁当の空き柄を台所に捨てて戻ってくると、幸田が重たい口調で「みんなに知らせがある。悪い知らせだ」と言った。
アオイは、「悪い知らせ」という触れ込み以上に、幸田の表情が気になった。顔色が冴えず、目がどんよりしている。
幸田はふた月に一度くらい、自分からは一切話をしなくなり、アオイが話しかけてもから返事ばかりの「引き込もり」状態になる。たいてい一週間くらいで元に戻るが、二週間ほど調子が悪かったこともある。それが、何らかの精神疾患のせいだということは、先日幸田から聞かされて知った。
振り返ると、幸田が「引きこもり」になる直前は、今のようなドンヨリ感を濃厚に漂わせていた。今回も、ちょっと危なくなっているのかもしれない。
幸田の隣に座っていたアオイは、身体を少し幸田に近づけた。幸田が生気のない目でアオイを見る。手を握ってあげたかった。でも、ミツキの前でそうすることはためらわれた。
その時、「幸田さん、悪い知らせは、さっさと、みんなで分け合おう」とカスミの声がして、アオイを驚かせた。呼び捨てでなく、「さん」づけになっているし、いつもの突き放した、けんか腰の口調と違ってざっくばらんな中に気遣いのようなものが感じられる。これが、幸田に身の上話をしたことの効果なのか?
「そうだな。もったいつけたら、悪い状況が良くなるわけじゃない」幸田が自嘲気味に言う。アオイは、もう、ためらわなかった。幸田の手に、そっと自分の手を添えた。「え」とミツキが小さく声を出し、それを打ち消すようにカスミが「本題に入ろう」と言った。
「よし、本題だ」幸田が自分を奮い立たせるように言った。
「これを見てくれ。今朝七時半ごろ、ネットに投稿された動画だ。撮影された場所は、日の出山の中腹だ」
幸田が、自分のスマホをアオイ、ミツキ、そしてカスミの前に差し出す。そこには、幸田がテレビで見たのと同じ銃撃戦跡の動画が映っていた。「M」がネットから彼女の「飛ばしスマホ」にダウンロードして、幸田に送ってきたのだという。
「これ、フェイクでしょう?」とミツキが不審そうに言う。
「お姉ちゃん、フェイクだったら、幸田さんが、こんな暗い顔してないよ」とカスミに言われて、ミツキが「そうだった、ごめんなさい」と身体を小さくする。
「いやぁ、フェイクと思うのが、普通だよ」
幸田がミツキに力なく微笑んでみせた。
「ところが、本物だった証拠に、一時間ほど前に警視庁がこの映像に関して緊急会見をした。現場で大量の大麻が入ったアタッシェケースと散乱した現金が発見されたことから海外系マフィア同士の麻薬取引がこじれて銃撃戦に及んだと考えられるという見解が発表された」
「動画がフェイクなら、警視庁がわざわざマフィア同士の抗争だなどと発表する必要ありませんね」
とミツキが納得する。
「このマシンピストルをみてくれ」
幸田が動画を止めて、地面に落ちているマシンピストルを拡大して見せる。
「ヘッケラ―&コッホ社のMP5といって、アメリカをはじめ西側の軍隊や治安機関が使っているものだ。武器の闇市場には、ほとんど流れていない。そこらのマフィアや暴力団が簡単に手に入れられる代物ではない」
カスミが「この銃を持っていたのはCIAである可能性が高い。そして、CIAだとしたら」と言いかけて、止める。
ミツキが肩を落として後を引き取る。
「私たちが殺したイノシシの映像がネットにアップされてCIAの目に留まったのね。だから、CIAは、私たちを探しに日の出山に行った」
アオイは「ちょっと待って」と割って入る。
「CIAが、あたしたちを目当てに日の出山に行ったとするわよ。じゃあ、そのCIAと撃ち合いをしたのは、誰なの?」
幸田とミツキの顔を交互に見ているうちに幸田の表情がますます暗くなるのに気付いたアオイは「あ、ごめん、余計なことでした」と詫びて、幸田の手に添えた自分の手にそっと力を加えた。
「いや、余計どころか、大事な疑問だよ」
幸田が自分を励ますように言った。
「あたしたちを追ってるグループが、CIAからあたしたちを横取りするためにCIAを攻撃したんなら、わかるわよ。でも、CIAは、まだ、あたしたちを探しているところだった。何のためにCIAに手を出したのか、わかんない」
大事な問題と言われても、アオイは、この状況をどう理解したらよいのかわからない。
「CIAが、もう、あたしたちを捕まえていると勘違いしたんじゃないの?」とカスミ。
「CIAがあたしたちを探すのを妨害した可能性もあるわ」とミツキが言った。
「妨害?」アオイが訊き返す。
「ええ。こうやってテレビで報道されて、米軍用の武器が使われたことまで知られたら、CIAは、日本では動きにくくなると思う」
ミツキが、ひと言、ひと言、自分の考えを確かめるように言った。
幸田が「私もミツキ君と同じ考えだ」と引き取った。
「おそらく、CIAが交戦した相手が銃撃戦の跡を撮影してネットに投稿したのだろう。そいつらは、自分たちが闘った相手がCIAだと示すために、ヘッケラー&コッホの銃をしっかり撮影した」
「でも、CIAなら、動画を削除することができたんじゃない?」カスミが尋ねる。
「この手の動画は、光速並みのスピードで拡散するのよ。さすがのCIAも削除しきれなかったのだと思う」ミツキが答える。見た目は、同じ人間が質問者と回答者を兼ねているわけで、この状況でなかったら笑えたかもしれない。
アオイは、警視庁も、さぞ慌てただろうと思った。
「山の中でド派手な銃撃戦なんて、平和国家ニッポンのイメージがぶち壊しじゃない。あたしが警察だったら、絶対にマスコミに知られないようにして、ネットの映像はフェイクだと言い通すけどな」
「でも、現場で警察の態勢が整わないうちにマスコミが駆けつけたら、警察は事件をもみ消せないわ」ミツキが言った。
カスミが「それだよ、お姉ちゃん、CIAを襲った連中は、マスコミにも、事件のことタレ込んだに違いないよ」と賛同する。
「私も、ミツキ君、カスミ君と同じ意見だ。私が八時半にテレビをつけた時は、朝のワイドショーで現場中継をしていた。動画がネットに投稿されてから、わずか一時間だ。そんな短時間で、報道スタッフと機材を日の出山に送りこめるとは考えられない。事件現場の映像がネットに投稿される前に、マスコミに情報が流されていたのだと思う」
なるほどと、アオイはうなずく。CIAの隠密作戦を明るみに出すのが目的なら、動画のネット投稿に加えてマスコミを引き寄せる細工もするだろう。
アオイに、ふと疑問が浮かんだ。
「あれ、CIAを襲撃した連中がマスコミへのタレ込みとネットへの動画掲載をしていたとしたら、そいつらは、CIAを待ち伏せしていたことになる。てことは、CIAから情報が漏れてたってこと?」
「そうなるわね」と、ミツキが答える。
「CIAがあたしたちを探しに来た。そのCIAを待ち伏せした連中がいた。そいつらは、CIAを襲撃して、CIAが日本で極秘作戦を展開してることをばらして、CIAが動けなくしようとした。それは、そいつらが抜け駆けしてあたしたちを捕まえるため? なんだか、込み入った話ね」
アオイの頭は、混乱し始めていた。
「CIAを襲った人たちをXと呼ぶと整理しやすくなるわ」とミツキが言う。
「Xの最終目的は、CIAと同じで、私たちを捕まえること。でも、XにはCIAと協力する気持ちはない。それどころか、CIAを出し抜いて、先に私たちを捕まえようと考えた。そこで、CIAを待ち伏せし、マスコミにはあらかじめ事件が起こると予告しておいた。CIAにダメージを与えて、その跡を撮影してネットに投稿する。こうやって、CIAを動きにくくしておいて、私たちを捕まえに来ようとしている」
こうしてミツキに説明してもらうと、アオイも頭の中が整理されてスッキリする。
「でも、お姉ちゃん、お姉ちゃんが言ったとおりだとすると、Xは、CIAにつきまとわなくても、自力であたしたちを見つけられる自信があるってことになるよ」とカスミが言う。
「それが、不気味なところなんだ。CIAが私たちを探り出す方法なら、おおよそ見当がつく。NSAの電子的監視網で網を絞り、最後は、アオイが発進している生体情報を追ってくるだろう。だけど、Xがどういう手段で私たちの居場所を突き止めようとしているかは、見当がつかない」
幸田が沈んだ声で言う。
「しかも、私たちはXの正体を知らない……」とミツキ。
「アメリカ以外の国の諜報機関、テロリスト組織……?」とアオイが挙げると、幸田が「国際的な軍事情報ブローカーや武器商人という可能性もある」と付け加えた。
「追手の正体がわからないというのは、嫌なものね」と言っておいて、アオイは幸田の顔を見た。暗い影がいっそう濃くなったような気がする。あたしが口にしなくても幸田は十分心配しているのに、余計な事を言った。
アオイは、幸田の手に添えた手に軽く力を加えた。幸田が少し手を動かして応じてきたので、驚いた。
「まぁ、こうなったら、相手が誰だろうと、肚をくくって、闘い抜くしかないわね」
カスミが、いつもならアオイが口にしそうな事を言った。
「あれ、カスミ、あたしたちと一緒に闘うって、決めたの? もし、相手がCIAと国防総省でも闘うの?」
「当り前じゃん、ねえ、お姉ちゃん」
「はい、引き続き、よろしくお願いします」
ミツキが頭を下げた。その姿は神妙だったが、声は弾んでいた。