第10話 贅沢貧乏

文字数 1,798文字

 掃除が苦手です。
 いざ、やりはじめるとそうでもないのですが、とりかかるまでが長いのです。さっさと始めればよいものを、うだうだしているので余計にめんどくさくなってくるという悪循環。

 以前、住んでいた家では、床を拭くのに雑巾(ぞうきん)を使っていました。バケツに水を()んで、濡らした雑巾をかたく絞ってせっせと床を拭くのです。むかしながらの拭き掃除。
 それが、いまの家に越してきてからは、市販されているお掃除シートを利用するようになりました。試しにいちど使ってみたら、あら便利。いまでは常備しております。

 そういえば、作家の森茉莉さんが著書のなかで、
 「雑巾を使うなんて不衛生きわまりない」
 といって、ティッシュで拭き掃除をしていたような覚えがあります。たぶん濡らして拭いていたのでしょう。いまではあたりまえに出回っているお掃除シートですが、そう考えると、森茉莉さんは時代を先取りしていたのですね。
 さきほどの発言からすると、彼女はとてもきれい好きでお部屋もピカピカにされているのだろうな、と思われるかもしれませんが、うーん、決してそんなことはなかったようです。

 そもそも、森茉莉さんは、あの文豪・森鴎外の愛娘として、蝶よ花よと大事に大事に育てられました。
 作家として、軍医として、森鴎外にはなんとなく厳しいイメージを持っていたのですが、森茉莉さんのエッセイにかかれば、かの文豪も娘にめろめろなふつうの父親でしかありません。
 「お茉莉(まり)は上等、上等」
 と目に入れても痛くないほどのかわいがりぶり。
 パッパのお茉莉、と溺愛され、たとえなにをやらかしても叱られることなく、ただひたすらに「上等、上等」。
 そのおかげでパッパのお茉莉は、掃除や洗濯、裁縫(さいほう)などといった、生活していくうえで必要な家事いっさいを身につけることなく育ち、
 「それなら、裕福な家に嫁がせれば、家事ができなくても困ることはないだろう」
 と考えたらしい父親によって、仏文学者のもとへ嫁ぐことになったのです。
 どえらい親バカぶりです。
 このとき、森茉莉さんは十六歳。

 その後、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、彼女は二度の離婚を経験し、ひとり暮らしを始めます。このときすでに森鴎外は亡くなっており、年月の経過により父親の印税も入らなくなったため、森茉莉さんは自身の作家としての原稿料を頼りに、かつかつの暮らしを送ることになりました。
 後年の彼女の暮らし向きは、決して裕福なものとはいえませんでした。けれども、彼女ほど、おのれの境遇に左右されることなく、好きなものに囲まれて、こころ豊かに人生を楽しみ、天寿をまっとうしたひとはいないのではないかと感じられます。

 森茉莉さんの部屋には、とにかくものがあふれていたようです。それも、整理整頓(せいりせいとん)されていないため、なにかを取るためにはなにかを()けなければならないようなありさまだったといいます。

 雑巾は汚いといいながらも、なかなかの汚部屋ぶりです。

 ですが、森茉莉さんにとっては、好きなもの、うつくしいものたちに囲まれた、唯一無二(ゆいいつむに)の彼女のお城。彼女の手にかかれば、ただのガラス(びん)も、(はた)から見ればがらくたにしか見えない小物も、すべて魔法にかかったように、それぞれの物語をあたえられてたちまち輝きだすのです。

 ただの空想癖といってしまえば、それまで。
 夢をみるのはそのひとの自由です。

 決してやさしくはない現実をまえに、それでも彼女は人生を諦めて屈することはなかった。
 壁や天井の薄汚れた染みも、彼女の目にはちゃんと映っていたけれど、それらが彼女の豊かな生活に影を落とすことはなかった。

 わたしがまだ若かったころ、鈍器(どんき)のように重たい『森茉莉全集』を2冊ずつ、図書館で借りて、大事に抱えて帰ったのはよい思い出です。あとにも先にも、あんなに重たい本を借りることは、たぶんもうありません。

 森茉莉さんとは対極に、わたしは周りにものを置きたくない性格なので、彼女のお城を想像するだけで「掃除たいへんそう」と、至極、現実的な感想しか出てきませんが、彼女のこころの()りかたには惹かれるものがあります。

 ものの豊かさとこころの豊かさはイコールではない、とはよくいわれますが、最後に森茉莉さんのこのことばを載せて、今回はおしまいとさせていただきます。

 だいたい贅沢というものは、
 高価なものを持っていることではなくて、
 贅沢な精神を持っていることである。
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