第27話 カッコウの托卵

文字数 4,228文字

 ここにひとりの女の子がいるとします。
 仮に、名前を「しのちゃん」としましょう。

 ちなみに「しの」というのは、桐乃が好きなまんがの主人公の名前です。漢字で「信乃」と書きます。男の子です。あべ美幸さんの『八犬伝 東方八犬異聞』というまんがですが、ご存じでしょうか。タイトルからおわかりのように、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『南総里見八犬伝』を元にして描かれた作品です。
 桐乃は本家の『南総里見八犬伝』を読んだことがないので、どの程度、内容がリンクしているのかはわからないのですが、とてもおもしろいまんがです。なんといっても、絵がきれい。日々、電子書籍に移行しつつある桐乃家本棚のなかで、唯一、紙の本で全巻揃えているまんがなのです。

 あ、今回のお話に『八犬伝』は関係ありません。いまのお話は余談です。のっけからすみません。
 では、本題に入りましょう。

 しのちゃんは、ひとりっこです。ひとりっこというのは、ほかに兄弟がいないこども、という意味です。
 お父さんとお母さんと、三人家族でした。
 過去形です。
 ある日、お母さんはいなくなりました。
 そして、お父さんとふたり家族になりました。

 それからしばらくして、お母さんから連絡がありました。
 「こっちへきて、いっしょに暮らそう」
 と、しのちゃんを誘うのです。
 しのちゃんは迷いました。お母さんには会いたい。けれど、お母さんはいま遠いところに住んでいるらしいので、いっしょに行くとなると、しのちゃんはお父さんやお友だちとさよならをしなくてはなりません。
 お母さんは、しのちゃんがすぐに来ると思っていたのでしょう。迷うしのちゃんにイライラしたように、こう告げました。

 「あんた、お父さんと血繋がってないよ」

 寝耳に水です。
 お母さんいわく、しのちゃんがまだうんとちいさいときに、知り合いからいまのお父さんを紹介されて、再婚したというのです。
 「あんたが最初に『おとうさん、おとうさん』ってあのひとに懐いたから」
 しのちゃんが、いまのお父さんを選んだと、そうほのめかします。

 ショックでした。しのちゃんはもちろん、ほんとうのお父さんだと思っていたからです。
 その夜、お仕事から帰ってきたお父さんに、しのちゃんは尋ねました。
 「お父さん、しのの、ほんとうのお父さんじゃないの?」

 いま思えば、なんて残酷なことを聞いたのでしょう。時間を巻き戻せるなら、しのちゃんの口を塞いで部屋に連れ戻して、こんこんと話して聞かせたいくらいです。
 お父さんはしばらく黙っていましたが、やがて、しのちゃんのことばを認めました。
 そして、お母さんがしのちゃんと暮らしたいと連絡してきたこと、しのちゃんを説得するために、お父さんと血が繋がっていないことを持ち出してきたと知ると、ふだん無口で温厚な性格のお父さんは、怒り心頭(しんとう)に発する、といったようすで反撃に出ました。

 家庭裁判所で、親権争いがはじまります。
 当然、勝手に出ていったうえ、経済力の乏しいお母さんに勝ち目はありません。あえなく玉砕(ぎょくさい)となり、養育費まで請求される羽目になりましたが、まあ、自業自得でしょう。
 けれども、お父さんやしのちゃんがうっすらと予想したとおり、養育費の支払いは、最初の一、二回で途切れ、そのまま踏み倒されることとなります。

 そのままお父さんのもとで暮らすことになったしのちゃんに、お父さんはいいました。
 「おまえは女の子じゃけえ、わしひとりではよう育てきらんかもしれん。じゃけえ、広島のおばあちゃんのとこに預けようかと思うとった。ほいでも、お母さんとこに行ったらおまえ、いいように働かされて金づるにされるだけじゃ。ここへおれ」

 ベタベタの方言ですが、おわかりいただけるでしょうか。
 最後の「ここへおれ」は「ここにいなさい」という意味です。
 ちなみに、広島はお母さんの実家です。お父さんの両親はすでになく、実家もありません。

 しのちゃんは、うん、とうなずきました。

 しのちゃんとお父さんが暮らすアパートには、お母さんが残していった荷物がそのまま置いてありました。
 あるとき、しのちゃんは箪笥(たんす)の引き出しから、母子手帳とへその緒を見つけました。
 ぜんぶで、三つずつ、あります。
 しのちゃんは、ひとりっこではなかったのです。
 三人きょうだいの、末っ子でした。
 生まれは三人きょうだいの末っ子ですが、育ちは、完全なひとりっこ。この場合、ひとりっこといってよいでしょう。人格の形成は育った環境に左右されるものと桐乃は考えておりますので。

 そういうわけで、しのちゃんには、おねえちゃんと、おにいちゃんがいるようです。もちろん、ほんとうのお父さんも、べつに存在することになります。でもたぶん、会うことはないでしょうし、とくに会いたいとも思いません。
 しのちゃんの家族は、いまのお父さんだけでじゅうぶんなのです。

 そのお父さんとのお別れは、思いがけず早くやってきました。
 喪主はしのちゃんが務めました。
 お父さんの親族とはほとんど面識がありません。お通夜から葬儀に至る二日間、顔を合わせただけで、このひとたちと関わるのは無理だな、と思うことが多々あったため、その後、しのちゃんは親戚づきあいをいっさいしておりません。

 しのちゃんのお母さんが再婚であったように、じつは、お父さんも再婚でした。まえの奥さんと、血の繋がったこどもがいて、お父さんの位牌(いはい)などお仏壇関連のものはすべて、そのまえの奥さんが引き受けるということになりました。それは奥さんがいいだしたことで、しのちゃんはあまり乗り気ではありませんでしたが
 「お仏壇や法要のめんどうをひとりで見られるのか」
 といわれてしまうと、たぶんできない、と思い、手放しました。
 その過程で、本来ならしのちゃんがやらなければならないことを、まえの奥さんに引き受けてもらうのだから、礼儀として、頭を下げなさい、と親戚一同のまえで強要され、しのちゃんはしぶしぶ「よろしくお願いします」と畳に手をつきました。
 屈辱、というものを、しのちゃんはこのときはじめて感じました。

 こうして、しのちゃんはひとりきりになりました。

 お父さんは、借金もない代わりに貯金などもなく、それがかえってよかったのかもしれません。遺産相続で揉めることもなく、しのちゃんはだれに縛られることもなく、自由なままでした。未成年でしたが、アルバイトをしていましたし、ひとり暮らしをはじめるのに不自由はありません。
 ただ、しのちゃんの家族は、もういません。

 あるとき、しのちゃんは、カッコウの托卵(たくらん)というものを知ります。
 カッコウという鳥は、ほかの鳥が卵を産んだ巣に入り込み、そこにあった卵を蹴落として自分の卵を産みつけると、そのまま、ほかの鳥に自分の卵を、産まれたヒナを育てさせるのです。卵を取り替えられたとも知らず、親鳥はわが子と思って、せっせとヒナを育てます。
 しのちゃんは、自分のお母さんはまるでこのカッコウのようだと思いました。生むだけ生んで、あとは他人まかせ。
 そして、自分はこのカッコウのヒナのようだ、と思うのです。
 自分以外の卵やヒナを蹴落として親鳥の庇護を独占する、カッコウのヒナ。

 そう考えると、お父さんの親族やまえの奥さんが、しのちゃんを冷ややかな目で見るのも仕方のないことなのかもしれません。田舎はとくに、血族意識が強いのです。
 彼らにとって、しのちゃんはよそ者なのです。
 
 お父さんは、どうだったのだろう、としのちゃんは思います。
 ほんとうはしのちゃんを手離したかったのではないでしょうか。責任感のあるひとだったので、やむなく手許に置いて育てることにしたのかもしれません。
 たしかなのは、お父さんのおかげで、しのちゃんはこうしてまっとうに生きていられるということです。お父さんがいなかったら、もしかしたらしのちゃんはいまごろ、お日さまのしたを歩けない暮らしを送っていたかもしれません。
 いくら感謝をしても足りないほどです。

 血の繋がりがすべてではない。そのことを、しのちゃんのお父さんは身をもって証明してくれたのです。たとえ血が繋がっていても、こどもを愛さない親は存在します。逆もまた(しか)り。

 しのちゃんは自分を不幸だとか、そういうふうに思うことはありません。しのちゃんにはお父さんがいましたし、ひまわりちゃんという心強い幼馴染みもいてくれます。

 ***

 このお話は、前回の『ひまわりの記憶』と対になるもので、あちらが光なら、こちらはいわば闇。
 ひとにはそれぞれ、しあわせな記憶と、思い出したくないようなつらい記憶があるのではないかと思います。
 禍福(かふく)(あざな)える縄の(ごと)し、ともいいます。

 そのひとが抱えるつらさ、しんどさは、本人にしかわからないものかもしれません。(はた)から見れば、のほほんとしてしあわせそうなひとでも、心の奥底には傷を抱えているかもしれません。
 たとえば、自分が不幸だから他人のしあわせが憎い、とか、どうしてそういうふうに思ってしまうのか、以前から不思議に思うのです。
 他人のしあわせと、自分自身が不幸だと感じることに、因果関係があるのでしょうか。世界じゅうで、あらかじめ、しあわせと不幸の数が決まっていて、しあわせなひとが増えると自分の取り分が減ってしまう、とでもいうのでしょうか。そんなアホな。

 自分が現状に満足できないからといって、その腹いせを、しあわせそうな他人へ向けるなんて、短絡的にも程があります。
 もし仮に、自分が恵まれない環境に置かれたとして、だけどそれがほかのだれかを傷つけるための免罪符には決してならない、とわたしは思うのです。
 反対に、たまたま恵まれた立場にいるひとが、自分はとくべつだと思い違いをして、恵まれない環境にいるひとを見下(みくだ)すようなこともあってはならない、と思います。

 いま自分が置かれている立場は、その環境は、絶対的なものでしょうか?
 この世に、変わらないものなど存在しない。
 よくも悪くも、すべては移ろうもの。

 だれにでも、光と闇は存在します。
 闇といっても、悪いことばかりではありません。
 闇が落ち着く、そんなときもあるでしょう。
 わたしはあります。
 でも、闇はすぐに、すべてを呑み込もうとしてきます。
 油断していると、あっというまに。
 そのときは、闇をうちはらう強さを持ちたいものです。
 自分自身のために。
 大切なだれかのために。
 
 
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