第32話 悲しみはあとからやってくる

文字数 1,677文字

 喜怒哀楽(きどあいらく)ということばがあります。これは文字どおり、主に四つの感情を表すことばです。
 このうちの三つ、「喜・怒・楽」については、わりと明確に表れやすいように思うので、
 「ああ、自分はいまうれしいんだな(喜)」とか
 「もう、信じられない。どういうことよ(怒)」とか
 「めっちゃ楽しい~!(楽)」
 とか、リアルタイムで自分の感情を把握できる気がするのです。

 ところが、ひとつだけ、そうはいかない感情があります。
 「哀」という感情です。


 先日、ひさしぶりに母親から連絡がありました。
 (桐乃の母親については過去の日記『カッコウの托卵』をご覧ください)

 これまでもどきどき不在着信が残っていたりしたのですが、なにしろ仕事の時間が不規則なので、ずっと放置したまま結局スルー、というのがいつものパターンでした。
 ところが今回は、ちょうど二回めのワクチンを打ったあとで寝込んでいたので、リアルタイムで応対することになったのです。

 端的にいいますと、用件は「保証人になってほしい」。
 いま母親が住んでいる賃貸の契約更新の時期なのだそうで。これまでは広島の祖母(母親の実母)に保証人をお願いしていたらしいのですが、その祖母も数年まえに他界したため、わたしにお鉢が回ってきたわけです。

 アホか。
 と思いました。
 よくもいまさらのこのこと現れて(電話ですが)そんなことをいえたな、と。
 しかしなにしろ体調がよろしくないので、毒を吐く気力もなく。

 母親いわく、
「家賃はちゃんと払うし、迷惑かけへんから」
「あと、住民票がいるから」
「コンビニでも住民票取れるやろ」
「三連休だから郵便休みかもしれへんし、月曜日までに返事もろうたら書類送るわ」

  だれも引き受けるとはゆうちゃおらん。
 (だれも引き受けるとはいっていない。)

 母親は、その場でわたしが引き受けると甘く見ていたのか、わたしがなかなか「わかった」といわないので、
「月曜日にまた連絡するから」
 といってそそくさと電話を切りました。
 ああ、そのまえに、最後に取ってつけたように
「ゆっくり寝ぇさんよ」
 といっていましたが。

 なんで即座に断らなかったのか、と、通話を終えたあとでのたうちまわりました。副反応の症状が長引いたのは、このせいじゃないかと本気で思っています。

 電話で話を聞いている最中は、モヤモヤはしたものの、それがいったいなんなのかまでははっきりとわからなくて。そのあとしばらくして、ようやく気づきました。

 わたし、たぶん傷ついているんだ、と。

 いまになっても、わたしが自分の思いどおりに動くと母親に思われているらしいということ。
 他人から、

ということに。

 電話で、
「あんた住民票取ったことある?」
 と聞かれたので
「父親が死んだときに取った」
 と答えたら、それについては無視されました。
 都合の悪いことは聞こえないらしいです。

 だれかのなにげないひとことが突き刺さったとき、すぐにはそれがなんなのか、理解できないのです。すくなくとも、わたしの場合。
 ずっとモヤモヤを引きずって、あるときにふと気づくのです。
 ああ、わたし傷ついているんだ。
 悲しいんだ、と。

 そう理解したら、あとはもう、自分に突き刺さったままの(とが)った凶器をひっこぬいてそのへんに投げ捨て、傷口からどばどば流れる血を無造作(むぞうさ)(ぬぐ)い、傷がふさがるのを待つだけです。

 どんなに傷ついても、わたしにとって大切なだれかから受けた傷でないなら、致命傷にはならない。そんなもの、ただのかすり傷。

 だから、いまはもうなんともありません。食欲もばっちり戻りました。あんなのただのかすり傷です。体調不良で弱っていたところにまともに食らったから長引いただけで。

 翌日、こちらから電話をして保証人の件は断りました。
 母親はバツが悪いのか、不自然なほどあっさりと引き下がりました。これでもうしばらくは連絡はないと思います。あってももう出ません。

 楽しくない話をして申し訳ないのですが、どうかさらっと聞き流していただけましたら幸いです。
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